第11話 迫りくる罠、やがて絶望Ⅰ
始まりの魔女、ベルドール・エーレンドの誕生は、ディロアマという一つの国に大きな変革をもたらした。
生まれながらに魔法の力が覚醒した者は魔法使いとしてこの国の特権を手にし、箒をはじめとした魔道具を自在に操ることで、首都ワズランドでの豊かな暮らしが保障される。
「オメーに眠る憎しみの感情、呪術の力で解放してやるよ」
だが、残りの五割は素質も力も持たない普遍的な一般人。
ワズランドの街を追われ、魔法使いからの差別を受け続けた彼らには生きる道さえ与えられない。ただ一つ、呪術師という選択肢を除いて。
「これを手にすれば、貴方は人を超えた力を手にすることができるのです。先程私がしたように、貴方も邪魔な人間を消してみたくは無いのですか?」
憎しみを抱えた人間が呪術師になり、そして呪術師たちも生きる意味を失った人々を唆し、呪術の力によってストーリアに変化させることで負の感情が連鎖していく。
一度異形の存在になってしまったストーリアは、魔法使いに滅ぼされるまで人の心を取り戻すことは叶わない。
「黙れっ! 何もかもうまくいった勝ち組のお前に、俺の気持ちなんて分からねえんだよ!」
一度呪術の力に魅入られれば、死ぬまで抜け出すことはできない。人を善意で救うのが人でしか為せないなら、人を殺意から滅ぼすこともまた人でしか為せない。
「ストーリアの正体が人間であること。君は知っていたんだろう? 魔法学校に入るずっと前から」
「ストーリアは人に戻れない、術をかけられた瞬間にもう殺されたのも同じなんだよっ! 被害が大きくなってしまう前に、私たちが前に出て戦うしか無いの!」
戦いの十字架を背負うのは、魔法使いの中でも特に類まれな才能を持つ子供たちが入ることの許された、魔獣と呪術師の討伐を行うワズランド魔法学校・属性科。
時に覚悟し、裏切られながらも、魔女見習いたちは人知れず起きた争いを止めるために戦い続ける。
「呪術師とどんどん戦って、ストーリアをみんなやっつけるのも時間の問題かな……なんてね!」
しかし、戦いの代償を理解せず……運命に翻弄され続ける一人の少女が、属性科の生徒たちに紛れ込んでいた。
「マリンはまだまだ飲み足りないです、リューズ様っ!」
繁華街ボストレンの一角にある小さなバー、ミルキー。
日を跨ぐとライバル共々店仕舞いの時間となり、依然として帰りたくない常連客がバーテンダーに絡んでいた。
「そうは言ってもね……マリンちゃんは朝も早いのだろう。 そろそろ帰らないと君の健康にも悪いよ?」
「じゃあここにキスして下さい、元気を貰えますからっ!」
常連の一人……マリンは人目も気にせず唇を差し出してくる。どうにか言い訳で乗り切れる程、彼女は気の弱い人間では無かった。
「……良いよ、それで君が満足してくれるなら」
唇ではなく、一呼吸を置いて頬に軽くプレゼントをした。
鳥のような叫び声と共にマリンは飛び上がる。一瞬の出来事だったのに、まるで永遠のお宝を貰ったかのように。
「ありがとうございます、一生モノですぅ!」
「そいつは嬉しいね。お仕事に疲れたら、またいつでもここにおいで」
お互いの姿が見えなくなるまで、無邪気に大きく手を振り合う。嵐のような彼女が立ち去った後、どんよりと押し寄せてきたのは疲れだった。
「……キス一つで乗るなんて、本当におめでたい常連だな」
辺りは静まり返っていたが、その店主たちが安息の時間を手に入れるのはもう少し先となる。
夜は短いと軽んじると長く、長いと油断すれば意外にも短い。ため息をついたリューズが看板を店内にしまい込もうとした、その時だった。
最初は、行き場を失った酔っ払いの足音だと思っていた。
「おねがいします……たすけて、ください」
しかし真っ暗な路地を抜け、ようやく灯りを一身に受けた人影は傷だらけの少女の姿をしていた。
首を傾げながらも、周りに人がいないことを見届けるとリューズは静かに歩み寄る。
