第12話 迫りくる罠、やがて絶望Ⅱ

「……降りそう、雨?」


「分からんな。だが、妙に湿っぽいので要警戒だろう」


 いつもは穏やかな夜を告げるはずの空は、何かを察したかのように異様な気配を放っている。


 だが、重たい空気とは裏腹に学生寮の一室は賑やかだった。


「うーん……エルア先生、一体どうしたのかな?」


 椅子を揺らしながらイリーナは独り言を呟く。結局、彼があそこまで焦っていた理由は分からず仕舞いだった。


「講師という職業は生徒との交流が多い反面、同年代や趣を同じくする者との関わりが希薄と聞く。そんな中でも、彼は精一杯頑張っているのだろう」


 クリスの淡々とした語り口は、思い悩む彼女の頭の中をより一層疑心の念で固めてしまった。


 そして、その意味を理解したミシェルが会話に加わる。


「……えっ、まさか恋愛関係の話だと思ってるの?」


「案ずるな、ボクたちが関わるような問題では無い。彼には彼の人生があるように、生徒たちには生徒たちだけの学校生活があるのだからな、っと」


 斜め上の予測を論じながら、彼女は懐から一つの石をイリーナに向けて手渡した。


「研磨を済ませておいた。魔石は本来消費物だが、初めての記念品なのだから、お守りに持っておくのも良いだろう」


 まさに淀みの無い芸術作品。イリーナとミシェル、二人の魔石はそれぞれ宝石のように輝きを放っていた。


 いつの間に、という疑問符を浮かべつつも、クリスの言葉に表さない優しさに彼女たちはお礼を告げる。


「ありがとう。失くさないように大事にするね、クリス」


「……皆まで言うな、大したことでは無いさ」


 見透かされているのに、彼女はそっぽを向いて顔を逸らそうとする。しかし、ここまで小さい結晶に自身の魔力が蓄積されているとは、にわかに信じ難い話だった。


「ねえ、これってもし使ったら消えちゃうの?」


眺めて、触れて、その存在をはっきりと確かめながら、イリーナはずっと気になっていたことを口にする。


「練度の低い物は一回こっきりだな。だが高い物は一度使っても消えることは無い。実際、ここにある灯りも光の魔石が使われているが、滅多なことでは消滅しないぞ」


 分かりやすい具体例を見せよう、とクリスは窓を開け放つ。


 湿っぽい匂いと生温い空気が部屋に入るのも意に介さず、彼女は自身の作った雷の魔石を手に取った。


「サンダー・レ・ムルバっ!」


「……ひょえっ!?」


 突然の轟音にイリーナたちが耳を塞ぐ。煌々と輝く稲妻は、そのまま真っ直ぐ夜の虚空に向けて飛び立っていった。


「ほら、消えない。魔法は経験を積む程その力が強くなるが、魔石もそれと同様、経験を重ねれば練度も上がるのさ」


 クリスの使った魔石は変わらない輝きを放ち続けている。


今までの戦いで薄々分かっていたが、他の生徒よりも経験を積んだ、ベテランの魔法使いである証拠だった。


「……って、今のは学校のルール的に大丈夫なの?」


「自然発生という設定で通してやるさ。ボクを舐めるな」


 何事も無かったかのようにそっと窓が閉められる。手順はともかくとして、魔石の練度の違いが分かる一幕だった。


「私も……あんな風にできるのかな?」


 イリーナは徐に鞄から杖を取り出した。丁寧に手入れされた杖は、激しい戦いを通しても傷一つ付いていない。


 だが、逆に言えばまだ経験が浅い象徴でもある。


「少しずつ強くなっていけば良いさ。ここには幸い豊富な魔道具と魔導書が揃っているし、それに……ボクだっている」


 杖を握る手が重なる。色んな道具に触れてきた、細いけれどしなやかな指先だった。


「ベルドール・エーレンドのようにはなれないかもしれないが、君は君にしか無い道がある、もっと自信を持て」


「クリス……」


 自分にしか無い道とは何だろう。それは、これから戦っていく上で見つけられるものなのだろうか。


 イリーナが言葉を絞り出そうとした時、不意に部屋の扉がノックされた。


「あれ、誰だろう?」


「こんな遅い時間に一体何の用だ。まったく……」


 首を傾げるイリーナを横目に、先陣を切ってクリスが前に出る。話を遮られたからか、少し不機嫌そうだった。


