第9話 叶わない誓い、でも未来Ⅲ

 暖かな太陽がワズランドの地を照らす昼下がり。一人の女性が窓から一歩踏み出し、洗濯物を干そうと外に出た。


「よし、明日までに乾くかな?」


 何だろう、今日は遠くの空から小鳥のさえずりが聞こえる。


「ひぃっ、全然言うこと聞かないよぉ……!」


 だが耳を澄ませてみると、その甲高い声は徐々にこちらに近付いているようで……


「いやぁぁっ、どいてどいてええ!」


「……えっ!?」


 箒に掴まった、いやしがみついたイリーナが、暴走しながら空を飛んでいる最中だった。


 お互いの姿に驚きながら、最悪の事態を想像して目を瞑る。


「ううっ……!」


 だが、紙一重で箒が止まった。洗濯物の前で宙に浮くイリーナと、戸惑う女性が至近距離で向かい合う。


「ご、ごめんなさい……怪我は?」


「えっと、一応大丈夫……です」


 涙を滲ませる魔女の卵。何とか助けてあげようと、女性は状況が呑み込めないまま手を伸ばした。


 しかし、推進力を失ってしまった箒は一気に落ちていく。


「すみません、ご迷惑をおかけしましたぁぁっ!」


思わず身を乗り出して見下ろす。墜落する寸前、同じく箒で追いかけていたクリスが救い出した。


「まったく。君は強いのか馬鹿なのか分からないな」


「ううっ、クリスがいなかったら危なかったかも……」


 覚悟だけではどうにもならない。クリスと手を繋ぎながら、イリーナは一筋の涙を閑静な住宅街に残した。


「何だったの、今の?」




「見えたぞ、右斜め前の道に二匹」


 クリスの声でストーリアの姿を探す。すると数瞬後に、周りから明らかに浮いた豚の身体が目に入った。


「どうする、一緒に倒そうか……?」


「能力は分裂前より落ちていると見た。ボクは奥の方を倒すから、君は手前の個体を食い止めてくれ」


 答えが返ってくるまで、恐らく数秒もかからなかった。


 イリーナから離れ、箒の速度を一気に上げたクリスが敵を仕留めんと戦いに向かう。


「……よし、私だって!」


 負けていられない。箒からゆっくりと降り、群れから離れた嫉妬の豚を追い詰める。


「まだ追ってくるのか、そのやる気、本当羨ましいなあ」


「これ以上はやらせないよ、ストーリア!」


 行く当てを失った怪物は、向きを変えてイリーナを倒さんと前のめりで襲ってくる。


 箒で揺られ、未だ本調子では無い身体を必死に動かす。


「アイス・シールド!」


 巨体を氷の盾で防いだ……が完全には押し切れず、じわじわと後ろに戻されてしまう。


「その盾綺麗だなあ。だが、使う奴が無能じゃあどうしようもないよなあっ!」


「くっ……ヒュージ・ジャイアント!」


 力を振り絞って唱えた。するとイリーナの持っていた盾が巨大化し、互いの身体を覆う程の大きさとなる。


 突進がパタリと止んだ。隙なら、きっと今。


「あっちに、飛んでけっ!」


「ん……ぬあっ!?」


 盾を持つ腕に力を込め、呆けるストーリアを精一杯の力で打ち飛ばした。


「くそっ。いつまでもいつまでも、調子に乗るなよぉ!」


 軽く頭を打ってしまった巨体がよろける。起死回生のごとく、敵は再び大きく息を吸い込んだ。


 同じ手は食わない。こちらも全力で迎え撃ってみせる。


「言ったでしょ、これ以上はやらせないって……!」


 元に戻った杖を構えながら、イリーナも魔力を込めて攻撃に備える。




 妙な気配と異変を感じたのは、その直後だった。


「アイス・ムル……ん?」


 時間が止まったような感覚。つい先程までストーリアと戦っていたはずなのに、心の炎を吹き消された感覚。


 そして、相手はまだ何も気付いていない。


「どうした? 戦う気が無いなら死んでもらうぞぉ!」


 何かが来る。今この瞬間、私たちに向かって何かが。


「……うわっ!?」


 風のように空を裂いて刺さったのは、緑に光る鋭く尖った数本の弓矢。


 瞬間に避けたイリーナ。地面を転がり、顔を上げると……


「何だよお、これ……」