「おいおい……ここは年端もいかないような子供が来る所じゃないぞ?」
目を合わせるのも痛ましい姿。伸びる金髪は散り散りに乱れ、元は綺麗だったであろう肌は汚れを纏っている。
「しにそうなんです。こわい人が、やってきてっ……!」
「……?」
家はどこだい、と言いかけた彼の呼吸がふと止まった。
最後の力を振り絞った少女がこちらに倒れ込んでくる。体重は軽く、息はかなり荒いように見えた。
「弟が……まだあっちに。たすけて、おねがい……」
その言葉を最後に彼女の意識は途切れてしまった。まだ脈があることを確認すると、リューズは古びた街灯を見上げて頭を抱える。
「困ったものだな。うちはボランティアじゃないのだが」
「……」
素性も名前も知らない、死にかけの少女がここに一人。
弟はどこにいるのだろう、怖い人とは一体誰なのだろう。当事者が眠ってしまった今、判断する術はどこにも無い。
「……むっ?」
ひとまず店に運び込もうか思考を巡らせていると、手元にあった黒い本が僅かな光を放ち始めた。
負の感情を持つ者に呼応する、呪術の書の適合者を示すメッセージ。半ば導かれるようにページを捲ると、リューズの顔色が一瞬にして変わった。
「なるほど、そう来るか……」
こんな幼い子供に。驚きが隠せないまま、彼はその本を倒れ伏す少女に向ける。
「……これなら、あの魔女たちに地獄を見せられる」
怒りに荒れ狂う鯨の絵が描かれたそれは、鯨のきょうだいというタイトルが付けられていた。
数日後、ボストレンの街から離れたワズランド魔法学校では一風変わった授業が行われていた。
「さて皆さん、念のために離れていて下さいね」
いつもより小さい実験室のような部屋で、先生のエルア・ラーナが魔法陣を広げて術式を構築している。
生徒たちの視線が徐々に集まる中、それは数瞬後に現れた。
「スメルティング・ジェム!」
「おおっ……!」
魔石の錬成。エルアが例として生み出した物は、光の一切を受け付けない黒曜石のような形をしていた。
「こちらは闇属性の魔石になります。本来魔石はもう少し大規模な魔法陣を用意しますが、魔力の込め方を意識すれば微弱な魔力でも作成できる、というわけです」
人の手で作り出したとは想像もつかない、神秘的な物質。
至近距離でまじまじと見つめれば見つめる程、その美しさに心を奪われそうになってしまう。
「錬成用の魔法陣はそれぞれの机に用意しております。このような形で、一つずつ魔石を創っていきましょうか」
イリーナたちが初めての依頼をこなしてから一ヶ月。かつて知識を主軸にしていた魔法学校の授業は、普通科・属性科合同で実践の科目が入るようになっていた。
それでは始めて下さい、というエルアの合図と共に、多くの生徒が魔法陣に杖を向ける。
「んっ……やってみるとこれ、意外と難しいかもね」
闇雲に力を込めても杖は光らない。ミシェルは周りの視線を気にしつつも、四苦八苦しながら魔法陣と格闘していた。
「……舐められたものだな。ボクを何だと思っている?」
しかし他の机に視線を移すと、誇らしげに雷の魔石を完成させたクリスが先生のもとに向かっていた。
闇の魔石とは違う、眩しい程に自身の存在を強調する光。
「満点の出来栄えですね。流石は優秀な属性科の生徒です」
「皮肉のようにしか聞こえんぞ。次からはもう少しお世辞を上手にすることだな」
実際の所、生徒の努力に反して魔石作りは難航の一途を辿っていた。錬成できても小さい者、形が何やら歪な者……
「ふむ……少々皆さんには難易度が高過ぎたようですね」
そして、今もなお苦戦を続ける魔女見習いがまた一人。
「ねえ、魔石ってどうやったら作れるのぉ……!?」
雪のような白い髪を左右に揺らし、イリーナは杖を震わせながらどうにか魔石を作り出そうと奮起していた。
「君たちは二人も揃って何をしている。杖の先端に魔力を込めて、目の前の魔法陣に打ち出すイメージだ」
「そ、そんなこと言われたって初めてだもん!」
言葉の通り、込めた魔力を魔法陣に向けて射出する。