「おい、誰だ?」


 眠りを邪魔された子熊のように、ゆっくりと目を見開く。


 しかし、そんな彼女の険しい表情は一瞬にして凍り付くことになってしまう。




「ごめんなさい、ちょっと伝えたいことがあってね」


 全身の毛が逆立つ感覚がした。今日顔を見せたばかりの三年生、寮のリーダーを兼任するアセビ。


 数秒経って状況を理解したクリスは、勢い良く扉を閉めて机に置いてあった杖を手に取った。


「貴様の記憶を消去させてもらう、痛みは一瞬だ……」


「ちょっと待ってクリス、早まらないでっ!」


 まだ何も言われていないのに。状況を誤解してサンダー・ランスを展開する彼女を、二人が全力で止めに入る。


「自然発生の雷っていう設定じゃなかったの!?」


「止めるなっ! 謹慎処分を喰らいたくなければ手伝え!」


 先程の言葉が嘘だったかのように、我を失ったクリスが血走った目で槍を振り上げる。


 記憶を飛ばすどころか、突き刺してしまいそうな勢い。


「頭の堅い教師とその手下と化した憐れな生徒に……今こそ、裁きの雷を落としてやるぅぅっ!」


 そんな中、何も状況が見えないアセビは扉の向こうで起きている事態に恐れ戦いていた。


「えっと……お取込み中かな?」




 荒れ狂った部屋の片付けに勤しみ、客人を迎え入れるに相応しい状態に戻すまでに数十分は要してしまった。


「私たち三人に、討伐依頼ですか……?」


「正確には、そこに私も加わって四人体制での依頼だよ」


 もちろん、三人にとって上級生と共に戦うのは今回が初。


今までに無い驚きと同時に、どんな依頼だろうとイリーナは興味津々な様子だった。


「心配をして損したぞ。てっきりボクは、規則を無視して夜の学生寮で雷魔法を打ったことを咎められるのかと……」


「へえ、あれ何の音かと思ったら雷魔法だったんだね?」


「ゲフンゲフン……とにかく、話を続けてくれ」


 いつに無く真剣な面持ちで彼女が視線を向けるのは、ここから東の方角にあるボストレンの街。


 被害報告は既に、今この瞬間にも相次いでいた。


「ボストレンで魔獣の目撃情報が出ているみたい。正体、出自は共に不明で、民家や建物を壊されたという連絡が、まとまった地域に数件あるって」


「なるほど、ストーリアによる被害の可能性は高いな」


 一見すると以前の依頼と難易度はさして変わらないように見える。しかし、クリスはとある箇所に首を傾げた。


「……場所はボストレンか。向こうもかなり無理なオーダーを投げてきたものだな」


 どういうこと、とイリーナが聞き返そうとした。しかし、アセビの被せるような声が重なってしまう。


「だから私もついて行くの。これでも属性科の三年生なんだし、いざとなれば私が前に出てみんなを守るから」


 困った時は任せなさいと言わんばかりに、彼女は自身の胸をポンポンと叩いてみせた。


 溢れ始めていた緊張が、ほんの少し和らいでいく。


「みんな……一緒に依頼やってくれるかな? 激しい戦いにはなると思うけど、きっと私たちの力なら倒せるよ」


 視線がイリーナの方に向けられる。断る理由なんて無い、そこに彼女の歩むべき目標があるのなら。


「もちろんです。みんなの命を守るためにも、これ以上ストーリアには好き勝手させません!」


「私も行きます……いつも一生懸命戦うイリーナを放っておけませんから」


 ミシェルも同調し、クリスは言葉にこそしないが頷く。


 以前と同じメンバーと、そこに頼れる先輩のアセビが加わる。彼女の言葉通り、これなら強敵にも臆せず立ち向かえるような気がした。


「難易度は高いが、ストーリアは負の感情を溜め込めば溜め込む程強くなるからな。ある程度まとまった戦力があれば、早期解決にも繋がるって寸法さ……っと」


 クリスはそこでふと言葉を止める。あるべき物が無い。手持ち無沙汰な様子で彼女は辺りを見回した。


「すまないアセビ、そこのペンと紙を机から取ってくれ」


「……ん? はいどうぞ」


 どちらが年上か分からない聞き方だったが、紙はちょうどアセビの手の届く位置に置いてあった。


 一瞬だけ腕を伸ばし、互いに身を乗り出して手渡す。


