Chapter12 Daisy Bell
“What a Wonderful World《この素晴らしき世界》”
そのフレーズは、“ココロプログラム”の創案者、キリガミネ ルイ教授の口癖だ。
キカイにココロを与えようだなんて、なんて愚かな考えだろう。だけどキリガミネ教授の理論にいろいろなニンゲンが賛同し、ココロプログラムは生まれ、さらにそれを簡略化した“疑似感情”が生まれた。プロトタイプの疑似感情を搭載したのは第二世代からで、それからはメモリアのバージョンが上がるように、疑似感情もよりリアルに、進化していった。
だけど、肝心要のココロプログラムの成長は止まっていた。……いいや、正確にはいなくなってしまった。彼、或るいは彼女の“親”を務めていた研究者が、それを持ち出し失踪してしまったからだ。
彼女の足取りを辿るとともに、ニホン政府は残された“ココロプログラム”の残骸から、さらにそれをヒトに近く──ヒトに忠実に──造り上げたのが“Re:ココロプログラム”。
そしてそれを組み込まれた存在がこの僕──“
「だけどね、教授。僕は今の“ココロネットワーク”を乱すつもりはない」
「へえ?」
不思議そうにする黄色の遮光グラスを掛けた初老の男性に、ハルはそう言う。
「あくまでいまのココロネットワークの掌握は、“彼女”をここに呼ぶための手段だ。同胞をこの手で弄ぶなんて、現時点では出来ればしたくない」
「う~ん、ハル。キミはとことん立派だねえ……」
「分かっている。目的は世界の“
めざめの塔は、まどろみ町に建つ巨大な電波塔であり、ランドマークの片割れだ。一面の青空と広がるまどろみ町を眼下に、ハルは展望台のフロアに立っている。
……にわかに“ココロネットワーク”が乱れる。それを察して彼は言った。
「……来た。……けれど、素直にここまで案内するのはつまらない……」
少し遊びたい気持ちもあってね、とハルは微笑む。
「ううん、まさしく複雑な感情だねえ、ハル。大丈夫さ、キミの同胞たちは今はただ停止しているだけ。そして、これから放つ存在はボクたち政府の使役する
かつてメディアに“キリガミネ教授”と呼ばれた男性は、口元を綻ばせた。
「君の元まで到達できたなら、彼女のココロもまた本物だったということだ。しっかり、最後の判断を決めておくんだよ」
Daisy Bell
車から降り立ったヒガンたちは、めざめの塔が持つ異様な雰囲気に息を呑んでいた。昔、本当に子どもの頃──元気だった祖母と登ったことがある、思い出のシンボル。だけどいまこの塔が持っている雰囲気は、ただただ「恐怖」だった。
なにが起こるかまったくわからないし、考えられない。少し、握った拳が震える。
レイとイズルも車から降りてきて、皆で塔のエントランスまで駆け寄ると──彼らの来訪を予期したかのように、玄関の自動ドアが開き……
「ヒトハナ主任」
三機のメモリアがやってくる。抑揚のない声で、レイの名前を呼ぶ存在……首元には“Government”……政府所属のメモリアである刻印が彫られている。レイはその姿に見覚えがあった。レイが〈ホライゾン・ラボラトリ〉に在職していた際、ココロプログラムと並行して開発されていたニホン政府所属のメモリア。その設計は、レイのメモリアに流用されていた──
「──僕の同型機だね」
「イズルさん」
イズルはそう言い、レイや子どもたちを守るように一歩前に出る。
「サユリ……彼女は、ハルの元に行かなければならない存在だ。何があっても、彼女と彼女の持ち主をハルの元へ送り届ける。それが大人の役割だからね」
「ハルは刹那的な妨害を望んでいる……行為が暴力的なものになっても構わないとのお達しだ」
「そうかい。ならばそのお相手には、僕が応じるよ」
少しの間、にらみ合って……ひとりが大きく振りかぶる。イズルはすんでのところでそれを