 豚の丸々太った腹部に、命を刈り取らんとばかりの弓矢が真っ直ぐ突き刺さっていた。


「仲間がいたのかよお。チッ、本当羨ましいなァァ!!」


 誰に殺されたのかも分からないまま、爆風に包まれてストーリアの姿が掻き消えてゆく。


 敵が消滅したのと同時に、地面に刺さった弓矢も塵になって消えてしまった。


「だ……誰かいるの?」


 魔法か、或いは別の何かか。攻撃のあった建物の屋上を見上げても、そこにはいつもの青空が広がるのみだった。


 静寂を取り戻した辺りの風景が、逆に恐怖を駆り立てる。


「まさか、別の魔女?」


 憶測が頭に浮かんでくる。だが、答える者はいなかった。




「サンダー・ムルバ!」


 クリスの放った魔法はストーリアを追い詰め、厚い脂肪で覆われた身体に電撃を浴びせる。


「ふざ……けるなァァァ!」


 断末魔と共に、怒りの豚の肉体は粉々に砕け散る。


 彼女はすぐさま辺りを見回した。敵の足止めを任せてしまったイリーナの安否を確認するべく声を上げる。


「無事か、イリーナ?」


 息を弾ませながら右往左往する。物音のあった方に走ると、見覚えのあるツインテールを捉えることができた。


「……」


「おいどうした、大丈夫か?」


 敵の姿は見当たらなかったが、返答が無い。どこか別の世界に行っているような、完全な放心状態。


 肩を何度か叩いていると、ようやく彼女を引き戻せた。


「あっ……クリス。ストーリアは?」


「こっちはとっくに倒したさ。何かあったのか?」


 気が付いた後もどこか受け答えが不安定だった。首を傾げながらも、クリスは気を取り直して杖を握り直す。


「一体は逃げられたな。ここに留まっても無意味だろうし、一旦ミシェルのもとに戻って様子を見よう」


 手を引っ張り、ゆっくりながらこちらに引きずる。


 術をかけられた痕跡は無かったが、何故かイリーナの視線は向かいの屋上に釘付けになっていた。


「うん。そう……だね」


 どこか噛み合わない想いを抱いたまま、二人はただ目の前の状況を受け入れるしか無かった。




 水晶に魔力を込めると、うっすらと学校にいるエルアの姿が浮かんできた。


「こんばんは。任務の進捗はどうなりましたか?」


 快調……とは言えなかった。まだストーリアは一体残っているし、足取りも掴めなくなってしまった。


 敵がいつ、どこからやって来るか分からない。


「子豚のストーリアを三体見つけました。二体は無事に倒しましたが、残りの一体が逃走中です」


「なるほど……分裂能力ですね」


 息を深く吸い込み、どうすべきか考える。そんなエルアの様子を、ミシェルは水晶の向こうから見守っていた。


「分かりました。ストーリアについては上級生に対処させますので、皆さんは被害者の安全確保に専念して下さい」


 私たちなら倒せます、と口にすることはできなかった。


 ストーリアを目にする度、無茶をする度……戦いに敗れてしまった父の姿が頭をよぎってしまう。


「今はお二人と一緒ですか、ミシェルさん?」


「はい。えっと……」


 下の部屋で報告を待つイリーナたちのことを考えながら、ミシェルはゆっくりと頷く。


「卒業生のリカルドさんと一緒に、ワズランドの宿にいます」




 扉を開けると、言葉に出せないような歯がゆさを抱えたイリーナからの歓迎を受けた。


「……おかえり、エルア先生は何て?」


「後は先輩がやるって。ストーリアが倒されるまでは、取り敢えずここに居続けることになるかも」


 イリーナの気持ちも分かるけど、と付け加える。嬉しいような残念なような、表現し難い空気が一同に広がった。


「ボクは気にしないがな。寧ろ寮より快適なので、学校の補助で永住したいくらいさ」


「そういう問題かな……?」


 腰を下ろしてみると、意外に自分たちが疲れていたことに気付く。情報を集めて、時には戦って。


 ずっとでなくても、今日は休んでも良いのかもしれない。


「冗談だよ。それよりも、例の宝石の正体が分かったぞ」