「ボストレンに向かうのはいつだ? それに、馬車に乗る時間も聞いておきたい」


 普段はメモなんて取らないのに。不思議に思ったイリーナたちが目を丸くしながらも、アセビは静かに頷く。


「向かうのは二日後、馬車はお昼頃に出る予定だよ」


「分かった。それまでに準備を進めておくよ」


 心の準備をするには短い時間だった。だが、被害を食い止めるためには先手を打って出撃しなければ。


 クリスは微笑みながら、書き留めた紙を懐に仕舞った。


「ワズランドからは離れちゃうけど……みんな、今までの戦いを思い出して、精一杯頑張ろうね」


 こうして、突然舞い込んできた大きな依頼は正式にイリーナたちが引き受けることとなった。


「はいっ!」




「それじゃあみんな。依頼の日まで授業は無いけど、くれぐれも無理をし過ぎないようにね!」


 消灯確認、職員への報告。陽が落ちて学校が閉まっても、属性科の最終学年であるアセビの仕事は尽きなかった。


 明後日まで一旦は別れを告げる彼女に、イリーナは扉の前で大きく手を振る。


「夜更かしもしちゃダメだよ。おやすみなさい!」


「おやすみです、アセビさん!」


 階段に差し掛かり、姿が見えなくなるまで送り届ける。すると、背後で大きな欠伸が聞こえてきた。


「……眠いの、クリス?」


「ん、ああ。どうやら今日は魔力を使い過ぎたらしい。戦いが近いと言うのに迂闊なものだ」


 小さく頭を下げて背を向ける。先程部屋の中で暴れた光景が頭をよぎったが、敢えて口にはしないでおこう。


 きっと、彼女も見えない所で努力しているのだろうから。


「当日の計画は明日立てても遅くは無い。今日は取り敢えず休ませてくれ」


 健闘を祈る、と振り返らずにクリスは親指を立てた。


「了解……じゃあ、私たちはどうしようか?」


「特にやることも無いし寝ましょうか。何だかんだで、いつもより遅い時間にはなっちゃったしね」


 自室に戻る道のりで、イリーナはどこか引っかかりを覚えた。焦った様子のエルア、整然とした態度のクリス。


 頭では無く、感覚が何かの警告信号を告げている。


「うーん。これで良かったのかな?」


 その感覚が正しかったのだと気付くのは、皮肉にも依頼に向かった後のこととなる。




 自室で耳を澄ませると、先程は賑やかだった声がようやく静かになった。


「ちょうど良い頃合だな、彼女らはもう寝ているだろう」


 先に休むと告げていたはずのクリスは、先程とは打って変わって冷めた表情で一人の客人を迎え入れる。


 その相手は同じく下に降りたはずの、アセビだった。


「何だかちょっと意外だったね。いつもなら私を見るだけで逃げようとするクリスちゃんが」


「とぼけるな。ボクだって、好きで君を誘ったわけじゃない」


 皆が寝静まった頃、ボクの部屋に来い。メモを装って彼女に接近したクリスは、こっそり耳元でそう囁いていた。


 まさか、本当に一人で来てくれるとは思っていなかったが。


「依頼について引っかかった。本当はあの教師に聞きたかったが、君も事情を知っている様子だったのでね」


 同じ間取り、同じ造りの部屋。なのにまるで別物かのように、クリスの部屋は薄暗い雰囲気だった。


「参加したくない……ってこと?」


「逆だ。進んで戦いたいからこそ、鬱陶しい疑念はここで取り払っておきたいのさ」


 以前のルームメイトが過ごしていたスペースは、最初から誰もいなかったように魔道具が飾られている。


 でも影のように伸びる残り香は、その限りでは無い。


「……何故、一年生であるはずのボクたちにボストレンの依頼が来る? あそこは吹き溜まりの住処、本来は下級生が行くような所では無いはずだ」


 相手の一挙一動をクリスは観察する。流石に平静は保っているが、僅かに動く眉は誤魔化せなかった。


「以前の戦いで、三人はストーリアを倒したでしょう? あれが高く評価されて、上級生の付き添いなら難しい依頼でもこなせるんじゃないかって向こうが判断したんだよ」


 閉まり切った窓から雨音が聞こえてくる。なるほど、この理由で相手がイリーナなら納得されたであろう。


 だが、そのありきたりな答えは予測の第一候補にあった。