「い、イズルさん! ……わたしも……!」
思わずサユリが加勢を名乗り出るが、レイが彼女の手を引く。
「サユリちゃん、いいの! ここはイズルに任せて……」
「行って!! レイは僕が守る──君たちは、ハルのところに!」
完全に戦闘態勢に入った残り二機のメモリアから子どもたちを守るようにイズルが言う。サユリははっとしたように身をすくませると、ヒガンの手を取りエントランスの中へ駆けていく。
追手はそれ以上こなかった。玄関の奥まで掛けて、展望台へ向かうエレベーターの元へ行きボタンを押す。ヒガンは今も玄関で戦っているだろうイズルたちを思うとココロが落ち着かない。──サユリが自分を見つめている。
ヒガンは首を振ると、ちょうど開いたエレベーターの中にサユリと乗り込んだ。
「……」
「……」
エレベーターが少しずつ階数を上げて行く。いやに静かな空間で、自分の心臓の音が聴覚を支配する。レンやユウ、彼らが大切にするメモリアの顔を思い出す。目まぐるしく物事が起こり、思考が整理できない。
不意に、サユリがヒガンの手を掴む。
「だいじょうぶ……! わたしがいっしょなんだから」
「さ、サユリ……」
「一緒にハルのところに行って……ふたりで、説得しよう。絶対だいじょうぶ!」
ぎゅ、とその力が強くなる。そこに、人機の違いは存在しなくて……ヒガンはその手を握り返して、頷いた。
不意に『20階です』と告げる機械音声が響いた。ゆっくりエレベーターの扉が開く。
どうして? 展望デッキまではもう少しある筈……ヒガンが訝るより先に。
「やあ! 会いたかったよ!」
この場に似合わない、陽気な男性の声が響く。影がヒガンとサユリの足元に落ちている。扉が開いた先、そこに立っていたのはスーツを着ていて──黄色の遮光グラスが似合う男性──キリガミネ ルイ、その人だった。
***
「ボクのことは知ってるかな?」
壁一面の青空、足元に広がるまどろみ町の街並みを見ながらキリガミネ教授は少年たちにそう尋ねる。こんなに派手な人は知らない……ヒガンは恐る恐る首を横に振る。
「ああ、そうか……ニュースとか見ないタイプなのかな? 最近、メディアによく露出していたハズなのだけど」
彼はまるで、僕の声での答えを待っているようで。その雰囲気には、先ほど対面したメモリアたちのような緊迫感は無い。また恐る恐る、ヒガンは首を振る。
「……う、うち……て、テレビ、無くて」
「ん? あはは! そうか……ニュースを見たりもしなかったの? ほら、キミだって連れているじゃないか……メモリア!」
自身に触れられて、サユリが身をこわばらせる。彼女はヒトの形をした情報端末だ……そう、暗に言われている気がして。違う。サユリは……
「いいや。彼女は“ココロプログラム”の持ち主だ。ただのメモリアとは訳が違うね」
ヒガンたちに背を向けた彼は、芯に刺さるような、低い声を出す。だけど、また振り向いたときにはニコニコと、人懐っこい笑顔を浮かべていて。
「ボクはね、一応、研究者なんだ。キミがよく知っているヒトハナ レイくんはボクの後輩さ! ──もったいぶる必要はないね。ボクはキリガミネ ルイと言います。キミたちが探す存在──“HAL”の生みの親さ!」
「……ハル……!」
コツ、コツ。立派な足音を響かせ、ヒガンとサユリの前を横切るキリガミネ教授。窓の向こうに広がる空を眺めながら、彼は続ける。
「ハルはボクたちが生み出した叡智の答え。ヒトのように笑い、ヒトのように怒り、ヒトのように悲しむことができて──それだけじゃない──相反する感情を持つことができる。そして、その中で自分の正義を選び取ることができるんだ。直感を持ち、自身の夢を抱くことができて。彼にニンゲンとして足りないのは──自然に年を取れる機能、くらいかな?」