 クリスは余裕を持った表情を崩さずに、路地裏で拾った謎の石を懐から机の上に置いた。


「本当?」


「うむ、どうやら襲われた者の魂が結晶化したものらしい。ストーリアはこれを人から抜き取り、接種することで力を蓄えていたようだな」


 粗削りで、しかし見つめると自分たちの姿がはっきり映るような、そんな透明さも併せ持っている。


 言われてみれば、それは夢を追いかける人の魂そのもののように思えた。


「じゃあ……奴らの狙いは僕の心にある結晶ってこと?」


「恐らくな。抱える夢が大きければ大きい程、あの豚にとっては格好の餌ということだろう」


 リカルドは自分の胸に触れる。いつもより早く鳴る音が、まるで不安を煽っているかのように感じてしまう。


「夢を奪われても死にはしない。だが死ぬか生きる気力を失くすか……どちらが人にとって幸せなのだろうな」


 一瞬クリスの顔を見つめ、そして彼は俯いてしまった。


「……すまない。他に言い方が思い付かなかった」


「いいや、分かっていたことだから。そうじゃなくて、ちょっと昔のことを思い出してしまってね」


 どこから話せば良いだろう。リカルドの泳ぐ視線は、夢が奪われることへの恐怖と焦りが入り混じっていた。


 イリーナたち三人は、そんな彼を催促することなく待つ。


「僕には、かつてシェンドという友達がいた」




「きっかけは何気無いことだった。家が隣同士だったこともあって、一緒に勉強を教え合ったり、外で遊んだり……」


 イリーナはふとミシェルの方を見た。だが相手は気付かず、何事も無かったかのように視線を戻す。


「友達って、もしかして魔法使いの?」


「一般人だよ。でもその時は僕も魔法に覚醒してなかったから、みんなと何ら変わりない毎日を過ごしていた」


 僕たちには夢があった、リカルドはそう誇らしげに語る。


 いつか二人で困っている人を助けるための仕事を立ち上げること。その時の夢が、今の時計屋に通じている。


「でも、僕は君たちと同い年くらいの時に魔法に覚醒してしまった。そして、あの子は魔法が使えなかった」


 魔法学校に行く。たった一人の友人の苦しみにも気付かず、調子に乗っていた当時の自分は相談せずに決めてしまった。


「大喧嘩になってしまったよ。本当に馬鹿なことをしたと思ってるけど、今じゃもう取返しが付かない」


「そんな……」


 仲直りは。イリーナは一瞬聞こうとしたが、彼の泣きそうな視線はその淡い期待すらも砕くものだった。


「勝ち組のお前に、俺の気持ちは分からない。魔法学校を卒業して店を開いても、彼の言葉が頭から離れたことは無い」


 今まで静かに話を聞いていたクリスが眉を上げ、イリーナは落胆する彼に向かって僅かに歩みを寄せた。


「ごめん、関係の無い話だったかな……」


「そんなこと無いですよ。たとえ喧嘩してしまっても、約束を忘れずに頑張ってきたリカルドさんは凄いと思います」


 怪物が狙っているのは、そんな彼の心にある芯そのもの。


 絶対に守らなくちゃいけない。彼女は指に精一杯の力を込め、半ば突き動かされるように強く頷いた。


「だから、貴方の夢は私たちが必ず支えてみせます」


 どうなるかは誰にも分からない。でもやるべきことは、たった今はっきりと決まった。


「ありがとう。こんな僕を助けてくれて……」


 夜の闇は時を追って深くなる。けれど部屋の灯は、真っ暗な街の中でも煌々と輝いて見えた。




 それから、一体どれくらいの時間が経っただろう。


「何だかとっても浮かない顔してるね、イリーナ」


 クリスとリカルドがそれぞれの部屋で眠り、灯りを消した所で、隣のベッドで眠るミシェルが声をかけてきた。


 そうか、やはりこの子には隠し事ができない。


「私たちだったら、どうなってたのかなって……」


「何が?」


「リカルドさんが魔法使いになって、シェンドさんが魔法を使えなかった話だよ」


 目を閉じてもちっとも眠気が襲ってこないのは、きっと慣れない宿のせいでは無いのだろう。


