第10話 叶わない誓い、でも未来Ⅳ
朝早く。まだ人の影もほぼ見当たらないワズランドの街で、三本の軌跡が市街地を掻き分けて進んでいた。
「もうすぐ……絶対、辿り着いてみせるから!」
あれだけ荒れ狂っていた箒は、今はただ風のようにイリーナのことを運んでくれる。
必死に敵の姿を探し、やがて広場に差し掛かった時……
「見えた。広場の北側、手に何かを持っているぞ」
まるで待ち構えていたように、ストーリアは空を飛ぶ三人を見上げる。
「ちょっと遅かったなあ。魔法使いの小娘共」
「リカルドさんはどこ……!?」
相手の表情が一気に緩んだ。その余裕に満ちた態度に、イリーナたちは最悪の未来を感じ取る。
ストーリアは静かに、手に引きずっているものを見せた。
「もう少し早く着いていれば、こいつを助けられたかもしれねえのになあ……」
そう、それは瞳から光が抜け落ちたリカルドの抜け殻。
「リカルドさん!!」
「貴様、何と惨たらしいことを……!」
もうこいつの役目は終わった。そう言わんばかりに、ストーリアはリカルドの身体を投げ捨てる。
「俺、今まで何して生きてきたんだっけ……」
熱に浮かされたように言葉が漏れる。昨晩イリーナたちに夢を語っていた、リカルドの面影はどこにも無かった。
「時は来たぜえ。魔法使い共の魂を集め、差別と憎悪に塗れたこの街をぶっ壊す歴史的瞬間だ」
もう片方の手に持っていたのは、人それぞれの色で輝きを放つ綺麗な宝石たち。
そう、今まで蓄えていた夢と魂が詰まった結晶。
「まさか、一気に強化を……?」
動揺するミシェルが声を上げたのと同時に、ストーリアは大きな口で一気に宝石を飲み込んだ。
「ああっ、あッ……よく効くぜ、こいつはなァァ!」
黒い霧がストーリアを包み、小さな雷と共に短かったはずの手足が徐々に伸びていく。
その影は、やがて三人を覆い尽くす程に肥大化した。
「嘘……そんな!?」
夢を食い尽くした欲望の塊は、人の身体の数倍は優に超える本物の豚の怪物へと変貌を遂げた。
「ここがお前らの墓場だ、魔女ッ!」
強い向かい風が、槍のようにイリーナたちを突き刺す。
僅かに離れた場所から、低く唸るような音が聞こえてきた。
「あっ……」
「どうしました、オリバーさん?」
死んだように眠っていた魔法使いのオリバーが、まるで導かれるように目を開けて起き上がった。
隣で寝ていた妻は、その様子を訝しげに見守る。
「あいつだ……今のは」
怪物に襲われ、魂が奪われてしまったにもかかわらず、よろめきながら外への窓を開け放った。
「あいつ?」
首を傾げながら外を見ると、確かに遠くの方で怪物の唸り声と小さな爆発音が耳に入る。
弱く掠れた声で、オリバーは妻に訴えかけた。
「また、怪物が、人を襲ってる……広場で、戦ってる、音が、聞こえるだろう?」
「まさか……」
つい先日、怪物の行方を追っているという魔女見習いの少女たちがこの家を訪れてきた。
もしかすると、彼女らは必死に戦っているのかもしれない。
「ダメだ。あいつが、また動き出したら……」
妻はオリバーの手を握る。今にも壊れてしまいそうなぐらい、彼の身と心は大きく揺らいでいた。
「大丈夫ですよ……今度は私が、必ず貴方を守りますから」
きっと、あの子たちなら大きな困難も乗り越えられる。
そう強く信じて、オリバーたち二人は静かに戦いの行く末を見守っていた。
「おいおい、逃げてばかりじゃ終わらないぜ!」
巨大な腕を振り上げるストーリアに、固まっていた三人が一斉に散らばる。
「フレイム・ソードっ!」
先に動いたのは、箒を降りて走り出すミシェルだった。
肩に炎の剣が刺さる。しかし全身を包む脂肪と巨体に阻まれ、中に攻撃が全く通らない。
「馬鹿め。俺の耐久力を舐めるなよ!」
「くうっ……」
突き出された肘打ちに弾き返される。にやりと笑い、ストーリアは周りの空気を吸い上げた。
「全員まとめて……ぶっ飛べ!」
敵の放った息は竜巻となり。瓦礫を巻き込みながら三人の元へなだれ込む。
「みんな下がって! アイス・シールド……」
イリーナが素早く前に出て、氷の盾を地面に突き刺す。
両者はしばらく拮抗したものの、時を経て激しくなる突風にはまるで無力だった。
