第8話 叶わない誓い、でも未来Ⅱ
「えっと、事件のあった場所ってこの辺りなんだよね?」
襲われた所に目印を付けた地図を開く。イリーナたちは中心街から東に、人混みを掻き分けて進んでいた。
「ここで右に曲がろう。大通りはこのように騒がしいが、一本奥に入ると空気が違うはずだ」
「んっ……?」
クリスの言う通り、薄暗い路地に足を踏み入れる。廃墟のように静まり返った店が立ち並び、どこか不気味な雰囲気を醸し出していた。
「ここも程々に賑わっていただろうが、困ったことにストーリアのせいでこの有様だな」
最初に標的になったのは、ワズランド出身の男性が経営する骨董屋。店の前に立ち、閉店の看板を眺めて裏口を探す。
上の住居に人がいると信じ、ドアを優しく叩いた。
「はい、どちら様ですか?」
恐る恐る、といった様子で出てきたのは、店主の妻らしき若い女性だった。
「ワズランド魔法学校のイリーナといいます。その……魔法使い襲撃事件について、情報を集めてるんですけど」
「魔法学校……ああ、そういうことですね、こちらへどうぞ」
店主はどこにいるのだろう。だが家の中に案内されても、誰かがいるような気配は感じられなかった。
「主人は奥の部屋にいます。ちょっと待ってて下さいね」
彼女は小走りで廊下を抜けていった。被害者は魂が抜けた状態になっている、というエルアの言葉が頭をよぎる。
不安が徐々に増していき、止めた足が小刻みに震える。
「オリバーさん、魔法学校の方が来ていますよ!」
返事は聞こえなかった。妻の呼びかけるような声だけが、静かな家の中に虚しく響き渡る。
「大丈夫だそうです。中にお入り下さい」
「はい……」
きっと彼女だって、夫が動けなくなって気が動転していることだろう。悲しみを覆い隠すような表情を目にし、一行の気はより重くなった。
「すみません、失礼します」
頷く妻に頭を下げる。無意識に湧き上がる不安を振り払って、奥の部屋に足を踏み入れた。
そこにいるのは確かに人だった。だが、生気の抜けた姿はまるで気配を感じない。
「あっ……」
相手が絞り出した掠れ声と、こちらの驚く声が重なった。
「主人のオリバーです。数日前からずっとこのような状態で、私が支えても歩くことさえ厳しい状態です」
「……詳しい容体を確認したいので、近付いても?」
前に出たのはクリスだった。さながら医者のように、座り込む彼の前でゆっくり手を振る。
「オリバー氏……で良いかな。どこか痛む部位は?」
ゆっくりと、威圧感を与えないように告げる。彼はしばらく沈黙した後に首を振った。
「あり、ません……」
「なるほど。痛みが無いとすれば、倦怠感は?」
ほんの少し彼の身体に触れる。手足と、頭と、そして物言わず脈打つ心臓に。
「そうですね……もう、何もする気が起きなくなりました」
耳を澄ましてようやく聞こえるような声で、僅かに口を開けながら話し続ける。
「何か、自分って本当ダメなんだなって……頑張っても客は来ないし、一生このままなのかな、って」
立ち尽くすイリーナたちに、妻がゆっくりと口を開く。
「閉店前、私が目を離した隙に襲われました。すぐ彼のもとに走ったのですが、店にはもう誰もいなくて……」
それから、ずっと一人で動けずこの部屋に。
カーテンの閉じられた小さな部屋には僅かな光が入って来るのみで、外の世界からは一つ壁が作られていた。
他の魔法使いのもとを訪れても、皆言うことは同じだった。
「どうでも良くなった、か……」
行き場の無い感情を抱えながら、イリーナは周辺の地図を改めて眺める。
情報は集まったけど、点と点が繋がらないもどかしさ。
「被害者の症状は概ね把握できたたが、相手の姿が掴めないか。中々厳しいな」
最大の証人は襲われた人たち。それなのに、あのような状態では敵の姿を聞き出すことさえ叶わなかった。
「ストーリアが住み着いているのはこの辺りなんでしょ? だったら、他にも姿を見た人がいるかも」
「なるほど、そこを当たってみるのも良さそうだ」
ミシェルが指差したのは、円形になった被害報告の目印。ここが敵のテリトリーであることを示していた。
「あそこ、中に人がいるんじゃない?」