するとミシェルの杖から徐々に光が燈り、鮮やかな赤い輝きを放つ炎の魔石が姿を現した。
「できた……本当に作れたよ、イリーナ!」
手のひらに乗る程の大きさだったが、触れるだけでもほんのり温かさが伝わるそれに、彼女は飛び上がって喜んだ。
「ほう。初回にしては素晴らしい練度ですね、ミシェルさん」
「よしっ……それなら私だって!」
負けられない。失敗を恐れず、勇気を出して前へ踏み出す。
イリーナが杖により一層の力を込めると、今まで無反応だった魔法陣に雪の結晶が現れ始めた。
「できたよ! これで魔石が……って、ん?」
しかし、何か様子がおかしい。白い光は徐々に大きくなり、彼女だけでなく周りの生徒たちも巻き込んでいく。
「イリーナさん、魔力を抑えて下さい!」
「な、なななぁっ!?」
新たな扉が開く産声だと信じて疑わなかったそれは、どうやら爆発へのカウントダウンだったのかもしれない
魔法陣から飛び出した氷の魔石は、轟音と共に跡形も無く飛び散ってしまった。
「まったく……君は加減というモノを知らないようだな」
咄嗟に机の下に隠れていたクリスは、頭に付いた魔石の欠片を取り払いながらため息をついた。
「魔石の錬成に必要なことは魔力を正しく凝縮することです。強い魔力を込めると良いというわけではありませんよ」
「ごめんなさい、調子に乗りましたぁ……」
呆れられはしたものの、同級生を含めて誰もイリーナに怒る者はいなかった。そういったみんなの優しさが、余計に彼女に刻まれた傷に深く沁みてしまう。
「みんなの足、引っ張っちゃったかも」
顔を俯けて制服の裾をぎゅっと掴む。先月に初めての依頼をこなし、もしかすると今の自分なら何でもできると錯覚してしまったのかもしれない。
本当は、仲間に助けてもらわないと弱いままなのに。
「大丈夫だよ。どんな人だって最初は初心者なんだから」
そんなイリーナの表情を察し、歩み寄ったミシェルは彼女の肩を優しく掴んだ。
「イリーナには私がついてるから、気にしないで」
「……そう、だよね。ありがとう、ミシェル」
散らばった欠片を集め始める。失敗したならまた挑戦すれば良い、暖かい視線がそう告げているような気がした。
「最初は小さな魔力でも構いません。正しいイメージを込めれば、魔法は決して危ないものではありませんから」
もう一度だけやってみましょう。今度はエルアたちも間近で見守る中、イリーナは再び魔法陣の前に立つ。
緊張は収まらなかった。だが、以前よりは少し体が軽い。
「じゃあ……今度はちょっとずつ、頑張ってみます」
絶対に成功する保証は無い。だが深呼吸の後、イリーナは再び大きな壁に挑む覚悟を決めた。
しかし……その瞬間、ノックと共に勢い良く実験室に入ってきた一人の生徒に阻まれてしまう。
「ごめんなさい、廊下にこんな欠片が落ちてたんですけど!」
その場にいた全員の視線が集まる。彼女の手には、先程の爆発で外に転がっていた魔石の欠片が握られていた。
聞き覚えのある優しい声に、イリーナが思わず振り向く。
「あれ、アセビさん!?」
「こんにちは。向こうの依頼が無事に終わったから、ちょっと様子見に来ちゃった」
アセビ・マルティ。属性科の三年生で、学生寮の管理も行っていることからリーダーのように慕われている。
「魔石の錬成か……私も一年生の頃は苦戦したな、懐かしい」
山吹色の明るく綺麗な髪を僅かに揺らして、彼女は机に向かうイリーナに歩み寄った。
その集中力を削がないように、小さな声で囁くように問う。
「もしかして、力の入れ方が分からないの?」
「はい。さっきは魔力を込め過ぎちゃったみたいで……」
杖を握る彼女に手を添える。決して奪うわけでは無く、その力を最大限に活かせるように、その手助けを。
「あの……今は一年生の授業なのですが」
「そう堅いこと言わないで。大丈夫、すぐ終わるから」
すると、魔法陣に先程と同じく一筋の光が現れた。