「嘘……うひゃあっ!?」
身体が後ろに煽られ、宙を描いた後に転倒してしまう。
「さあ、まだまだ行くぜえ!」
そして豚の巨体が宙に浮く。着地と同時に大穴を開け、とどめを刺すように重圧が襲いかかった。
「ぐうっ、ああ……!」
「……こんなの、どうやって倒せば!?」
立ち上がれない。動こうとすると、その数倍の力で地面に押し戻されてしまう。
それ見たことかと、ストーリアは勝ち誇って腕を組んだ。
「こいつは凄え力だ……感謝するぜえ、グレオ!」
怪物が見上げる先は三人の向こう。イリーナはその視線を追いかけ、痛みに耐えながらゆっくり振り向いた。
「グレ、オ……?」
そう。私たちはもう、気付かないうちに敵に囲まれていた。
「流石は俺の作った一流のストーリアだな。鼻が高いぜェ」
ストーリアの主……と表現するには、少し幼い少年だった。
怪物によって壊された地面を踏み鳴らし、彼は倒れ伏す魔女見習いたちに嘲りの視線を向ける。
「誰……?」
「グレオ・ソルディネ。オメーらが嫉妬して憐れんで恨む、呪術師ってやつだ」
その言葉に嘘は無かった。黒い本を手に持つ彼が前に出ると、ストーリアが軽く頭を下げる。
「弱え奴らだな。大人しく仲間の魔女でも呼んでりゃあ、結果は変わったかもしれねえのによ」
「……どうして、こんなことを?」
許せない、絶対に倒す。頭の中を様々な言葉が駆け抜ける中、ミシェルから零れ出た言葉は微かなものだった。
余裕だったグレオの表情に、ほんの少しだけ影が生まれる。
「オメ―ら魔法使いが揃いも揃ってクズだからに決まってんだろ。選ばれた理由も信念も無い。なのに威張ることだけは達者で、いつも選ばれなかった人間を見下す……」
昇り始めた朝陽を、彼はその小さな手で覆い隠した。
「なら俺たちが選ばれし者になってやるのさ。弱くてダサい魔法使いの代わりに、呪術師がこの国の中心になる」
ストーリアは手を出さない。立ち上がる者はいない、もう勝負はとっくに付いていた。
「手始めにこの街をぶっ壊してやるぜェ。オメーらを殺すのは、心の底から絶望した顔を拝んでからだ」
グレオはストーリアと共に背を向け、眠りから覚めないワズランドの街に繰り出そうと一歩踏み出す。
その直前、額を突くような冷たい風が待ったをかけた。
いつの間にか足元が凍り付き、芯のある氷が行く手を阻む。
「行かせないよ……呪術師」
反射的に振り返る。挫けて倒れそうになりながらも、必死に杖を構えるイリーナの姿がそこにあった。
「ったく、これ以上やっても無駄って分からねえのかァ?」
分かっている。それは一番、立ち上がるイリーナ自身が。
それでも諦めたくなかった。手を伸ばさずに後悔するくらいなら、微かな奇跡に全てをかけたい。
「積み上げてきた過去も無え、信念も無え。そんな薄っぺらい奴がどう足掻こうが、運命なんざ変わらねえんだよ」
「確かに……そうかもしれないね」
彼女の脳裏には今までの光景が蘇ってきた。周りを見ずにドジをして、ミシェルに助けられていたあの日。
「どうして魔法使いになれたのか、理由は私にも分かんない。今までもそうだったし、もしかするとこれからも……」
でもね、とイリーナは指の一本一本に力を込める。
「今の私がいるのは、カルミラやこの街でみんなが助けてくれたお陰なんだよ。だから私はこの力を、大切な人を守るために使ってみせる!」
「イリーナ……」
真っ直ぐで眩しいその魂は、やがて隣で倒れていた二人の心も熱く呼び起こしていく。
まだ終わるべき時じゃない。そう囁かれたような気がした。
「私は負けない……ベルドールさんのような、世界を変えられる魔女になるまで!」
頬に纏った汗と涙を、イリーナは一気に振り払った。
「ぐぅ……うあっ!?」
彼女らの眼差しをその身で受けた時、ストーリアが突然腹部を押さえて苦しみ悶え始めた。
その痛みの中心にあるのは、赤く輝く結晶のような物体。
「何あれ……どうなってるの?」
首を傾げ、目を細める、困惑するイリーナに、クリスが微笑みながら指を差した。
「取り込んだ魔法使いの魂だ。もしかすると、イリーナの言葉に呼応して吸収を拒んでいるのかもしれない」
せっかく手に入れたのに、掴んだはずなのに。