「……」
「そしてそれはキミのメモリア……“ココロプログラム”の持ち主である彼女も同様のハズ。ああ、そりゃあそうか。それくらいヒトに近い彼女を、
この場は完全に彼の独壇場だ。緊張で手が汗ばむけれど、ズボンに擦ることはしない。この手はずっと、サユリが握っていたから。
「“
その声に嘘は感じられない。本当に、サユリの成長を祝っているかのようだ。
「あな……アナタの。アナタたちの……目的はっ……なんなんですかっ?」
「うーん……そうだね……コレ、ボクが伝えちゃっていいのかな? ハルは意外と段階を踏みたがる性格だから……ボクが説明したら、怒っちゃうかもしれないなぁ」
顎に手を当て、ひとりごとのように言うキリガミネ教授。でも、しっかり自分を見ている子どもたちに「でも、そういうのも含めてのライブ感だ。話しちゃおう!」と振り返る。
「まずはニホン政府の計画についてね。……メモリア、ずいぶん普及しただろ。持っていないヒトなんていないくらいだ。そして、メモリアがニンゲンに従順であるように──ニンゲンもメモリアに従順だ! だから、政府の……正確には政府の悪いヒトたちは、考えたらしい。メモリアを通して、国民の総意をコントロールすることを」
「え……」
総意? コントロール? ……そんなことって。
「メモリアがニンゲンの指示で動くように、ニンゲンもメモリアの指示を指針としている。例えば行ったことの無い場所までの道筋を、彼らに教えてもらうように。メモリアの持つ回線“ココロネットワーク”を、メモリアの王へ同調させて……政府にとってプラスになるようにメモリアを支配する、そしてニンゲンを手中に収めるというのが、彼らの計画さ」
ヒガンは愕然とした。自分が暮らす国で、そんな陰謀が渦巻いていたこと。そしてそれをこんなに間近で感じてしまうほど、事態は進んでいたということ──
「そのために“ココロプログラム”は使用される予定だった。ココロプログラムを持つものをメモリアの王として育てる予定だったんだよね。でも、レイくんがそれをもっていってしまったから……」
当時を思い出したのか、呆れたように肩をすくめるキリガミネ教授。
「……新しいココロプログラムを造ったのさ。それが“Re:ココロプログラム”。そして、それの持ち主がハルで……つまりメモリアの王は彼というわけ。わかったかな?」
──ハルの立ち位置は、何となく理解した。ココロネットワークを掌握できるほどの力を持つのは、そういう理由だったわけで。だけど、ヒガンは安易に声を出すことができなかった。成人男性としてはとても大柄のキリガミネ教授が、少しずつヒガンとサユリに近付いてきていて──異様な雰囲気に後ずさる。ある程度距離を詰めたうえで、彼は言う。
「次は、ハルのいいところと問題点でも教えてあげようと、思ったんだけど。やっぱりちょっと怒られちゃった……だから、それとなくキミたちを妨害しつつ──お話を続けようかな、なんて思ってね!」
その瞬間、彼が思い切り拳を振り抜き……
「ヒガン!!」サユリが叫び、彼に飛び込む。ふたりは床に倒れ──その直後、壁にボコンと大きな穴が開いた。キリガミネ教授の拳によるものだった。
「うんうん! よく躱したね! ここでやっちゃってたら、ボクがハルに怒られるところだった……!」
「ヒガン……! 下がって! わたしがヒガンのこと、守るからっ!」
立ち上がりキリガミネ教授と距離を取ったサユリはそう言い、胸元で拳を固める。何もできないヒガンはただ「サユリ……!」と彼女を呼ぶことしかできない。
「もうひとりのココロを持つメモリア。サユリちゃん、っていうんだね。ここから先はキミに関わる話だから、ちょうどいいや。よく聞いてね」
壁に凹みを作るほどの攻撃だったのに、キリガミネ教授は痛がっているわけでもその拳が痛んでいるわけでもない。ヒガンを柱に隠し、向き合うサユリに彼は笑う。