だが、最初のように爆発はしない。優しく包み込まれた魔力はやがて石の形となり、二人の前に魔石として現れた。
「おお……凄い、私でもちゃんとできたっ!」
まさに思い描いた通りの輝き。イリーナはまじまじと自身の作った魔石を眺め、微笑むアセビに頭を下げた。
「ありがとうございます、アセビさん!」
「ううん、私は何もしてないよ。これはイリーナちゃんのイメージが作り出した形、助けたのはちょっとだけだもん」
魔法はイメージで覚え、感情によって生み出す。先生が何度も口にしていたその意味が、ようやくはっきりと分かったような気がする。
「自分の心から逃げずに向き合うこと。それをちゃんと覚えていたら、どんな魔法でもできるようになるから」
お邪魔してごめんなさいね、と会釈した後、彼女はあっという間に手を振りながら教室を飛び出していった。
「これからも頑張ってね、離れていても応援してるよ!」
属性科の三年生は多忙の日々が続くと聞く。卒業を控えていることもそうだが、こなず依頼の数だって一年生のそれよりきっと多いのだろう。
「はい。本当に助かりました!」
一瞬のことだったが、彼女が添えてくれた手の感覚はしばらく経っても消えることは無かった。
「はあ……これで良かったのですかね」
想像とは違う形にはなったが、イリーナが失敗から立ち上がって魔石を錬成することができた。
複雑な心境ではあったが、エルアは何度か頷きながら自身の持ち場に戻る。
「すみません、エルア先生はいらっしゃいますか?」
するとその時、今度は一人の女性職員が慌てた様子で実験室に足を踏み入れた。
「はい。どうかされましたか?」
「失礼致します。突然のご連絡になってしまい申し訳ありませんが……こちらを」
イリーナたちの視界には入らない角度で、持っていた一枚の紙をこっそりと見せられる。
しばらく読み進めていると、彼の顔色がふと変わった。
「……これは一体、何方の指示ですか?」
生徒たちと、彼女に渡された紙を交互に見比べる。態度にこそ出ていなかったが、その呼吸は少し荒くなっていた。
「メルアチア校長からです。至急、お伝えして下さいと」
「分かりました。この授業が終わり次第、すぐに向かいます」
一瞬の出来事だった。女性はすぐに一礼をして、瞬きする間に実験室を後にする。
イリーナの眼に残るのは、ただならぬ様子で頭を抱えるエルアの姿だけ。
「……ん、何かあったのかな?」
紙の内容がふと気になって首を傾げたが、渡されたそれについて彼が説明することは一切無かった。
「さて皆さん、引き続き魔石の錬成を続けていきましょうか」
平静を装って授業を続行するエルアの表情は、理由は分からなかったが今までよりもずっと険しかった。
怒りも帯びていたが、それでも少し悲しそうで……
一年生の授業が終わってしばらく経った後、校長室の扉がいつもより荒々しく開かれた。
「……少々、人選に問題があると思うのですが」
一枚の紙を高々と掲げながら、エルアは半ば詰め寄るような形で校長のメルアチアに歩み寄る。
しかし彼女は、それすらも予測していた様子で頷いた。
「イリーナたちはこのワズランドでの呪術師騒ぎを見事に解決しました。その上での依頼だったのですが……」
「それは理由にはなりませんよ。メルアチア校長」
イリーナ、ミシェル、クリスの三名をボストレンにおけるストーリア討伐の依頼に参加させる。紙に書かれた内容は、概ねこのような中身だった。
「前回のそれはあくまでもワズランド内での討伐依頼です。しかし管轄からも外れた……吹き溜まりも多いボストレンでは話が違う」
中途半端な説明では、こちらも決して引くことは無い。
言葉に力を込めて反論する彼の頭の中には、ひたむきに魔法使いとしての努力を続ける彼女らの姿があった。
「卒業生か、せめて上級生の方に委任するべきです。向こうにも人員には限りがあるでしょうが、一年生にお任せするよりは危険度が低いかと」
「珍しいですね。貴方がそこまで生徒を気にかけるなんて」