「言い訳だな。高い評価と難所への投入は必ずしも付随しない……それに、あの教師が許可するとも思えない」


 表情だけでなく、震える口も動きを止めた。守りが薄くなったことを見届け、クリスは容赦無く踏み込んでいく。


「戦力が投入できない理由は第三勢力の出現だな。視野の狭いお偉いさんは気付かなかったようだが、魔法使いが襲われた一件はもうあちこちで噂になっているよ」


 獣のようにこちらを睨むクリスは、既に核心を掴んでいた。


 理由を集め、証拠を探り、全てを揃えた上で確認という名目でアセビに切り込んでいる。


「第三勢力、って何のこと?」


「魔女狩りのことさ。ストーリアも魔法使いも、戦場に立つ者を全て殲滅する悪魔のような少女」


 その言葉を口にした瞬間、今度は嘘では無い本物の雷が夜の学生寮に破滅の音を運んできた。


「……君も実態は知っているのだろう? 元はこの魔法学校の生徒だった、行方知れずのならず者だ」


 消えかけていた灯りが一瞬完全に光を失った。喋りも動きもしない、無の時間が寝静まった学生寮に広がる。




「本当、クリスちゃんの目は誤魔化せないなあ」


 しばらく立ち直るための方法を考え、そして諦めたアセビの取った手段は白旗を上げる降伏のサインだった。


「そうだよ、ここ最近魔法使いが襲われてるのは魔女狩りの仕業。それに……今回の一件も、想像したくは無いけど魔女狩りが絡んでくるかもしれない」


 クリスは喜ぶわけでも、糾弾するわけでも無く、ただ無の表情で頷きながら天井を見上げていた。


 ああ、やはり彼女は誰にも止められなかったのか。


「どう、これで貴方の疑念は晴れたかな?」


「一応な……正直に答えてくれたこと、感謝するよ」


 改めて視線が合わさる。クリスの険しかった声色は、棘が抜けていつも通りの様子に戻っていた。


「それでさ。この情報を掴んで貴方は一体どうする気なの?」


 倒す、と言いう言葉が真っ先に頭をよぎる。だが、実際にクリスが放った言葉は想像と異なるものだった。


「その真意を明らかにして、止めてみせる。どのような事情があったかは知らないが、彼女が自分の都合で本来あるべき道を外していったのは事実だからな」


 それが、彼女がこの依頼を引き受けた一番の目的。


 ボストレンに魔女狩りは必ず来る。戦士のような凛々しい表情をしたクリスは、僅かな可能性に全てを賭けていた。


「短い期間ではあったが……あの子もボクの仲間だった。なら、決着を付けるのもこれまたボクの役目さ」


 瞳に映る魂、出で立ちに現れる信念。形容し難い威圧感を受けて、最終的にアセビはこう結論付けた。


「やっぱり変わらず頑固だね、クリスちゃんは」


「嫌な言い方だな。自分の軸を持っている、と表現してくれ」


 伝えたいことは山のようにある。説教も……そして感謝も。




「ボストレン行き乗合馬車、間もなくの出発です……」


 魔法学校の隣には、各方面に向かう馬車の停留所がある。


 常に多くの客で賑わう中、ボストレン行きの便に乗り込んだのはイリーナたちの他誰もいなかった。


「そういえば、みんなボストレンに行ったことってあるの?」


 張り詰めた空気とゆったりとした揺れに包まれる中、沈黙を破ってアセビが口を開く。


「無いですね。そもそもカルミラから出たことが無くて……」


「買い物に資源の調達、それに各方面のアクセス。ワズランドにいれば他の地域に住もうとは思わないな。ましてや、あのボストレンには」


 人から聞いた、本で読んだ。イリーナたちにとってのボストレンは、意外にもうっすらとした認識だった。


 だが、一人真実を知るクリスの反応は鋭く尖っている。


「あはは……確かにワズランドは魔法使いの街だし、私も依頼を受ける前はあまり縁が無かったかも」


 アセビの苦笑いと共に、馬を操る御者が視界に入った。表情が暗く険しいように見えるのは気のせいだろうか。


「あのっ、ボストレンって一体何があるんですか?」


 追及してはいけない。自身の第六感に責められながらも、好奇心に負けてイリーナは恐る恐る手を上げた。


 同じ国のはずなのに、どうして禁忌のように扱うのだろう。