体内で何かが暴れ回るような痛みに耐えながら、ストーリアは血走った目でこちらを睨んでくる。
「ふざけるな……こんなの、俺は絶対に認めないぞお!」
きっと、あの結晶たちも元の心に戻りたいのだろう。胸が締め付けられそうになりながら、イリーナは口を開いた。
「ミシェル。あいつのお腹を攻撃すれば、リカルドさんやみんなの魂を取り戻せるかな?」
「え、えっと……」
肩に斬撃は通らなかった。ましてやあの脂肪に、半端な力で攻撃を通すのは難しいかもしれない。
それでも無理とは言えない、絶対に言いたくない。
「……分かった。みんな、サポートをお願い」
ミシェルは一度手放しかけた炎の剣を、強い力でもう一度握り直した。
「何やってる。とっとと戦わねえと消すぞ、豚野郎!」
グレオの叫びでストーリアの巨体が持ち直す。その寸前に電撃が放たれた。
「させるか……サンダー・ジャッジメント!」
氷で封じられていた足元に、今度は激しい稲妻が走る。
放射線状に突き進むそれは、毒を孕む蔦のように鋭い痺れを加え続けた。
「一人でダメなら……私たちみんなの力でやり遂げる!」
突き出された氷の盾を足場に、ミシェルはもう一度ストーリアの懐に飛び込む。
「もっと強く……フレイム・ソードッ!」
「ァァァァァ!」
傷口から、血潮のような激しい火花が飛び散った。
ストーリアの全身から力が抜け、結晶がぼろぼろと零れて崩れ落ちる。
「こんなはずじゃ……こんなはずじゃあ、無かったのに!」
街を滅ぼさんとしていたその重圧は、完全に干からびて徐々に霧散していく。
虚ろとなった巨体を前に、イリーナが箒を構える。
「もう一度力を貸して、箒さん……!」
「小娘があ……この程度で勝ったと、思うなよぉぉ!!」
全身から蒸気を噴き出し、ストーリアはこちらを押し潰さんと最後の力で飛びかかる。
「アイス・エル・ムルバ!」
彼女を乗せた箒は遥か上へと飛び、粉雪のような軌跡を描いて宙返りした。
怖くない。私の中には、光り輝くイメージがあるから。
「貫いてみせる……私の魂で!」
一筋の矢となった箒はストーリアの身体を貫通し、イリーナの着地と共にその氷を芽吹かせた。
「そん、なぁ……」
最後に呻き声を残し、凍てつく氷像となったストーリアは粉々に砕け散った。
それはまるで、戦いの終わりを告げるかのように。
視界がぼやける。差し込んでくる朝陽で、イリーナはようやく自分が勝ったことに気付かされた。
「やったよ。これで、ようやく……」
魔力はほとんど残っていない。ほぼ本能に近い余力で、もう一度ストーリアを倒したかどうか振り返る。
一呼吸を置いて、悲鳴にも近い怒号が目に入ってきた。
「こんのクソ豚……俺に恥をかかせやがって、一体どうしてくれんだよォ!?」
逃げる気は無い。彼の燃え滾る激情は行き所を失い、今にも爆発しそうな危うさを漂わせていた。
「こうなったら、オメーらの首だけでもジョンの兄貴に捧げてやるよ!」
「えっ……まだ戦うつもり!?」
これで、ようやく戦いが終わったと思っていたのに。
狙いを定められたイリーナを庇おうと、ミシェルとクリスが駆け寄って全力で立ち塞がる。
「退きやがれ、魔法使い共ォ!」
黒い本を手に取り、追撃を行おうとしたその時……
「下がるのです。もう結構なのですよ、グレオ」
煮えくり返ったグレオの脳内に、美しくも無機質な青年の声が淡々と入り込んだ。
気のせいではない、どこかからあの人が語りかけている。
「……ふざけんな。あいつらを全員ぶっ殺さなきゃ、俺の気が収まらねェんだよ!」
「ん……?」
何が起きたのか分からず、イリーナたちにも波紋が広がる。
「二度は言わないのですよ。撤退を」
頭を掻き毟った彼はその場で地団駄を踏み、やがて怒りを滲ませながらもその場に立ち止まった。
「チィッ!」
三人の理解が追い付かないまま、グレオは影に溶け込んでその姿を消してしまう。
あれだけ騒がしかった戦場に、突如として静寂が舞い込む。
「何だったの、今のは……?」
平和な街が戻り始める中、彼女らは目の前に突き付けられた現実に唖然とするしか他に無かった。
太陽が煌々と輝き出した頃、三人は気力を取り戻したリカルドと共に時計屋に戻ってきた。