ふとイリーナが向けた視線の先には、営業を休止している時計屋の姿があった。
元気を失くした街並みの中で、ただ一つ明かりが見える。
「このまま途方に暮れていても仕方無い……入ってみるか」
特に根拠は無い。だがそこに入れば何かが分かると、自分たちの見えない感覚がそう告げていた。
「ごめんなさいね。今日は営業していなくて……」
店の前に立つ人影を見つけ、男性がいそいそと鍵を開けた。
「あれ、魔法学校の子?」
「すみません、ちょっとお聞きしたいんですけど……」
イリーナたちの制服を目にして表情が緩む。男性の前から店の様子を眺めても、他の人はいなさそうだった。
「最近この辺りで魔法使いが襲われる事件が起きていて、その犯人を捜しているんですけど、何か知りませんか?」
無理なら、また他の方法で敵を探るしか無い。
ダメ元で恐る恐る聞いてみると、男性の反応は意外にも快いものだった。
「あの怪物か……分かった、取り敢えず中で詳しく話すよ」
少し散らかった家具を脇にどかし、客を迎え入れるように椅子まで案内された。
「お茶を淹れてくるよ。少し待っててね」
「ありがとうございます……」
男性が奥に入っていくと、途端に店内が静かになる。耳を澄ますと、壁掛けの時計が心地良い音を奏でていた。
どうしようと困っていると、クリスがメモ帳を取り出す。
「ちょっと状況を整理してみるか……実は被害者の様子を見て、大まかな敵の目的が判明した」
「えっ、本当に?」
驚いて身を乗り出すイリーナに、彼女は落ち着けと言わんばかりに手で制した。
「襲われた魔法使いに術をかけられた気配は見られなかった。相手の能力は恐らく、人の感情を吸い取る力だろう」
封印ではなく吸い取る力。断言したのには理由があった。
「魔法の力は人の感情によって作用するのは君も知っているだろう。呪術もそこは共通していて、感情を媒介にしてボクたちの理解を超えた現象を起こしているのさ」
「……なるほど、そういえば」
昨日の授業で触れられた分野。確か、イメージすることが大事だとキャロル先生が言っていたはず。
「つまり、魔法も呪術も元は同じってこと?」
「異なる点もあるよ。魔法は才能という形で選ばれた者に宿るが、呪術は道具による後付けの力だ」
イリーナは自分の手を見つめた。あの日が来るまでは、家族や友達と一緒に普通に暮らしていたはずなのに。
ミシェルだけじゃない。私にもずっと魔法の力が。
「恐らく、今回ストーリアにされた人間は何らかの理由で魔法使いに強い恨みを抱いているのだろう。それも特にこの辺り……ゴオツ境界付近をターゲットにしてね」
人の感情を吸い取る。その理由は、きっとストーリア自身が夢を叶える力に飢えているから。
だがイリーナは、彼女の言葉に引っかかりを覚えた。
「あれ、ストーリアって呪術師が作った魔獣じゃないの?」
「何を言っている、あれは負の感情を抱えた人間が……」
すると、突然飛びかかってきたミシェルがクリスの口を覆慌てて塞いでしまう。
「ふ、負の感情が実体化して怪物になるんだよ! 呪術も人の感情を媒介にして術を使うから……そうでしょ!?」
「むぐうっ……」
「なるほど、そういう仕組みなんだね!」
手足を動かしながらもがくクリス、何とか抜け出そうとしていると、差し出されたカップに阻まれた。
「遅くなってごめん。紅茶を持ってきたよ」
戻ってきた男性の手に握られたポットからは、仄かな湯気が漏れ出でいた。
「僕はリカルド。この店で時計の修理や販売をしている者だ」
「魔法学校属性科のイリーナといいます。こっちは幼馴染のミシェルと、友達のクリスです」
ようやく解かれ、しかめ面になったクリスも頭を下げる。
「属性科か……真面目だね。僕はあんまり成績良くなかったし、羨ましいな」
優しさと柔らかさの混じったリカルドの瞳は、まるで昔の自分を思い出しているようにも見える。
紅茶を一瞬啜る。味は苦く、そして華やかな香りだった。
「そうだ、君たちは確か怪物の行方を捜しているんだったね」
「はい。今後の討伐のためにも、姿や能力について詳しく知りたくて」
彼は言い淀んで頭を捻る。秒針が音を刻み、集まった四人の間に緊張が走った。