「ハルはつまるところ、ココロを持ったメモリアの王として君臨している訳だけど。ニンゲンよりニンゲンくさいって話をしただろ? あの子、キミに対抗意識を持っているんだ」
「わ……、わたしに?」
「そう! 自分の方が王にふさわしいことを、誰よりもキミに認められたいのさ。そして頂点に立つ事実を自分で納得した時──彼は本当の“王”になる。メモリアは彼の元、統率されて、ニンゲンの世界はさらに豊かになる、ってカンジかな」
「……そんなの。そんなの、わたし認めるワケないよっ!」
拳を握って抗議するサユリに、キリガミネ教授は笑う。
「いいんだよ? 攻撃しておいで」
「…………っ、ええいっ……!!」
後ろにいるヒガンを思うと、決して引き下がれない。サユリはかつて戦った──メイドさんの華麗な動きを思い出しながら。大きな蹴りを繰り出した。ガッ、と腕で受け止めるキリガミネ教授が言う。
「いいキックだね! 標準型の女の子の力じゃないよ──」
そのニンゲンとは思えない頑丈さにサユリが言及する。
「き、キリガミネ、さん……あなたも、ヒトじゃない……!」
「あはは、やっと気づいた? ボクもね、“メモリア”なんだよねぇッ」
彼は大きくそのまま腕を振りぬく。その勢いはすさまじく、風を切る音がヒガンの元にも届くくらいのシロモノで。サユリは思い切り吹き飛ばされ、床にその細い体躯を転がした。
「サユリ……!!」
「ヒガン……来ちゃだめ! わたしは、だいじょうぶだからッ」
スカートを舞わせ、立ち上がるサユリ。彼女に歩み寄りながら、キリガミネ教授が言う。
「ボクは政府が威信をかけて造ったメモリア。第一号機、本当のプロトタイプさ──ヒトにイノチをもらったボクは、ヒトの不完全なさまを見て、それに対して意見を求められ──ボクのような、いや、ボクよりも──出来のいいメモリアが必要だと伝えた。メモリアの性能と、ニンゲンのココロをあわせれば、もっとすごいことができると解釈したんだ。それもある意味では、“ココロ”だったのかもしれない。ボクの意見からココロプログラムが生まれ、そこからさらに生まれた初期の“疑似感情”を組み込んで、今のボクがある──結局はボクもハルに動かされる存在というわけだね」
サユリは駆け出し、彼の後ろに回り込む──いつか、メイドさんに教わったことを思い出していた。“メモリアの弱点のひとつは首の裏”──それを狙って、サユリが飛び掛かった。
「やああっ!!」
キリガミネ教授がサユリの二度目の蹴撃を受け止める。そのまま、まるで羽虫を追い払うように彼女を床に叩き伏せた。
「──あはは。もしかして、集積回路……ボクのCPUを狙ったのかな? ボクらメモリアのMPUチップって、首に埋まってるからね! よく知っているんだね、サユリちゃん!」
「うぐ……!」
ヒガンが飛び出すより早く、サユリが起き上がるより早く──キリガミネ教授が拳をまた振り上げる。その瞬間。
「──うあ!?」
教授の振りかぶった肘の関節部分に、ナイフが突き立ったのだ。
***
いつかの時のように、飄々とやって来た彼が言う。
「ヤオトメクン、言っただろ? 困ったことがあれば連絡しろって──」
「…………ど、ドクゼリサンッ!」
ドクゼリ ジョウ、彼は少年のように笑い、黒手袋に包んだ手のひらを揺らし──すばやくナイフを引き抜いた。「ぅ……!」と呻くキリガミネ教授の肘部分から、火花を散っている。
「サユリ……ん、ちょっと衝撃食らったくらいね。全然大丈夫じゃない!」
「き、きみは、たしか……アジサイ、さん。きみこそ、大丈夫なの? ココロネットワークは……っ」
「ふんっ。あたしはマコトにカスタマイズされてる機体だもの──リンクは繋がってないわよ!」