「今日は本当にありがとう。ごめんね、心配かけちゃって」
ストーリアが倒された後、魂の結晶はクリスの見立て通り持ち主のもとへ散らばっていった。
そう、オリバーや他の襲われた魔法使いたちもきっと……
「いえ。リカルドさんが元に戻って、本当に良かったです」
「一時はどうなるかと思ったが、ストーリアによる襲撃事件はこれで一件落着だな」
クリスもほっと胸を撫で下ろす。静まり返っていた店も、心なしか賑やかになっていくように感じられた。
「僕……この店でもう少し頑張ってみることにするよ。シェンドといつか会えた時に、ちゃんと仲直りできるように」
彼と二人で困っている人を助ける。離れていても、交わした約束は絶対に忘れない。
リカルドの覚悟に向き合い、イリーナは力強く頷いた。
「会えると良いですね、シェンドさんと」
「きっとどこかで元気にしているだろうさ、昔から真っ直ぐな奴だから」
最後にイリーナは目一杯の力で手を振り、別れを告げた。
「学校が一段落したらまたお邪魔します、本当にありがとうございました!」
止まっていた時計は進み始める。それぞれの未来へ向かって、静かに秒針を刻みながら。
「こちらこそありがとう。また会おうね、後輩たち!」
微笑むリカルドは、憑き物が取れたような表情をしていた。
「ああ……俺って、今まで何してたんだろうな」
行く先を失い、満身創痍となったストーリアは、誰にも目撃されること無く道端に倒れ伏した。
「困っている人を助ける。あいつとの約束も破っちまったよ」
身動き一つ取れない手足は、命の終わりを暗に示していた、
避けようのない死を目前にして、豚のストーリア……シェンドは一筋の涙を流す。
「もっと早く、あいつと仲直りできてたらなぁ……」
思い起こせば、今までの人生は失敗ばかりだった。
「待ってくれシェンド……俺はただ!」
「黙れっ! 何もかもうまくいった勝ち組のお前に、俺の気持ちなんて分からねえんだよ!」
たった一人の友達と喧嘩して、差し伸べられた手を振り払って。それでも自分は何かができると勘違いし続けて……
結局、変わり果てた自分の姿に気付いてさえくれなかった。
「ごめんな……リカルド……こんな俺、で」
彼は静かに目を閉じる。亡骸は砂のように崩れ落ち、遂に痕跡さえ残らなかった。
辺りの視線を気にしながら、グレオは微かに泥の匂いが残る路地に足を踏み入れた。
「どうして邪魔したんだ、ジョンの兄貴」
相手は全く見えない。だが間違いなく、その気配は彼の視線の先にあった。
しばらく経ち、灰色に塗られた壁から返答がある。
「言ったはずなのです。まずは相手を観察せよと」
現れたのは、生き物のように動く透明の液体だった。建物の間から姿を見せ、グレオの周りをゆっくり蛇行する。
「んなモン待ってられるかよ。呪術の力さえあれば、魔法なんて簡単に超えられるって言ったのは兄貴だろうが」
「……結論を先行させて、ものを考えてはいけないのですよ」
液体は徐々に大きくなり、やがて人の姿を形作っていく。
グレオの背丈と同じくらいの大きさになり、変化が止まると同時にジョンの実体が完成を告げた。
「私たちの力はまだ不十分……魔法使いに戦を挑んだとて、邪教と扱われ迫害される未来が容易に見えるのです」
一歩、また一歩と距離を詰める。顔も視線も見えない、まともな人間かどうかさえ分からないジョンの力は、グレオでさえ少々不気味に感じてしまう。
「慌てる必要はありません。呪術経典……呪術の書が完成すれば、あの方たちは自ずと白旗を上げることになるのです」
「その時まで、のんびり待てって言うのかよ?」
差し出された白く細い人差し指が、彼の口を封じ込める。
「おしゃべりな子は嫌いなのです、私の命令には、必ずはいと答えるのです」
寸分の迷いが生じる。渋々小さく頷くと、ジョンはよろしいと呟いて手を離した。
「大人しく待つのです。そうすれば、貴方の求める幸せはすぐそこにあるのですから」
大事なことは、また何も伝えられずに背を向けられる。
「ちょっと待てよ、問題はまだ何も……」
「時とは長くも短いものなのです。グレオ・ソルディネ」