「あれは……数日前のお昼頃のことだったかな。休憩を取ろうと外に出たら、近くで悲鳴が聞こえてきたんだ」
もちろん怖かった。だけど好奇心が勝ってしまい、声のあった路地にこっそり向かったとリカルドは話す。
するとそこにいたのは、その場に倒れている女性と……
「豚の怪物が立っていた。暗がりでよく見えなかったけど、大きさは人と同じくらいだったと思う」
何気ない日常、いつもの風景に、人智を超えた怪物が居座る姿は異質であり恐怖そのものだった。
「豚は僕を見るとすぐ逃げ出したよ。ただ……その時にこう言い残した。リカルド、お前を許さないって」
「えっ……怪物は、リカルドさんと面識があったんですか?」
何故かクリスとミシェルが複雑そうな表情をする。どこか、感情に膜がかかっているような。
イリーナの質問に、彼は反射的に首を大きく振る。
「まさか。話したことも会ったことも無いよ、あんな化け物」
それが、営業を休止した理由。小刻みに震えながら話す彼の恐怖が伝わってきて、空気がずしんと重くなった。
「事情は理解した。怪物騒ぎが収まるまで、しばらく身を隠した方が良いだろう」
「ああ、僕もできればそうしたいのだが……」
どうすれば良いか分からない、彼の表情はそう告げていた。
「……よし、取り敢えずミシェルはリカルド氏の傍にいてくれないか? その間に、ボクとイリーナでストーリアの目的を調べていきたい」
クリスは待っていられないとばかりに立ち上がり、そんな彼女をイリーナが追いかける。
「分かった……でもどうして私と?」
「君の力に期待しているからさ。知能はボクが上だけどね」
まずは、ストーリアが現れた路地の場所に。そこから解決の糸口を探り、相手が現れれば全力で倒す。
紅茶を飲み干し一礼すると、二人で外に出る準備を始めた。
「ちょっと待って、二人で本当に大丈夫なの?」
不安に耐え切れず立ち上がるミシェルを、クリスはまあまあと宥めた。
「ストーリアの動きはまだ読めない。今は分散して、それぞれの情報を共有し合うべき時だろう」
「安心してミシェル、すぐに戻るから!」
一度走り出したら止まらない二人を、彼女はただ見送るしかない。
「もう、そう言ってすぐ無茶するんだから」
何も無ければ良いのだが。取り残された店の中で、ミシェルは様々な感情が積もった溜息を吐き出した。
「何か、こうやって二人で動くの初めてかもね」
そうかもな、とクリスが答える。人気の無い通りは寂しく、話し声だけでも遠くまで響き渡りそうな気がした。
「そういえばさ……」
ずっと聞けずに気になっていたことを思い出し、先に口を開いたのはイリーナだった。
「クリスってどうして魔法学校に入ったの?」
「君はどうして魔女になろうと思ったのだ?」
でも切り出したのはほぼ同時。お互いに顔を見合わせ、笑いが波のように押し寄せる。
「ふふふっ……何それ、クリスも気になってたの?」
「そうさ。なのにずっと聞きそびれていて……ははっ」
意外だった。他人にあまり興味を持たないと思っていたクリスが、こんな風に誰かの目標を気にするなんて。
それとも、私がそう見えていただけだったのかも。
「私が魔法使いになりたいって思うようになったのは、ベルドールさんがきっかけだよ」
原初の魔女。この世界に魔法という新しい概念を生み出し、みんなの生活を豊かにした凄い人。
その名を聞くと、クリスも大きく目を開いて頷いた。
「あの人は本当に凄いよ。昔は魔法学校なんて無かったのに、将来のために魔法の仕組みを一から解明するなんてさ」
自分が同じ立場なら諦めたかもしれない。だから迷った時は、あの人のことを思い出して勇気を貰っている。
「なるほど……ベルドール・エーレンドか。魔法使いの少ないカルミラでも、まさか知っている人がいるとはな」
「クリスも知ってるの、ベルドールさんの伝説?」
ほんの少し肩が軽くなる。同じ話題を共有して盛り上がると、どうしてこんなにも嬉しいのだろう。
「きっかけの一つにはなっているだろうな。ボクも時間が空いた時は、彼女の遺した秘術について調べているよ」
悪戯っぽく笑いかけるクリスに、イリーナはもっと聞きたいと身を乗り出す。