メルアチアの表情はそれでも動かなかった……いいや、エルアの言葉を理解して、全てを悟ってしまったように。
「……そういうことではありませんよ。あの子たちに可能性がある以上、ここで死なれては困るというだけです」
エルアは自身の表情が見えないまま、そう言い放った。
でも、もしかしたら自分は今にも打ちひしがれそうな顔で叫んでいるのかもしれない。本能のように突き動かされる心の内側が、今の彼にはもう分からなくなっていた。
「確かに、概ねエルア先生の仰る通りです。しかし少々イレギュラーな事態が発生しまして、今は他の生徒に委任できるような状態では無いのですよ」
「……と、言いますと?」
そこで彼女は言葉に詰まってしまった。伝えるべきか、黙っておくべきか。その瞳に葛藤の色が現れる。
「魔女狩りですよ。各依頼に赴いていた魔法使いが、謎の人物に襲われる事象が多発しています」
やがて告げられた事実は、光の遮られた校長室の空気をより一層重苦しいものに変えてしまった。
「もしかして、彼女の仕業ですか?」
「事実関係はありません。仮にそうだったとしても、今の貴方が責任を負うべき案件では無いですよ」
エルアはようやく納得した。それでも受け入れたわけでは無いが、メルアチアが苦渋の決断をした経緯が繋がる。
学校長の彼女だって、迷いが無かったわけではないのだと。
「人員に余裕が無くても、呪術師は待ってくれません。対抗策を練らねばストーリアの成長を促すだけですし、それなら早期に手を打つべきだと判断したまでです」
状況は想像していたよりも深刻だった。依頼に向かわせるリスクは大きいし、迷えば迷う程討伐は厳しくなる。
「お気持ちは理解できますが、どうかご理解を……」
本当なら、ここで打開策の一つを提示するべきなのだろう。
しかし、自分は決断できなかった。いつもは嫌な程に冷たく冴える頭は、大事な時に限って動いてくれない。
「分かりました……しかし、少し考える時間を頂けませんか」
でも、しかしという言葉を全て飲み込み、エルアが伝えたのは苦しくも先送りの意思だった。
「良いでしょう。しかし、時間はそれ程残っていないということを頭に留めておいて下さい」
分かっている。分かっているはずなのに、彼の心は矢が刺されたように痛んで身動きが取れなくなってしまう。
一歩、また一歩と自分は断崖絶壁に追い込まれている。
「明日にまた、貴方の出す答えをここでお聞きします」
最後に放たれたとどめの一撃に、何も言うことができなかった自身を静かに恨んだ。
校長室を出ると、自身の額から零れ出る汗に気付いた。
「一体……どうすれば良いのでしょうか」
考える時間が欲しい。そうは言ったものの、この袋小路のような状況を打開できる策はどこにも無かった。
自分の不甲斐なさに頭を抱えながら、エルアは荷物を取りに先程の実験室に足を運ぶ。
「ん、まだ残っていたのですか?」
もう生徒たちは帰っているはず。そう思って扉を開けると、夕陽を背に受けたアセビが隅に座っていた。
「ごめんなさい、帽子を忘れちゃったみたいで」
「はぁ……来年に卒業だというのに、そんなにだらしなくて本当に大丈夫なのか心配になりますよ」
お母さんみたいだね、と彼女は話半分に聞きながら微笑む。
見れば見る程自由過ぎる子のように思える。だが、そんな自由さが今は何だか羨ましかった。
「先生の方こそ、何かあったんですか?」
教卓に椅子が寄せられ、気付けば視線がぐっと近くなる。
「……荷物を取りに来ただけですが」
「半分嘘、半分本当ですね。そんなに汗かいて息も切らしてるのに、今まで三年間一緒だった私を誤魔化せるとでも?」
その場しのぎで作った盾を容易く弾かれ、まるで自然の摂理であるかのようにアセビは懐に潜り込んでくる。
まったく、彼女は頭が良いのか悪いのか分からない。
「大丈夫ですよ、私は先生の良き理解者ですから」
自分で言うのもですけど、と彼女は付け加える。そこまで詰められると、次の言い訳は何も出てこなかった。