考えるよりも先に伸ばした手は、それでも届かない。ジョンは再び液体になってどこかへと旅立っていった。
「クソっ、調子が狂うぜ……!」
グレオは苛立ちを隠せず、物言わぬ壁を蹴り飛ばした。
寮の部屋に足を踏み入れると、今まで溜まっていた疲れが一気に襲ってくるような気がした。
「うーん、やっぱりいつもの部屋が一番だよね!」
ベッドの弾力を確かめ、そして跳ね返るように起き上がる。
ずっと動き続けていたイリーナにとって、束の間の時間が戻ってくるのは本当に幸せだった。
「箒はここに置いて……と」
心の中で戦いのお礼を告げ、鞄の隣に箒を立てかける。
「ふふっ。何だか一流の魔女みたいだね、イリーナ」
最初は暴れ馬だったこの子も、大切な人を守りたいという想いと共に相棒になってくれた……ような気がする。
遠く険しい道に比べたら、小さな一歩かもしれないけど。
「……そうだ。エルア先生に任務の結果を伝えなくちゃ」
「あっ。そういえば、すっかり忘れてたかも」
イリーナは反射的に顔を上げる。もしかすると、連絡の途絶えた私たちを心配しているかもしれない。
気を取り直して、緩み始めていた靴紐をぎゅっと結んだ。
「私、先生を探しに行ってくるっ!」
そう言い残して走り去る彼女を、ミシェルは一歩遅れて追いかけようとする。
「ちょっと待って、エルア先生のもとに行くなら私も……」
「待つべきなのは君だ。ミシェル」
その時、同じく部屋を訪れたクリスに呼び止められた。
イリーナがそのまま走り去っていき、小さな空間の中で二人きりの時間になる。
「クリス……?」
突然のことに首を傾げる。こちらの肩を掴む彼女の顔には、少し靄があるように見えた。
「話がある。イリーナが戻るまでの間、君と二人でね」
「ボクが何を言いたいのか、君は薄々察しがついているのではないか?」
初めてかもしれないクリスとの視線の衝突に、ミシェルはぐっと深く息を吸い込んだ。
重苦しい。逃げたいけど、顔を逸らすことができない。
「イリーナへの隠し事……でしょ?」
「そうさ。もっとも、ボクもあの時までは気付かなかったが」
今まで積み上げてきた違和感を確信に変えて、彼女は一気に踏み込んでくる。
「ストーリアの正体が人間であること。君は知っていたんだろう? 魔法学校に入るずっと前から」
ミシェルは言葉に詰まってしまい、視線を天井に向けた。
こうなることは分かっていた。それなのに、用意していたはずの言い訳が頭からするりと消え去ってしまう。
「以前からおかしいと思っていた。魔獣の命さえ奪うのを躊躇うイリーナが、何故ストーリアとの戦いでは迷いを持たなかったのか」
クリスは小首を傾げる。善は善、悪は悪。そう割り切れるだけの心を彼女が持っているようには思えなかった。
「命を奪っている感覚が無かった、という仮説なら全ての説明が付く。もっとも、その命を奪ったのは呪術師だがな」
人差し指を上に掲げながら、徐々に真実へと近付いていく。
その本心が怒りでは無く心配であったことが、ミシェルの心を余計に深く追い詰めた。
「……うん。お父さんが遺した本に書いてあったんだ、全部」
徐に立ち上がってカーテンを閉める。細々とした灯りが、消えかけのような光を二人に届ける。
「やはり、か」
大切な人を守る。彼女が放った言葉で、クリスはようやく全ての線を繋げることができた。
この子は何も分かっておらず、そして見えていないのだと。
「……イリーナに事実を伝えないのは、人を殺める感覚を持たせないためか?」
殺める。その一言が心を大きく揺れ動かし、感情の奔流に耐えていたミシェルを奈落の底へと突き落とした。
「じゃあ……他にどうすれば良かったの?」
わなわなと震える膝に涙が一滴、また一滴と零れ落ちた。
「イリーナを守るために、私はどうすれば良かったの!?」
無我夢中で叫ぶ。クリスの心配そうな表情が、ミシェルのひび割れた心に深い傷を与える。
「ストーリアは人に戻れない、術をかけられた瞬間にもう殺されたのも同じなんだよっ! 被害が大きくなってしまう前に、私たちが前に出て戦うしか無いの!」
今まで溜め込んでいた言葉が一気に吐き出されてしまう。こんなことを言ったって、きっと溝が大きくなるだけなのに。