「もしも……もしもだよ。私が魔法使いになれなくて、ミシェルだけが魔法学校に行ってたら、ミシェルは私のことを忘れないでいてくれた?」


 今まで耐えていた感情が、ぽろぽろと溢れ出していく。


「私、本当は怖いんだ。今こうしてミシェルと戦ってるのも、クリスが友達になってくれたのも、綱渡りみたいなものなんじゃないかって……」


 いつか落ちてしまうかもしれない。軽い思い込みと、小さな間違いで、今まで頑張ってきたことが全部。


 私が魔法を使えたのが、偶然で奇跡だったように。


「やっぱり、無茶してたんだね……」


「そうなのかも。自分でもあんまり分かんないけど」


 布団を掴んで引き寄せる。寮の物よりも大きいそれは、両足を広げてもがらんとしているようだった。


「確かに、魔法使いと普通の人が見る景色って違うのかもね。私が魔法を隠してたのも、イリーナやみんなから避けられないようにっていう理由もあるし」


 お互いの声が部屋に響き渡る。周りに聞こえないように、自然と全身から力を抜いて話した。


「でもね、私はたとえ離れ離れになってもイリーナのために戦ってたと思う」


「ミシェル……!」


 だって、イリーナはちょっぴり危なっかしいもん。


 小さく笑いながら舌をペロリと出す彼女を見て、思わず笑みが零れそうになってしまった。


「立場や能力が違っても、人の繋がりは変わらない……あの二人だって。きっとそうなんじゃないかな?」


 聞こえてきた言葉を噛みしめ、一呼吸。もしかすると、自分は心配し過ぎていたのかもしれない。


「そうかな……もしそうだったら、嬉しいな」


 これからやるべきことが、うっすらと分かった気がした。




 途方も無いように感じた夜が明け、朝陽が徐々に薄暗かった部屋を明るく照らし始めた。


「……ん」


 何かを感じて、リカルドはゆっくりと目を覚ました。


 まだ辺りは寝静まっている。緊張で睡眠が浅かったのか、はっきりと頭が回らないまま部屋を見回す。


「気の、せいか」


 いつまで、ここでの生活を続けないといけないのだろう。


 店で過ごす毎日が何だかとても遠く思えてきて、自身の気持ちを誤魔化すかのように布団を深く被った。


「よぉし、ここにあいつが眠ってるんだな」


「はっ……?」


 だがその時、窓の外から妙な声が聞こえて飛び起きた。幻聴ではない。今確かに、はっきりと怪物の声が……


「俺から逃げられると、思うなよお!」


 嫌な想像は、瞬く間に最悪の現実に繋がっていく。


 部屋の窓が叩き割れる音が響き渡り、安全なはずの住処に異形のストーリアが足を踏み入れた。


「怪物……どうしてここが!?」


「残念だったな、俺は鼻が利くんだよお」


 鞄から急いで杖を取り出す。しかし振り向いた瞬間、懐に飛び込んできた敵と目が合ってしまう。


「手こずらせやがって。というか、最初からこうしておけば仲間を失わずに済んだのになあ」


 僅かな溜息と、後悔の言葉を吐き出して手を伸ばす。


 抵抗する術を失ったリカルドを抱えたストーリアは、窓の破片を蹴飛ばして再び街に繰り出す。


「さあ、お出かけの時間だぜえ」




「リカルドさん、大丈夫ですか!?」


 ドアが勢い良く開けられ、イリーナたちが部屋の惨状を目の当たりにしたのは、少し後のことだった。


「してやられたな……まさか探知能力をもっていたとは」


 まだ朝は早く、穴が開いた窓からは冷たい風が吹く。


 もっと早く動いていればと焦りが募っていき、イリーナは外に身を乗り出す。


「追いかけよう、私たちで」


「えっ……でも、今出るのは危ないんじゃ?」


 ミシェルの脳裏に昨日のやり取りが頭に浮かぶ、ここで下手に動かなくても、先輩が倒してくれるはず。


 だが、イリーナは考えるよりも先に足が動いた。


「助けを待ってたら手遅れになっちゃう。私たちでリカルドさんを探すしか無いよ!」


 戦うのは怖い。けれど何もしなかったことで大切なものを失うのは、彼女にとってはもっと怖かった。


「今から全速力で向かっても、間に合うかは分からないぞ?」