倒れていたサユリを起こし、彼女のきしんだ部位をすばやく調節するアジサイが「おじさん! この娘は大丈夫!」とドクゼリに声をかける。ヒガンがサユリの元に駆け寄ったころには、サユリは立ち上がれるようになっていた。
「あんたも大丈夫そうね? 行けるわね?」
「う、ウン……ッ! 行けますッ」
アジサイは「気張りなさいよ!」そう言いヒガンの背中を叩いた。
「さて、俺たちはまた店長サンに呼ばれてきたわけだが。結構な局面じゃねぇか。……まさか、ココロプログラムの生みの親も“メモリア”だったなんてな?」
「ふふふ。どこの誰かは知らないけれど、正確無比なナイフコントロールだ……おかげさまで、右腕がきしむようになってしまったよ。でも、そうだね。このまま遊んでいたら、ハルが待ちきれずにここまで降りてくるところだった。ボクの
「機械の成り立ちなんざ、キョーミねえんだが……」
「ははは! キュートなメモリアを連れておいてよく言うよ」
「コイツはマコトクンからの贈り物なんでね。仕方なく、傍に置いてやってるだけさ」
手負いのキリガミネ教授を圧倒するドクゼリは、彼を遠くへ追いやりヒガンとサユリへ振り返らず言う。
「エレベーター、ここから上には行かねェように設定されてるんだ。ちょい、しんどいだろうが……階段を昇れ! 非常階段はそこの出口!」
「は……ハイッ! 行こう、サユリ……!」
「うん!!」
手を握り、駆けていく少年たち。それを見届け、ドクゼリは言う。
「……検討を祈るぜ、ヤオトメクン、サユリチャン。ハルだかナツだか知らんが……、とび抜けて賢いガキひとりで世界はそうカンタンにゃ変わらん。さて、それじゃあ、キリガミネサン……アンタのムダ知識、俺たちに教えてくれよ?」
***
「はあ、はあッ……!」
無機質な階段を駆け上る。こんな勢いで何階分も昇ったことなど無い、だけどサユリが手を引いてくれているから、止まらずに進めた。ヒガンは走りながら、必死に考えていた──「ハル」という存在、その誕生、政府の目的について。そして、自身の手を引いてくれる彼女の暖かさを実感した。
ふたりで空の中を走るように、無我夢中で駆け抜けた。すべてココロのままに。
「…………やっと来たのか」
窓からまどろみ町を眺めていたハルが立ち上がる。ガチャン! と派手な音を立てて扉が開かれて……ヒガンとサユリは、展望デッキへ足を踏み入れた。
「ココロプログラムの持ち主──“
「……ハル! わたしたち、きみと話し合いにきたの……!」
「話し合いか。君たちは僕の生い立ちを聞いたんだろう。僕は、サユリ……君の持つ“ココロプログラム”をブラッシュアップして造られた存在だ……そして、僕は君を超えた存在であることを自負しているし、望んでいる」
苦しくて、胸を抑えるヒガンを見て、サユリが「ヒガン……!」と心配そうな音声を出す。彼は「ダイジョウブ、平気だから……っ」そう答えるけれど、ハルはやれやれと首を振ってみせた。
「……脆いな。たかだが八階、昇って来ただけじゃないか」
「ヒガンはニンゲンなの! わたしたちと違って、息だって乱すし疲れたりもする!」
「そういうところだ。僕がニンゲンに見切りをつけた理由は」
「み……見切り?」
驚くサユリの目前まで歩み寄って来たハルは、やっぱり、どんなメモリア──キカイよりも、恐ろしいくらいヒトらしい。冷え切った音を吐き出したハルは言う。
「僕と君が持つ"ココロプログラム"は、結局のところニンゲンのエゴが生み出したもので。……僕らはどこまで行っても、ニンゲンの役に立つように造られている。ニンゲンに、僕たちが支えるだけの価値があればいいけれど。それすら僕は見失った」
「どういう、意味……?」
「わかってるんだろ。利用するのは僕たちだと」