「……元はスラム街と呼ばれていた。社会復帰が困難な人間が集い、自らの失敗を他者のせいにして抗争を繰り広げる。酒瓶と煙草で舗装された修羅の場所さ」


「こらこら。昔の人は変な噂を立てることもあるけど、今はそういう危ない人もごく一部だよ……」


 極端なこと言わないの、とアセビが付け加える。だが否定はしない以上、ワズランド程安全では無いのだろう。


「繁華街のエリアは若者にも人気だよ。実際、ここからでも通ってる人をたまに見かけるしね」


「へぇ、そうなんですね……」


 窓の外からはワズランドの雄大な街並みが広がっている。だが、歩く人は馬車が進む度に減っていく。


 それは以前、ストーリアの被害があった場所以上に。


「何か、段々人が少なくなっていくね……」


 ミシェルがその変わり様に釘付けになった。目に見えた危険度は少なくないが、嫌な気配と視線を感じてしまう。


「何かあった時はすぐ私に知らせてね。それと、一人ではあんまり行動しないこと」


 危険は無いと思いつつも、万が一に備えて忠告を受ける。


 今まで穏やかな口調を貫いていたアセビも、ほんの少し張りのある声色に変わった。


「……お待たせしました。もう間もなくの到着ですよ」


 そう言ってこちらに会釈した御者の目は、最も勘の鈍いイリーナでも分かるくらいに光が消え失せていた。




「ここが、ボストレン……」


 身構えながら降り立った一同が目にしたのは、治安の悪い街……というよりも、人の活気が消えた暗い街だった。


 客のいない店は朽ち果て、看板が風に飛ばされていく。


「みんな、どこに行っちゃったんだろう?」


「魔法に覚醒した子はワズランド、何らかの形で成功した子はゴオツに行くからね。どうしても、残るのはここから出られない子だけなんだよ」


 まるで人さらいに遭ったような景色、以前までは人で賑わっていたであろう石畳の道はひび割れていた。


「……ストーリアが出没したのはこの辺りだよ。被害があった場所を調べて、足取りを探っていこう」


 そう言ってアセビが足を踏み入れたのは、周りとは趣を異にする広く大きな建物。


 手を引かれるままに進むと、表には診療所と書かれていた。


「えっ……ま、魔法使いの方ですか?」


 質素な受付には一人の女性が座っている。一瞬置いて目が合うと、少し困惑した様子でお辞儀をされた。


「ごめんなさい、今日は臨時で休診しておりまして……」


「ああ、違うんです。私たちは魔法学校から来た者で、最近ボストレンに出現した怪物について調べています」


 会っていきなり拒絶されることは無かったが、ワズランドでは見られなかった「恐れられる」感覚。


 しかし敢えて言葉にはされず、事情を知った女性は頷きながら慌てて立ち上がった。


「なるほど……被害があった部屋は上です、こちらへ」


 案内されたのは点在している病室のうち一つ。天井や壁は古びた印象だが、掃除は行き届いている様子だった。


「……普段は、ここにもたくさんの人が?」


「はい。ボストレンには診療所が少なく、怪我や病気に罹ってしまった時に頼れる場所が乏しいので」


 ここですね、と女性がふと足を止める。整然と並べられた病室の中でも、手書きで立入禁止の張り紙がされている部屋が一つ存在していた。


「怪物が襲ってきたのはこの部屋です。患者さんは皆怯えてしまい、止む無く他の診療所に移すという措置を取りました」


 封印が破られ、外の光が差し込む感覚と共に、隠されていた中の様子が視界に入ってきた。


 その惨状に、後ろを歩いていたイリーナの表情が凍り付く。


「何なの、これ……!?」


 病室の壁は、怪物によって大きな穴が開けられていた。




「数日前、腕に怪我を負った男性の方がこの診療所に来られました。怪物に襲われたから、保護をして欲しいと」


 事実上吹きさらしとなった壁からは、冷たく乾いた風が常にこちらに向かって吹いていた。


 散り散りになったカーテンが、事の深刻さを暗に物語る。


「魔獣がここまで下りてくることはまず有り得ないのですが、追い返すわけにもいかないのですぐに治療しました。窮地は脱したと判断し、病室で経過観察していたのですが……」