「クリスだって言ったじゃない、甘さは捨てろって……」
「ああ、心構えとしてはその通りだ……しかし!」
それでも鋭い声で、クリスは一線を超えようとする彼女を止めにかかる。
「イリーナは君を信用していた。あの子を裏切ってまで戦いの使命を背負わせることが、本当に正しいのか?」
事実を伝えなければイリーナは迷わない。自分のしていることは正しいのだと疑わず、進み続けるだろう。
だが、覆い隠されたベールはいずれ剥がされてしまう。
「そんなことを言われたって、私にはもうどうしようも無いんだよぉ……!」
あの時、イリーナの入学を止めておけば。狂い始めた歯車を止める術は、ミシェルの中に無い。
「イリーナが傷付くなんて嫌だ、イリーナが泣いてる顔を見るなんて耐えられない。私は、私はっ……」
ミシェルは頭を抱え、土下座のように蹲ってしまう。
クリスは居たたまれない気持ちになった。彼女をここまで追い詰める気持ちは、自分にも無かったのに。
「ボクには君とイリーナの絆とやらに踏み入る資格は無い。しかし……これだけは一つ言わせて欲しい」
膝を折り、力の抜けたミシェルの顔をじっと見つめる。
「この関係は歪だ。間違いなく、互いにとっても」
分かっている。分かっているのに、終われない。涙で赤く腫れ上がっていた瞳が、再びぼろぼろに崩れ始めた。
クリスがしばらくミシェルを窘め、イリーナが帰ってきたのは話があった後のことだった。
「ただいま、エルアさんに全部伝えてきたよ!」
顔をふいと逸らす。今この子に見つめられたら、また壊れてしまうかもしれない。
「えへへ、無茶し過ぎだってちょっと怒られちゃった」
「そうなんだ……他には何か言われたの?」
彼女は違和感さえ持たない。信じて疑わないというクリスの言葉は、やはり本当だったのだと思い知らされる。
顔を俯けるミシェルに、イリーナはずかずかと歩み寄った。
「でも強くなりましたねって褒められたんだよ。属性科の子でも、先輩に頼らずに戦えるのは珍しいって!」
それはまるで、表彰されたことを喜ぶ子供のように見えた。
「呪術師とどんどん戦って、ストーリアをみんなやっつけるのも時間の問題かな……なんてね!」
「そう、だね。私たちが頑張れば、もしかすると……」
あのねの一言が切り出せなかった。宝石のように輝く無邪気な笑顔を、この手で壊してしまうのが恐ろしくて。
「……そういえば、さっきクリスと何話してたの?」
ミシェルはすぐに答えられなかった。答えないと、疑われてしまうのは分かっているはずなのに。
迷いに迷った末、彼女はまた嘘を重ねていく。
「これから戦いが激しくなるんじゃないかって話。呪術師も黙ってないだろうし、私たちも油断できないねって」
そこで、ふと目線を上げる。こんなに近くにイリーナがいるはずなのに、壁があるようで触れられない。
「……なるほど。あのグレオって人も、このままじゃ済まさんぞーって言ってたもんね」
ミシェルがどうしても動けずにいると、彼女から一方的に手を繋がれてしまった。
自分とは違う足取りで、軽やかに窓の方へと歩く。
「でも、私たちはきっと大丈夫だよ。一人一人の力が小さくたって、みんなで協力すれば怖いものなんて無い!」
先程彼女が遮った空は、嫌になるくらい青く綺麗だった。
「……でしょ?」
「そう、だね。私もいざという時、足を引っ張らないように頑張らないとなあ……」
もう、このままの日々が続けば良いのかもしれない。
何も知らないイリーナが頑張り続けて、全てを知っている私だけが苦しみ続ければ。
「よぉし、そうと決まれば練習あるのみだね!」
欠けたお互いを補い合うようにして、私たちは先の見えない底なし沼へとずぶずぶ沈んでいく。
「ふふっ、本当に強いよね、イリーナって」
だがそれすらも望むように、両目を腫らしたミシェルはにっこりと笑う。
「私ももっと、イリーナを守れるように強くなるから……」
彼女の鞄に入っていた、父の形見である黒い木目の杖。
ミシェルの揺れ動く心に強く同期するように、それは黒い靄を微かに放った。
続く
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