「危険過ぎる故に封印されたという噂があるのさ。何でも一流の魔法使いさえ扱いが難しい特別な魔道具や、人の命を吸い取るこわーい魔法も作っていたらしい」
「えーっ、ちょっと想像つかないかも……」
でも、もしかしたらあるのかもしれない。魔法の研究に没頭する中で、世に出せなかったものの一つや二つも。
そう考えてみると、何だかちょっとワクワクしてきた。
「だからボクは勉強しているのさ。バカな噂を信じずに、分からないことは自分の力で掴んでみせる」
胸を張って歩くクリスの姿は、凛々しくも誇らしかった。
「君も一緒に学んでみるかい、ベルドールの秘密について?」
「うん……もちろんだよ、すっごく楽しそう!」
二人は友達として手を握り合いながら、重く暗い建物の森を突き抜けていった。
リカルドから聞いた目印と、今いる場所を照らし合わせる。
「……ここだな、ストーリアが出たという路地は」
住民の目から外れ、僅かなかび臭ささえ漂う空間。襲われた人はおらず、もう他の場所に運ばれているのだろう。
だが、杖で照らすとそこには確かな証拠が残っていた。
「宝石かな、これ?」
人の手よりも小さい、輝く石がその場に落ちていた。傷や尖りが多く、磨かれた痕跡も無い不思議な物体。
「分からんな……自然の物ではないことは明らかだが」
「もしかすると、ストーリアの落とし物かも」
確信は無かった。けれどヒントになるかもしれないと考え、イリーナは謎の物体をポケットに入れた。
他にもヒントはあるだろうか、辺りを見回して探してみる。
「うーん、無いかなぁ……」
隅々まで探してみても結果は変わらなかった。学校にこの石を渡せば、どんな物か調べてくれるかもしれない。
最後にもう一度路地を見て、身を翻そうとした時だった。
「……むっ?」
「ねえ、何か変な音がしない?」
ずしんと響く大きな音。それに今まで感じたことの無い揺れに、思わず身の危険を感じて構える。
「油断するな、何かが来るぞ」
クリスが杖を構える。直後、地面の揺れる音が大きくなり、核が近付き始めるのをはっきりと感じた。
違和感じゃない。私たちを狙って、敵が歩みを進めている。
「なあ。とっとと返してくれよお、俺の宝石」
少し間の抜けた、どこにでもいるような男の声。気配はすぐそこなのに、姿が見えないのが気持ち悪い。
「貴様がストーリアか。人の心を己の都合で食い潰す、欲望に取り憑かれた哀れな豚め」
「……聞こえなかったのかあ、魔女?」
一歩、二歩と敵が進み、そこでようやく全貌が見えた。
人の言葉を喋る、二足歩行の豚の怪物。蠢く鼻と太りに太った身体は、異様と呼ぶに相応しい存在だった。
「そいつは俺の物なんだよお、この盗人共めェッ!」
真っ直ぐにこちらを睨み、ストーリアは爆発するような雄叫びを上げた。
「くうっ……」
怒り、憎しみ、殺される。イリーナは目を見開いて後退る。
「俺の前に立つ奴は、誰だろうがぶっ倒してやるう!」
ストーリアが飛びかかる……その瞬間、クリスに引っ張られて路地の外に引き出された。
「おわっ!」
体重に似合わぬ俊敏さ。もし自分が動かなかったら、あの場で押し潰されていたかもしれない。
ようやく差し込んだ太陽の光に、視界がぐらりと歪む。
「石を守りつつ援護を頼む。奴はボクが止めてみせる」
「えっ……うん、分かった!」
陰からゆらりとストーリアが這い出てきた。起動すれば一気に間合いを詰められる……今。
「サンダー・ランス!」
間一髪で圧殺を免れ、近付いた腹部に槍を振りかぶった。
「……くそうっ!」
電撃が相手を掠め、不用意に駆け寄る身体を弾き飛ばした。
それでもまだ終わらない。突風を足に纏っているような素早い動きは、感覚に頼らないと姿さえ捉えられない。
「何故そこまで夢に執着する。復讐のためか?」
「そんなの……決まってるだろう?」
クリスはふと感じるよりも先に振り向いた。壁によじ登り、今にも飛びかかろうとするストーリアの影。
「気に入らねえんだよ。俺より輝いてる奴は全員なあ!」
重力を帯びた豚の腕と、雷を纏った槍がぶつかり合う。
一歩下がり、跳ね返す。しかし受け止めきれず、ストーリアと共に後ろに吹き飛ばされてしまった。
「くうっ……!」