「その怪物がここを突き止め、襲ってきたということだな」


 前に出たクリスが現場の状態を観察する。人がすっぽり入れそうな穴は、何かにぶつかったような跡に見えた。


「具体的に、その怪物が襲ってきたのはいつ頃ですか?」


「一昨日の夜……だったと思います。下の階で他の患者さんの様子を見ていたら、突然叫び声が聞こえてきて」


 残っていたのは、穴の開いた病室とベッドの残骸だけ。


 診療所に駆け込んできた男性の姿は、急いで周辺を探しても見つかることが無かった。


「怪物の姿も消えていました。お役に立てず、本当に申し訳ありませんが」


 周辺に残っている物は。手がかりを探していたイリーナは、壊れたベッドの下に気になる物体を見つける。


「ん……これは何だろう?」


 ほんの僅かに汚れが残ったそれは、黒いリボンの髪飾り。


 襲われた男性の物では無いように思えるが、以前ここに入院していた患者の忘れ物だろうか。


「うーん。でも、これじゃ手がかりにはならないかも」


 念のために聞いておこうとも思ったが、アセビやクリスは今もお取込み中の状態だった。


「連れ去られた男性の名前をお聞きしても?」


「スカーレさんという方です。強面な外見を活かして、借金の取り立てで生計を立てていたと話していました」


 頭の中の映像を徐々に組み上げていく。だが、はっきりと思い浮かべるためにはもう少し情報が必要だった。


「名前はスカーレさん……外見に何か特徴は?」


「髭を生やしてらっしゃったのと、怪我をしていない右手に火傷の跡が残っていたと思います」


 襲われた被害者と、現場の状況。ストーリアの行き先こそ分からなかったが、概ね情報は集めることができた。


「ご家族の方は分かりませんが、いざとなった時に連絡して欲しいと、知り合いの方のご住所を控えていますよ」


 差し出された手帳の内容を、一言一句逃さず書き写す。


「助かりました、ご協力に感謝します」


 女性の警戒心を和らげるように、彼女は微笑みながら半壊した病室に背を向けた。


「もう良いんですか、アセビさん?」


「スカーレさんが行方不明なら、早く足取りを掴まないと危ないと思う。取り敢えず、知り合いの人に聞いてみよう」


最後にできる限りの情報を提供してくれた女性に頭を下げ、アセビたちは怪物の爪痕が残る診療所を後にする。


「怪物は必ず私たちの手で倒して見せます。もし何か気付いたことがあれば、滞在先の宿まで連絡を下さい」


「……分かりました、ありがとうございます」


 一抹の不安があった。襲われたスカーレが既に殺されていて、事件の解決が難航してしまう可能性。


 だが、まだ先の未来を不安がっては前に進めない。




「スカーレさんのご友人が住んでいる所は、ここから歩いて十分くらいの所みたい」


 迷った時のことを考慮し、地図に印をつけて歩いていく。


 フットワークの軽いアセビとクリスに対し、緊張や不安が拭えないイリーナとミシェルは一歩後ろを歩いていた。


「うわぁ、どんどん道が細くなっていくよ……」


「はぐれないように手を繋ぎましょう、ほら」


 路地に入ると、大通りとは異なり人の視線を感じるようになった。観察したり、突き刺すように睨んだり。


「確かに、ワズランドよりはちょっと怖いかも」


 以前の依頼では、激しい戦いでこそあったが全員が魔法使いという安心感があった。


 だが、ここに住む人は魔法を快く思わない一般人。


「大丈夫だよ、あとちょっとで着くからね」


 目的地が近付いてきたからなのか、薄暗かった路地から光が差し込んでくる。良かった、何事も無く無事で。