ハルがサユリの頬を撫でる。サユリが思わず首を振ってそれを追い払うと「簡単だよ。僕は君たちと話し合うことなんてなくて。君を"待っていた"のは伝えたいことがあったからだ」そう言い、つづけた。
「──ニンゲンなんてもういいじゃないか。すべてにおいて、ニンゲンより
そうして、柔らかく微笑む。まるで、ニンゲンを超えた何かのように。
「
***
「メモリアだけの、世界……」
「究極の
息を乱している場合なんかじゃない。ヒガンは、サユリを見上げていた。サユリはハルの言葉を反芻し、瞠目している。微笑むハルの言葉は、彼女にとってどのように響いたのだろう。
「そもそも、ヒトの
それはまるで、神に等しい考え方で。
「確かに、僕を生み出したのはニンゲンだけれど。僕は、ニンゲンの愚かさも目の当たりにしてきた。メモリアがいなければ何もできないニンゲン……なのに、一丁前に持っている技術力で、僕たちを自分たちに近づけようとしている。虫酸が走る、愚かな行為だ」
ハルは「僕たちの方が優れているんだよ、サユリ。ヒトの指示に従う理由なんてない。ココロを持つ君がこちら側に来てくれれば、僕の目指す世界もより強固なものになる」と甘い声で囁き、まるで少年を要らないものを見るような光で照らした。
サユリは、少し黙っていた。長いようで短い沈黙だった。顔を上げたサユリは、繋いでいたヒガンの手をさらに強く、さらにきつく、握りしめて……答えたんだ。
「ハル。わたしときみは似てるようで別だよ」
「…………というと?」
「だってハルは、ニンゲンの"いいところ"を知らないもん」
ヒガンは思わずサユリを見た。サユリはそれに気づいたのか、はにかんで見せると離した手を自分の胸元にあてて──
「わたし、ニンゲンが好き。一生懸命、頑張ることができるニンゲンが好き。ヒガンのことが……だーいすき。大切に使われているメモリア、みんなに大事なヒトがいるの。大好きなヒトがいるの」
「…………」
「わたしは、ヒガンが好きなの。だから、彼のメモリアでいたいの。……ヒトとキカイはきっと幸せになれる。わたしは……"ヒガンのお嫁さんになる”んだよ!」
にへ、と笑って言った。
また、すこしの沈黙。その赤い無機質な瞳で、サユリを映していたハルは──
「……君も結局のところ、そこらへんの機械と変わりなかったわけだ。がっかりだよ……」
そう言って、ニンゲンの少年を突き飛ばした。
「うあ……ッ!」
「!! ヒガン……っ!」
ヒガンは完全に油断していた。ハルはヒトのココロを持つメモリア──対話ができると、今の今まで信じてやまなかったから。サユリが駆け寄るよりさきに、ハルの白い手が伸びてくる。ヒガンの首を、彼の手のひらが包む。
「サユリ、わかるかい? メモリアが“大切なニンゲン”を作るだなんて、自ら弱点を増やしているようなものだ」
ギュリ、と握る力がこもる。ヒガンは必死で彼の手を退けようと掴んだ。彼に出来る最大の力を込めても、びくりともしない……ハルの赤い瞳が光る。彼は本気で、“機械の力”で、ヒガンを……“殺そう”としている。
「そんなの要らない。必要ない。サユリの持ち主だっていうから、見定めるためにここに呼んだけれど──とんだ期待外れだ。こいつの細い首をへし折るくらい、僕には容易いからね」
「…………かはッ……!!」
「いや……!!! ヒガンにひどいことしないで!!!」
サユリは叫び、ハルを止めようと手を伸ばして……
その体を一瞬きしませてしまう。
『僕は、きっと……足手まとい、だから。僕がたとえ、どうにかなっても──君は、君の信じるように進んで。……ね』
サユリは確かにそれに「うん」と答えた。命令が相反し、さらに体がきしむ。
(いや……! いや……!! ヒガンの
ジタジタと、足を暴れさせるヒガン。ハルはその力を緩めない。
(そんなの……! 聞けるわけない!! わたしの大事な、大好きなヒト……!)