痛みを耐えて起き上がった。ならばと距離を取り、魔力を溜め込んだ槍を地面に突き刺す。
気付けば相手も突風のように息を吸い込み、こちらを弾き飛ばさんとばかりの技を放とうとしていた。
「サンダー・ジャッジメント!」
「跡形も無く消え去れ……勝ち組共ォッ!」
下から迫りくる雷と、真っ直ぐに突き刺す風の衝突。爆発のような音が響き、視界が一瞬閉ざされた。
「アイス・ムルバ!」
クリスが槍で煙を払おうとした途端、後ろから詠唱が耳に入り動きが止まった。
同じく反撃しようとした、ストーリアの足元が凍り付く。
「ぬぐっ……何だあッ!?」
「今だよ。一気に決めて、クリス!」
動きが追えないなら、止めてしまえば良い。相手はもぞもぞと身体を動かすが、半端な力では抜け出せない。
「感謝するぞ、ボクの友人!」
負の連鎖は、ここで絶対に終わらせてみせる。
クリスはストーリアの懐に飛び込み……そして、頭の頂上を正確に捉えた。
「覚悟しろ……サンダー・ランス!」
奪われた魂はこのストーリアが持っているはず。倒せば魔法使いは元に戻る。いつもの毎日が、戻ってくる。
「ハ、ハハハッ」
そんな油断から生まれた希望は、豚の笑い声によって一気に掻き消された。
「本当に、残念だったなあっ!」
倒せない。深く差し込んだ槍はそのまま身体に沈み、込めたはずの力がずぶずぶと空回りする。
一つだったはずの肉体が、徐々に分かれていく。
「何っ……!?」
不意な驚きと共にクリスの体勢がぐらりと崩れる。まさか、こんなはずでは。
「よくも俺を……いや、俺たちの邪魔をしてくれたな」
「最初から本気で殺せば良かったんだ、こんな奴ら!」
「その力羨ましいなあ、とっとと俺たちに寄越せよお」
左右から、重く鋭い声が交互に投げかけられる。
攻撃を受けて三つに分裂した豚は。それぞれ怒りと、後悔と、嫉妬の念を持って顕現した。
「さ、三体に増えちゃった!」
倒すという勇気が威圧的な絶望に移り変わる。イリーナは目の前の光景に、思考が僅かに停止した。
「……というか、そもそもこいつらの相手をしたのが間違いだったんだよなあ」
距離がじわじわと迫る。しかし後悔の豚は足を止め。立ち向かう二人とは別の方向に視線を移した。
そう、今まで狙っていた大きなターゲットの方へと。
「リカルド……あいつから魂を奪わなきゃ始まらねえなあ」
噴き出した息は、小さな竜巻となって襲いかかる。三位一体の攻撃に、魔女たちは思わず顔を覆う。
「ぬう、ぐうっ……」
「何これ、全然見えないっ……!」
周りの状況が理解できない程の突風。先へ進む彼らを止めようと足掻いても、動くことさえままならない。
「このっ!」
次に晴れた時、三匹の姿は霧のように消え失せていた。
「まずいな……」
二人で辺りを見回す。姿こそ消えていたが、耳を澄ませるとまだ微かに足音が聞こえていた。
まだ諦めるわけにはいかない、イリーナは声を上げた。
「追いかけよう。私たちで止めないと!」
「ああ、言われなくても!」
思っていたよりも早い出番だった。だが、失敗した時のことを考えている暇は無い。
「アザー・ディメンション!」
杖を空に掲げると、手元に白く輝く箒が現れた。
「魔力を込めたら空を飛べるんだよね、これって」
「ああ。その通りだが、操作には加減が……」
手取り足取り教えようとしたクリスを払いのけ、すぐにストーリアの後を追いたいイリーナは箒に力を込めた。
そして、その行動を数秒後に後悔することになる。
「私が先に行くよ。ウインド・レ・ムルバ……ぁぁっ!?」
思っていたよりも力強く動き出した箒は、抱いていた感情を全て置き去りにして飛び上がった。
「ちょ、ちょっとこれ、どどどうするの!?」
右に左に揺さぶられ、落ちないように掴むので必死だった。
「やれやれ……力の入れ過ぎた、肩を下ろせ!」
「そんなこと言われてもおおっ!」
覚えるのは早い方。そんなことを言って誤魔化していた、かつての自分を叱り飛ばしたい。
「誰か……誰か助けてえええ!」
まるで暴れ馬のように、勢いに乗った箒は暴走を始めた。
続く
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