「分かってるよ。それでも支えるって約束したから……リカルドさんの夢を!」


 気付けば彼女は杖を出し、外に出る準備を済ませていた。


「分かった。そうと決まれば迷いはナシだな」


 クリスも箒に跨って宿を飛び出す。動き出す二人を、ミシェルは止めることはできなかった。


「……ちょっと待ってよ、二人共っ!」


 右手を前に振りかざしながら。大急ぎで後を追いかける。




 薄れた意識が時間をかけて戻っていく……ここは、最初にストーリアを目にした小さな路地。


「くそっ……」


 声を上げても、自分の声がただ虚しく木霊するだけ。


 ストーリアはその場に座り込み、縄で縛られたその姿をにやりと笑っていた。


「……俺を捕まえてどうするつもりだ?」


「恰好つけるなよ。お前だって本当は分かってるんだろお?」


 猶予というよりも、それは鑑賞に近かった。必死に抵抗し、それでも戦えないこちらを嘲るように眺める。


「人間一人に何チンタラしてんだ、とっとと魂なんて吸っちまえば良いだろ」


 そして、怪物の後ろから黒ずくめの少年が現れる。


 明らかに普通の人間ではない気配と、手に持つ禍々しい本が、彼……呪術師グレオの異様さを示していた。


「……誰だ、お前は?」


「この国の特権階級たるクソみてえな魔法使いを一発ぶん殴ろうと考えてる男、って言えば大体分かるか?」


 ストーリアの隣に立ち、彼はよくやったと言わんばかりに肩を軽く叩いた。


「与えられた才能を当たり前のように振りかぶって威張る。俺はな、オメーらのような人間が宇宙一嫌いなんだよ」


 グレオは怒りに任せ、握り締めた拳をすっと突き出した。


 だが、寸前で止まる。この先の運命が分かり切っているように、彼もまた縛られたリカルドを笑う。


「フン……お察しの通り、今からオメーはこいつの栄養になる。遺言があるなら聞いてやっても良いぜ」


 イリーナたちの助けは……まだ来る気配が無い。


 リカルドは苦悶と怒りに歪んだ表情をしながら、懐から鋭利な魔石を取り出した。


「そうか、お前が最近世間を騒がせている噂の呪術師だな」


 相手は気付いていない。僅かに力を込め、硬く締められた縄をじわじわと切り落としていく。


「確かに、俺はあの子たちのように強くない。店の経営だって素人だし、たった一人の友達にさえ見放された」


「……あぁん?」


 顔を上げてももう遅い。縄をほどいたリカルドの手には、既に杖が握り締められていた。


「でも俺はあいつと約束したんだ。困ってる人たちを絶対に見捨てないって!」


「ぬ……ァァッ!?」


 魔石の力で放った火球。完全に油断していたストーリアの胸に命中し、巨体が激しい痛みでのたうち回る。


 チャンスは今。引き分けになってでも戦うしか無い。


「ふざけんなよ……テメーみてえなクソ魔法使いが」


 だがストーリアが燃え盛る中、グレオは怨嗟のような言葉を漏らしてこちらを睨みつける。


「約束なんて、約束なんてなァ……!」


 それは本能に突き動かされた、獣のような憎悪だった。




 脳裏に蘇ってくるのは、今までグレオ自身を傷めつけてきた灰色の風景。


「待ちやがれ、このクソガキ!」


 幼い頃に両親を失った彼にとっては、周りに誰もいない孤独な毎日が当たり前になっていた。


 そして、路頭に迷って盗みを働くことさえも。


「捕まってたまるかよ……あっ!」


 ほんの少し、その日は油断してしまった。前も見ずに全速力で走っていたグレオは、道につまづいて転んでしまう。


「良いじゃねえか、食い逃げしたくらいでッ!」


「お前の顔は街中に広まってるんだ……今度こそ騎士団に突き出してやるからな!」


 どうにか切り抜けられる、そう思っていた自分は甘かった。


 大柄な男の身体は地面に倒れ伏す彼を簡単に封じ込め、逃げようとすればする程苦しくなるばかりだった。


「放せっ、とっとと放しやがれ!」


 それでも自分にはまだ未来があると信じて、足掻いて手を伸ばす。震えながら、前に。