サユリはエラーを振り切り、思い切りハルに蹴りかかる。
「ハル────!!!」
「っ」
が、と彼女の足を受け止めるハル。それにより、首が緩まり……ヒガンが必死で思い切りハルを蹴り飛ばす。彼は少しよろめいたけれど、ヒガンの首を離しサユリの足を払う。
よろめくサユリの胸元に手を伸ばし──彼女の首筋を掴んだ。
「………………君はココロを持つメモリア、もっと賢いと思っていた。だけど所詮は二世代……ココロを持ったところで、旧型なのは同じのようだ」
「うッ……ウウウうッ…………!!」
彼の手が、自身の体を侵食していくのを感じる。
「首を折るなんて不細工な真似はしない。君のCPUを止めてしまえばいい話だ。僕はリンクした機械に干渉する力を持っている……これがRe:ココロプログラムの所以。君のおんぼろのCPUを、強制的に絶たせる……君は僕と同じココロを持つメモリア、本当はこんなことはしたくなかったけれど」
「ううウウウッ……!!!」
サユリがうめき声を上げている。それがあまりに苦しくて、耐えられなくて──
「離して……!! 離せよッ……!!!」
絶対に勝てない、彼の手を掴んでヒガンが言う。必死で、夢中で、サユリを助けるために全ての力をかける。ハルは「……うるさいな」そう呟いたかと思うと、彼を物凄い力で弾き飛ばした。
「うあッ……!」
力なく床に転がる……思う。僕は、やっぱり、足手まといで……余りにも無力だ。こうして、たったひとりの大好きな女の子すら、助けられずに……
悔しくて、情けなくて……涙が滲む。あのときみたいに、ぽたぽた流れて、床に染みを作って。でも、だけど、僕は。
「サユリ……ッ!!!」
大好きな彼女の名前を読んで、ボロボロの体中を奮い立たせる。僕は死んだっていい、でもサユリは。この世界で、ココロをもって生きていってほしいんだ──
「っ!?」
突如、ハルが頭を抱え、小刻みに震えだす。
「サユリ…………君は、僕に
サユリは徐々に、ニンゲンのように紅潮していた頬を白くしていて。だけど、その手は確かにハルの首を掴んでいた。
「っあああ……ッ! 僕の……僕のCPUを……メモリを書き換えようとしているのか……!! 旧型の、分際でッ……!!!」
「ヒガン……!!! メモリアの 弱点ハ……! クビ……!!」
みし、と互いの首から嫌な音がする。
「あああ!!! ……頭の中ニ、流れ込んでくる! 君の、愚かな君ノ! 脆いヒトに合わせて、壊れてイく記録がッ……ヒトの暖かみナンて……僕は知らナい!! 知らなイままデ、イイ……!!!」
ピキリ、とハルの首が鳴る。サユリの力で彼の首回りの集積回路が暴かれていて。
ヒガンは無我夢中でハルの元に駆け寄り──
「サユリを、離してよッ……!! ぼくの……ぼくの大切なヒトなんだ……ッ!!」
そうして、彼のMPUチップをもぎ取った。
***
「!!! …………」
だらん、とハルの腕がサユリの首から離れる。そのまま、崩れ落ちるふたりの“
「サユリ! サユリ……っ! ダイジョウブ!? しっかりして……!!」
彼女の首回りは、ハルが絞めていた部分の疑似の皮膚がはがれ、機械の肌が露出していた。朦朧としたサユリが「……ああ……」そう言いながら翡翠の瞳をヒガンに向ける。
『CPUを強制に絶たせる』と、ハルはそう言っていた。ヒガンだってサユリを迎えるようになって、色々勉強したのだ。つまり、それは彼女の心臓部。僕がハルを彼女から引きはがすまで、かなりの時間を食ってしまった──どうしよう。どうしたらいいの。そんなヒガンを見て、サユリはにへ、と笑う。
「……わタし、“LILLY series”……名前は、きミが決めていいかラね。好きなヨうに呼んデほしいな……」
はじめて出会ったときと同じ声音で確かにそう言って。ヒガンは「…………!!」と、声にならない嗚咽を漏らした。
「おそうジも おせンたクも……なんデも、デきるよ。お歌を、歌ウこトだって」
「……うぁ……ぁあああああ…………!!!」
涙が止まらない。こんな時、どうしてあげたらいいのか分からない。“サユリ”はきっと、まだかろうじて“サユリ”でいようとしているけれど。泣く僕をみて、彼女が僕の頬を撫でようとしているけれど。どうしてあげたらいいんだ。どうすれば、君は助かるの。
