第28話 黒川新一郎の心臓発作と黒川夫人の述懐

第28話 黒川新一郎の心臓発作と黒川夫人の述懐


 坂井警部の指示で動いていた広田班は、最後の突然死被害者、黒川アンナの周辺を洗っていたが、今日七月六日の朝のニュースを見て、広田巡査部長は愕然とした。


 それは扱いの小さなものだった。

「かつて日本が生んだ天才脳外科医として、アメリカで華々しい活躍をしたドクター黒川新一郎が、昨夜心臓発作で中野の大東病院に緊急入院しました」というニュースである。


 病院に急行した広田は、病室への途中にある見晴らしの良い休憩所で、頬杖を突いている黒川ジョディを発見した。

 そのやつれ切った三十代後半の女性は、黒川アンナの母であり、ドクター黒川の夫人である。

 広田は昨日も話をした、美しかった筈のこの女性が、たった一日違いで、こうも老け込んでしまったのを見て驚いた。


 ドクター黒川には、今日話を訊くことになっていたが、病院関係者の話では、今は危篤状態で話などできる状態では無いと言う。


 広田は悲嘆に暮れる目の前の女性に対し、平凡な挨拶しか思い付かなかった。

「ジョディさん、この度は重ねて大変なことになりましてお気の毒です」


「あ、広田さん」

 ジョディは名前を呼ばれ、大儀そうに顔を起こしてそう言った。


 うつろな目、焦点は遠い。無理も無い、四日前に一人娘を亡くし、今度は夫が重体になってしまったのだ。


「ご主人の状態はいかがですか?」

 こんな言葉しか掛けられない自分を、広田は呪った。

 今日はこのまま帰ろうかとも思った。


 その時、ジョディは目に色を取り戻し、忽然として立ち上がった。

「お話がございます。誰にも聞かれない所で」


 黒川夫人のただならぬ雰囲気に、広田は職業柄ぴんと来た。

 直ちに病院事務室と連絡を取り、ブリーフィングルームを借り受ける手続きをした。

 夫人の話によると、黒川新一郎は小康を保っており、まだ数時間は眠りから醒めないそうである。

 ただ次の発作が起きれば、その命を保証できないと、担当医師から引導を渡されていた。

 そういう状況になって初めて、夫人はあることを話す決断をしたのだ。


 ブリーフィングルームに入ると、直ぐ夫人は話し始めた。

「実は、私達は毎年嫌がらせを受けていました」


 夫人は広田のやや右横の辺りを、真っ直ぐに見ている。

 朗読をするように、その声ははっきりと響いた。

 やつれてはいるがジョディは、アメリカ東部の女性らしく、青い目は大きく、鼻が高く、その四肢はすらっと伸びている。


 広田は、ジョディの一言目を聞いた時、その告白の重要性を嗅ぎ取った。

「と言いますと?」


 ほっそりとした決意の夫人に対し、大男の広田の方がやや気圧されている。


「私達夫婦と娘は、四年前に三鷹の家を建て、日本で暮らすようになるまではニューヨークで暮らしておりました」

 ジョディの日本語はかなり流暢である。


「はい」

 広田としては夫人が話しやすいように、合の手を入れる簡単な返事をするだけで良かった。話を正確に聞き取り、手帳にメモを取る作業に集中する。


 夫人はメモを取りやすいように、話す速度を調整しているようだ。

「主人は、全米ではかなり知られた脳外科医でしたが、十年ほど前から医師としての自信を失い、その後は引退状態でした」


「はい」


「それからは精神的にも不安定な所がございましたので、環境を変えると云う意味で、主人の母国である日本に、家族揃って移住して来たのです」

 夫人はそこまで言うと、全身を震わせ始めた。


 広田はじっと見守ている。

 やがて大きく息を吸い込み、呼吸を整えた夫人はまた語り始めた。


「でもそれは、大きな間違いでした」


「はい」


「来日してからというもの、毎年七月二日に、不気味な事が起きるようになりました」


「それはどのようなことですか?」

 核心に触れる話を前に、広田の心がはやる。


「三年前が最初でした。でもこの時はまだ、他愛の無いものでした。でも主人はかなりの衝撃を受けたようです」


「ほほお」……ドクター黒川に関する秘密なのか?


「ニッキィ・ザ・モンキーってご存知かしら?」

 夫人は目線を変えないまま、独り言のようにそう言った。


「ああ、アメリカで人気が出たキャラクターで、数年前から日本でも人気がありますね」


 広田が答えたように『ニッキィ・ザ・モンキー』は、小中学生あたりをターゲットに、巧みなマーケット戦略を駆使して、近年人気を博しているアメリカ生まれのキャラクターグッズである。

 そのモンキーキャラクターをプリントしただけで、子供服などはバカ売れするらしい。


「そのぬいぐるみの頭部だけが、三個も玄関前に捨てられておりました」


「それは奇妙ですね」

 そう言って広田は、夫人の表情を読み取ろうとした。


 夫人はやや青ざめて、ただ一点を見詰めているように見える。

「頭の無い残りの三体は、庭の中央に転がっていました」


「たちの悪いいたずらですね」

 広田は、緑の芝生の庭に転がる、顔無しのぬいぐるみ群を想像する……それを怖がる少女と母、呆然と立ちすくむ男を。


「その日の主人は、ショックで口も利けないのか、私が何を訊いても答えませんでした。

 その後もそのことを訊くと黙り込んでしまいます。でも不思議なことに、精神的には安定を取り戻しました」


「なるほど」


 夫人の感情は読み取り難い……それでも広田は、その中に静かな怒りを感じた。


「二年前は、動物の臓物の様なものが、玄関前の鉢植えの木を根元で折って、その上にお供え物みたいにして置かれていました。業者を呼んで片付けてもらったのですが、あれは牛の様な、大型動物の脳みたいですねと言ってました」


「牛の脳ですか……」

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