第5話 キャンプとは
ヘッドボードに置いたスマホが盛大に震えている。
ひとしきり鳴った後、留守電に切り替わったのか静かになった。すると今度は部屋のチャイムが鳴らされる。ドアの向こうから「以千佳ちゃーん」と聞こえ飛び起きた。
顔も洗わず慌ててドアを開けると小林さんはずんずん上がり込んで
「出かけるから、五分で準備!」
寝起きで呆然とする俺を追い立てる。
「何処行くんですか?」
「お前は質問出来る身分じゃねえ」
そう言って寝室のクローゼットから「この辺かな」とか言いながら俺が着る服を勝手に決めている。
俺は顔を洗い、髭を剃り、寝癖を直したところでタイムアップとなり、小林さんの選んだ自分の服を着て外に出た。マンションの駐車場の来客エリアに勝手に停めてあるミニバンに乗せられるとあっという間に出発した。
車の時計を見ると十一時半だった。
「腹減ってる?」と言って後部座席のコンビニの袋を渡される。サンドイッチとコーヒーが入っていた。
「いいんですか?」
「うん、それ以千佳ちゃんの」と言ってするりと高速に乗った。
後部座席を見ると先日玄関で見たキャンプ用品が積まれていて
「もしかしてキャンプですか?」と聞くと
「あ、バレた?」
小林さんは前を見たまま笑いもしないで言った。
「すぐ着くから」
Bluetoothで繋いだスピーカーから流れてくる聞いたこともないハードロックを大声で歌いながら車を走らせた。
キャンプ場に着くと受付を済ませ、手際よくテントを建てる。慣れた様子で準備を始めるのをまだいまいち状況が掴めない俺はぼうっと見ていた。
「以千佳ちゃん、少しでいいから細めの薪拾ってきて」
締め切った部屋のベッドの中から、見渡す限り緑の森にあっという間に連れ出された。すうっと肺いっぱいに空気を吸い込んでみる、深呼吸なんて何時ぶりだろうか。ぶらぶらと歩きながら薪を拾って戻ると小林さんはテントの横に建てたタープの具合をチェックしていた。
「すごいですね、ていうかテントってそんな簡単にできるんですね」と言うと初心者用だからね、と言ってタープの下に椅子とマットを置いた。
涼しくなる夕方からとか来ることもあるのか聞くと、前に日が暮れる頃来たら場所が無く、そのまま帰ったことがあるので、遅くても昼過ぎまでには来ることにしているとの事だった。
蚊取り線香に火を点けると懐かしい匂いがした。
小林さんは読書を始め、俺は昨日のことをぼんやり考えていた。
「クーラーボックスにビールとかあるから飲んでいいよ、ていうか一本取って」
ニ本取って小林さんのところに行き、ビールを手渡すとその場に腰掛けた。
「気持ちいいですね」
「だろ?」
「一人で楽しみたいんじゃないんですか?」
「楽しんでるよ」
文庫本を掲げる。
「たまに話し相手も欲しい」
「我儘ですね」
「よく言われる」
小林さんが楽しそうに笑うから釣られて笑った。笑いながら涙が出て、涙が出て止まらなくなった。
顔を伏せて泣いてる俺の頭を黙って撫でてくれた。
夕方に差し掛かると涼しい風が吹いてきて少しずつ気温が下がっていく。
小林さんは火でも起こすかと呟きながら立ち上がると
「以千佳ちゃん手伝って」
撫でていた手で俺の髪をくしゃりと掻き混ぜた。
小林さんは指示を出すだけだった。言われるがままに少し地面を掘り、石を積んで風よけを作ると細い薪と丸めた新聞紙に火を点けた。
「薪ってどうしてるんですか?」
「ホームセンターで買ってる」と言って一晩ならこれくらいで充分持つと思うとカットされた薪を置いた。
気を遣わせてしまっている気がして少し散歩してくると言って森に入る。
小林さんの手の感触が髪に、頭に残っていて頬に熱を帯びていく。そして今日ここに連れてきてくれた意味を理解する。
適当な岩に腰掛けて何を考えるともなしにいつのまにかぼうっとしていた。
あの後は立て続けにロックを三杯呷ったところで顔見知りのマスターに止められた。
元から酒は強い上に昨日は全く酔えず、気分ばかりが堕ちて行った。
ポケットからタブレットのケースを出して眺めているとマスターがどうしたのかと言うような顔をして覗き込んだ。
「何?いいもの?」
「うん。お守り」
そう答えてそっとポケットにしまった。
「以千佳ちゃん」
振り返ると小林さんがいた。
「帰って来ないから心配した。冷えるから戻ろう」
俺の肩にそっと手を回すとテントへ向かって歩き出した。
夕食は小林さんが飲む気満々で、簡単なバーベキューをしながらのんびり過ごした。腹に溜まるの欲しかったらおにぎり焼くからといい、オイルサーディンの缶詰を開け火にかけてアヒージョにする。
「何か贅沢ですね」
「なんでも美味いんだよこういう時は」と言ってビールを煽った。
スキレットを片付けて小さな焚き火を囲んでいた。
「さっきはすいませんでした」
「別にいいよ」
「別れたんです。俺から連絡したんですけど、相手にメールで先越されて…」
「そっか。まぁ仕方ないわな」
「はい」
「お前はどうしたかったの」
少しの沈黙の後、問われる。
「別れ話は前提でした。でも二年も付き合っていたし、最後はあまりいい関係ではなかったけど顔をみて話したかったかな」
「でも叶わなかった」
「はい。『話したい』っていうのも俺のエゴです。多分、いい人の振りしたいだけです」
小林さんは薪を足して火かき棒にした枝で炭を弄んでいる。見上げるとすっかり暗くなり、星が綺麗だった。
「そんなに東京から離れてないのにこんなに星が綺麗に見えるんですね」
そういうと小林さんも無言で空を見上げた。
「俺たちの居るとこはさ、余計なモンが見えすぎんだよ。だから当たり前にあるものが見えなくなる」
暫く二人で無言のまま夜空を見上げていた。
会社では口悪くぎゃあぎゃあと他部署とやり合ってるイメージの小林さんはここでは口数も少なく、心地よい声でぽつぽつと話す。
「小林さんていい声ですよね」
「ばーか、声なんか良くたって何もいい事ねぇよ」
「小林さんの傍にいられる人は幸せですね」
いつもの悪態に素直な気持ちで返すと
「じゃあ、付き合う?」
パチン
焚き火の中で何かが小さく爆ぜた。
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