「しつこい奴だな。おい、大人しくしろガキ!」


 このままだと人を呼ばれる。グレオは必死に足掻いていたが、徐々に終わりが近付いてくるのを感じた。


 だがその時、どこからともなく奇妙な声が耳に入った。


「伏せるのです……シングル・ステップ」




「がっ……かはっ!?」


 今にも潰されてしまいそうだった力が突然抜け、グレオは驚いて目線だけを上げる。


 今まで男だった存在は、ミイラのように干からびていた。


「な、何だよこれ……!?」


 何が起きたのかさえ分からない。魔法……かどうかも理解できない、人智から外れた超常的な現象。


「うぐうっ……!」


 干からびた男は苦しみ悶えながら壁にぶつかり、そのまま灰となって掻き消えてしまう。


 グレオは呆然として、立ち上がることさえできなかった。


「危なかったのです。お怪我はありませんか、グレオ・ソルディネ?」


「オメー誰だ……どうして、俺の名を知ってやがる」


 ようやく姿を現したのは、黒いローブに身を包み、顔をすっぽり隠した不気味な人物。


「貴方のような存在を探していたのです。行く当てが無いのなら、私が貴方の居場所を与えてあげるのです」


 爽やかな青年のような声ながら、言葉には感情が無い。


 何も分からないまま手が差し伸べられ、グレオは困惑しながらも目を背けた。


「約束っていうのは嫌いなんだ。怪しい勧誘なら他を当たれ」


「そのような安っぽいものでは無いのです。これは言うならば……神のお告げ、なのですよ」


 払いのけても彼の態度は崩れない。気配すら出さずに歩み寄り、グレオの目の前に黒い本を差し出す。


「これを手にすれば、貴方は人を超えた力を手に入れることができるのです。先程私がしたように、貴方も邪魔な人間を消してみたくは無いのですか?」


 その本を目にすると、グレオの視界が徐々に歪み始めた。


 まるで毒に吸い寄せられるかのように、今までの不幸やそれに対する怒りが晴れていくように感じる。


「……これがあれば、俺もあんな力が使えるのか?」


「ええ。稀有な才能を持つ貴方なら、きっと……」


 じわりじわりと惹かれていく。もしかしたら、自分はこのような夢物語をずっと求めていたのかもしれない。


「呪術の力……貴方も手に取ってみるのです」


 耳元で囁かれたその声が、揺らいでいたグレオの心に最後の一押しを与えた。


「分かった。そういうことなら乗ってやるよ、ローブの兄貴」


 どうせ、このまま生きていても幸せはやって来ない。


 終わりに向かう命なら、一か八かのやり直しに賭けてみても惜しくは無いと覚悟を決めた。


「ふっ……私はジョン・オウタム。貴方のような可哀想な人間に救いの手を差し伸べる、新時代の救世主なのです」


 その本……呪術の書を手に取ったことで、グレオの新たな人生が始まっていく。


「改めて、呪術師の世界へようこそなのです。グレオ・ソルディネ」




「約束なんてなあ……紙切れ程の価値もねえんだよ!」


 グレオの叫ぶような怒号と共に、炎に包まれていたはずのストーリアが蠢いた。


「そんな……」


「ここで倒されるわけには、いかねえんだよお!」


 限界はとうに超えているはず。それでも傷だらけの眼球は、慌てふためくこちらの姿をはっきりと捉えていた。


「とっととそいつから夢を奪え、豚野郎ッ!」


 高く掲げていたリカルドの杖が、徐々に下がっていく。


 まるで彼の激しい感情の爆発に、深手を負ったはずのストーリアが呼応しているかのようだった。


「最初から、お前なんて殺しておけば良かったんだ……そうすれば俺は、こんな、惨めな思いなんか……」


 早く逃げないと。そう思っていても、頭が真っ白になって全身から力が抜け落ちてしまう。


「さあ食わせろ……お前の魂を、全部!」


 炎に塗れた怪物の手が、リカルドの額を完全に覆った。




 続く

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