第29話 7月2日という日

第29話 7月2日という日


(牛の脳はどの位の大きさだっただろうか、崩れやすいものだろうか……)そんなことを広田は想像する。


「去年は…… 夫が可愛がっていた、ジョンと云うゴールデンリトリバーが居なくなりまして、翌日の七月二日、玄関ポストにB4版の角封筒が投函されており、それには差出人の記載はありませんでした……」


「中身は何だったんでしょうか?」


「中央が膨らんでいましたので、外から押してみたんですが、何か真ん中に芯のある、ふわふわした感じのものでした」


「ほほお」広田は興味を抑えられない。


「私も娘も、このまま捨てようと主張したんです」

 夫人は、また少し震えているように見えた。


 広田には、封筒を取り上げようとする、黒川博士の姿がおぼろに浮かんだ。広田はまだ、黒川新一郎とは対面していないのだ。


「でもご主人が、それを開けたのですね?」


「ええ。中身は羽箒のようなものでした。でもアンナが急に大声を上げました」


「それはまさか?」広田には想像が付いていた。


「ジョンの尾っぽでした……」夫人のかすかな震えは止まった。


「!」


 目を閉じて、口を開けたまま横たわる、大型犬ゴールデンリトリバーの姿が、広田のまぶたの裏に明瞭に浮かび上がる。

 そのイヌには尻尾が無かった。


「主人はどうも予期していたようでした。中身を見た時も、主人はむしろ落ち着いていました。

 でも新一郎の目から涙が一粒こぼれ、ジョンごめんねと言ったのです」


 広田はしばし言葉を失った。

(ドクター黒川は、そのいやがらせ事件の責任が、自分にあると考えたのだろうか?)


「そして、今年の七月二日は最悪の日になりました……」

 夫人は目を閉じた。


 外でセミの鳴く音が聞こえる………


「その七月二日と云う日に、何か心当たりが有りませんか?」

 広田は刑事の顔に戻り、そう質問した。


「主人は去年の時も、その質問をすると、黙り込んで答えてくれませんでした。

 そこで私は、ニューヨークの親しい友人に、事情を簡単に説明するメールを送り、調べてもらいました」


「それで何かわかりましたか?」広田は身を乗り出した。


「十三年前……二〇二〇年七月二日は、天才ザル・トミーの脳移植が行われた日で、一般には、スーパーバイオコンピュータ開発に成功した日として知られています。

 主人の名前は公になっておりませんが、新一郎はその手術の執刀医だったとのことでした。

 主人が話してくれなかったので、そのことは私もずっと知りませんでした。

 アメリカの新防衛計画の一部だった、スーパーバイオコンピュータの開発計画に、主人も参加していたのです……」


「驚きました。実に驚くべきことだ。

 するとそれらの事件は、スーパーバイオコンピュータに関わる何かの警告ですね」


「何の警告なのか、誰からの警告なのか、主人の意識が戻らない以上わからないのですが、広田さん!

 娘の仇、主人を追い詰めた犯人をきっと探し出して下さい」

 ジョディ黒川は、初めて広田を見詰めた。


「はい。きっと見つけ出して見せます」

 広田は黒川夫人の心を救う為にも、犯人をきっと検挙して見せると心に誓った。

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