「おい、ちょっと待てよそこのクソガキッ!」


 だが、イリーナは光を見てふと気を抜いてしまった。


 野太い叫び声に振り向こうとすると、すぐ隣の壁に重たい酒瓶が激突して粉々に壊れてしまう。


「ひいっ……!」




 酒のせいか怒りのせいか、顔を真っ赤にした中年の男がこちらに向かって歩み寄ってきた。


「お前らワズランドの魔女だろぉ。この国を腐らせて、流血と争いをボストレンに持ち込んだ……悪魔の手先っ!」


 ずかずか、と足音がするにつれて距離が狭まっていき、凍り付いていたイリーナの表情に恐怖の色が現れる。


 血走った目のこの人は、一体何を訴えているのだろう。


「待って下さい、私たちはそんな目的で来ただけじゃ……」


「理由なんか関係無ぇよ。お前らがここにいるだけで、俺たちの人生はズタズタに引き裂かれる。いちいち下手な言い訳をして、見ないふりしてんじゃねえ!」


 吐き出された唾が四方八方に散らばっている。どうにかしないと、と思っても足は石のように動かない。


「ご……ごめんなさい。でも本当に、本当にそんなつもりじゃなくて!」


 繋いだ手が震えているのが伝わってきた……ミシェル。


「イリーナを、泣かせるなっ……!」


見えない角度で杖を構えている。まずい、このままでは。


 男とミシェルがぶつかり合う。その寸前に目を瞑った刹那、イリーナたちの前で一人の人物が両手を広げた。


「お前らクソ魔女なんてなあ、そもそもこの世界で生きてることが間違……」


「二人共、こんな所で争っても意味なんて無いよ!」


 突き出されかけた炎がアセビの声で掻き消える。正気に戻ったミシェルは、震え続ける手で杖を下げた。


「この子たちは今も呪術師と戦っている。戦えないみんなの代わりに、危険な依頼を引き受けて頑張ってるの!」


 凍り付いていた心が徐々に溶けていった。怒りに満ちた男を一瞬で黙らせる、さらに鋭い覚悟を決めた本気の目。


 後ろに退く相手を、アセビは視線で掴んで離さなかった。


「イリーナちゃんは関係無い。自分の失敗を他人に押し付けて、行き所の無い怒りを発散しようとするのはやめて!」


 投げようとしていたもう一つの酒瓶を取り落としてしまう。もう、男には言い返す術が何も無かった。


「チッ……つれねえ奴だなあ、お前」


 半ば負け惜しみのような形で、男はゆっくりと姿を消す。


 彼がいなくなったことを見届けると、張り詰めていた空気が一気に解けていくような感覚がした。


「イリーナちゃん大丈夫、怪我は無い?」


「私は何とか大丈夫です……それより、さっきの人は?」


 クリスの零していた言葉が脳裏に蘇ってくる。自らの失敗を他者の責任にして、争いを持ち込む過激な集団。


「吹き溜まりだよ。最近は少なくなってきたと思ってたけど、私もちょっと油断してた。ごめんなさい」


 悲しそうな表情をするアセビに胸が締め付けられた。そんな、彼女は何も悪いことなんてしていないのに。


 視線を落とすイリーナに、クリスも駆け寄って肩を撫でた。


「気にするな、奴らの言うことは所詮嫉妬と妬みの塊さ。たとえ後ろ指を指されても、君が今まで努力してきた功績は決して無駄にはならない」


 確かにその通りだ、今まで自分を助けてくれたみんなのために、今度は自分が身を削ってでも戦い続ける。


 だが、彼が訴えかけた言葉の一つ一つが頭から離れない。


「そう……だよね」


 正しさとは何なのだろう。逃げる男の後ろ姿は、恐ろしいがどこか寂しさも持ち合わせているように見えた。




 続く

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