「メルアチア学校長の……依頼です。イリーナさんとミシェルさん、クリスさんの三名を、ボストレンでのストーリア討伐に向かわせると」
「ストーリア……って、ボストレンですか!?」
案の定、アセビは目を丸くして驚いた。彼女にこのことを伝えたって特に意味は無いはずなのに、不思議と口が滑るように動いてしまう。
「魔女狩りの仕業です。現場に向かえる魔法使いが少ない以上、ストーリアを討伐した経験のある彼女たちに白羽の矢が立ったのでしょう」
「なるほど。でも、やっぱり危なくないですか?」
以前ストーリアを倒せたとて、今回同じ手順で倒せるとは限らない。それはエルアも承知の上だった。
「……だから、僕一人では答えを出せませんでした。明日までに打開策を考えなければ、彼女たちがリスクの高い依頼を受けざるを得なくなってしまいます」
こうして話している間にも日は落ち始めている。考えねばと頭が警鐘を鳴らす度に、考える力は弱まっていた。
肘をついて俯くエルアに、アセビは覚悟を込めて頷いた。
「なるほど……大体向こうの状況は分かりました。そういうことなら私に任せて下さい」
「何か、打開策があるのですか?」
椅子から立ち上がったアセビがこちらに笑いかける。その表情は、何か無茶をしようとする時の嫌な顔だった。
「私がボストレンに行きます、三人と一緒に!」
彼女の山吹色の髪が、外からの心地良い風を受けてふわっと舞い上がった。
「三年生の同伴が必要なんですよね? いざとなった時は、私がイリーナちゃんを守って戦いますから」
エルアはしばらく呆気に取られてしまう。数瞬後に告げられた言葉を飲み込み、弾かれたように立ち上がった。
「待って下さい……今日依頼を終えたばかりでは?」
彼女の負担が大き過ぎる。いくら無傷で帰還したとはいえ、魔力の消費量を考えると万全とは言えない状態だった。
だが、一度決めた彼女は何を言っても止まらない。
「私なら大丈夫です。エルア先生がそんなに困った顔をしているのに、私が黙って休んでいるわけにはいかないので」
「いえ、しかしですね……」
渋る彼の表情を、アセビは輝く笑顔で吹き飛ばした。これはきっと、今までお世話になった分の恩返しだから。
「それに……私はもうすぐ卒業です。きっとこれが最後の大勝負だから、これからの未来を切り開くあの子たちと一緒に戦ってみたいんです」
強引に彼女はエルアの手を握った。困惑も拒絶も要らない、必要なのは信じてくれる気持ちだけ。
一歩を踏み出せない先生の、大きな背中を優しく押した。
「お願いします。必ずあの子たちを、無事にここまで送り届けてみせますから」
真っ直ぐな瞳、暖かい手。覚悟を決めた彼女の魂が、そのままの形で伝わってくるようだった。
「……分かりました。校長には僕から伝えておきます」
「やったっ! ありがとうございます。私、エルア先生の分も頑張って戦ってきますね!」
戦いだというのに元気な様子だった。いや、だからこそ彼女は笑顔を絶やさないのかもしれない。
戦場で希望を失ってしまえば、本当に負けてしまうから。
「それと……アセビ・マルティさん」
「はい、どうしました?」
早くも奮い立つ彼女に、エルアは改まって良い忘れていたことを強い言葉で伝えた。
「貴方も、無事に帰ってきて下さい。これからの未来を切り開くのは……貴方も同じなのですよ」
イリーナたちと同じように、アセビもまた誰よりも大事な教え子の一人だった。
エルアの決死のお願いに、彼女はもう一度快く頷いた。
「分かりました。頭に留めておきますね、先生っ!」
心配はそれでも拭えなかったが、入学の時よりも遥かに頼もしくなったアセビの顔つきを見るときっと大丈夫だろう。
「……どうか頑張ってください、アセビさん」
背筋に走る嫌な予感はきっと気のせいだろうと、エルアは僅かに残った唾を飲み込んだ。
続く
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