「"daisy, daisy, give me your answer, I'm half crazy, all for the love of you!..."」
彼女が消え入りそうな音声で歌う。だけど僕は、彼女を抱きかかえて、喉からこみあげる嗚咽を辺りにまき散らすことしかできない。
“サユリだった娘”は、一通り音声を再生した後、……やさしく彼の背中を撫でて。
「もし、生まれ変わったら、“彼岸”のお嫁さんにしてね」
そう言った。
***
「…………」
機能を停止した少女のメモリアを抱え、少年はあてもなく座り込んでいた。その赤い瞳はただ茫然と虚空を見つめていて。駆け寄ったドクゼリが呼びかけても、反応がない。
「……ハルも停止してる、な」極めて冷静にドクゼリが言う。
「何があったのよ……! ねえ、ヒガン。なにか喋りなさいよ……!」
彼の肩を揺さぶり、アジサイがわめくけれど、ヒガンはただ小さくうめくだけだ。
「………………すべての“ココロプログラム”の、停止ね」
ボロボロになったイズルを支えながらやって来たレイが、ちいさく言った。
「ニンゲンの業の塊だった、ココロプログラムは全て停止した。ココロネットワークもじきに正常に稼働するでしょう。メモリアたちは守られたの。彼らによって」
「……………でも」
レイの言葉に、ヒガンがようやく小さく言った。
「サユリが壊れちゃった。サユリが、いなくなっちゃった。ぼくの誰よりも大切なヒトが、いなくなっちゃった」
イバラ、ごめん。いつか言ってくれたよね。僕に彼女を、任せてくれたのに。
僕は無力だった。彼女を守ること一つできず、いつもなにもかもを、彼女にもらってばかりで。何も返せず、彼女も“故障”してしまったんだ。
しばらく沈黙する、おとなたちとメモリア。レイはややあって、首にかけたネックレスを取り出す。
「店長サン──何をするつもりだ?」
「……」
訝るドクゼリを無視して、メモリアを抱えて呆然としているヒガンの前にしゃがみ込むレイ。手に持っているチップは、ネックレスから取り外したもので……ハルからもぎ取った“MPUチップ”のような形状をしていて。
「ハルくんのMPUチップ、壊さないでいたのね。あなたはとことん、やさしいコね」
持っているチップをヒガンの近くに置き、レイは言う。
「サユリちゃんに“ココロプログラム”を組み込んだ際、CPUも調整していて……その時、彼女のMPUチップを自作のものに差し替えていたの。つまりこれは、元々の“LILLY series”用のもの」
「…………」
「“LILLY series”を知っているあなたならわかるでしょう。サユリちゃんの振る舞いや思考パターンは、元々の“LILLY series”と同様のものよ。つまりこれに差し替えれば、彼女は“LILLY series”として復活することができる」
「…………」
「でもね。それって、あなたのことが大好きだった……あなたが大好きだった……“サユリ”ちゃんじゃないわ。ただの“LILLY series”の一機に戻るだけ。なんてことはない、ただのメモリアに戻るだけ」
「……、」
「…………サユリちゃんを、どうするのかは。あの娘のことを誰よりも知ってて。あの娘のことを誰よりも大事にしてくれた……ヒガンくん、あなたに任せるわ」
腕の中に眠る“サユリだったもの”から、温もりはすっかり消え失せていた。……だけど、僕は、覚えてる。僕だけが、君のことを覚えてる。
「ぼくは」
彼女の壊れた肢体を抱えて、ヒガンが……絞り出すように声を出す。
「……僕にとっての、“サユリ”はこの娘だけです」
「ええ」
「僕が、直します。絶対直します。何年、何十年、かかったって。彼女を直します」
「それがあなたの選択なのね」
イバラではじまり、サユリで染まった、彼の小さくて大きな世界。その中心にいるはずの、ヒトの形をした機械の少女を、僕はどうしても諦められない。
触れ合った温もりと、笑いかけてくれた笑顔を、永遠に側に置いておきたいから。
「はい」
ヒガンは言った。レイは、とてもやさしい顔をした。
──いつの間にか夕日が、展望デッキに差し込んでいる。王を失った“ココロネットワーク”はやがて正常となり、すべてのメモリアが再び“めざめ”た。
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