3
駅を通り過ぎて更に南に車を走らせる。ビルが視界から消え、古い商店が立ち並ぶエリアに入った。頂上にテレビのアンテナ塔が建つ小高い丘を回り込むように緩やかなカーブを曲がると、濃い灰色の壁が視界の正面に現れた。
「そのまま通り過ぎたら、右側に蔦だらけの空き家があるから。そこに停まって」
海叶が運転する小川に、細かく指示を出した。
「そこが待ち合わせの場所か……。いつの間にそんな約束していたんだい?」
「もう三回目だよ? この前もそこだったから」
海叶は半ば呆れて言い放ち、更に吐き捨てるように続けた。
「でもこれが最後。もう来ることもないよ」
「そうだな。そうなるように先生も祈っておくよ」
心からそう願う小川の言葉にも、海叶の目は暗く沈んだままだった。
「あそこだね。お母さん、もう待ってるじゃないか」
小川の視線の先で、屋根が崩れ落ちた廃屋の石門に背中を預け、尻を地面に落として座る女がいた。小川はその女の先、五メートルほど先の、かつて車庫だった場所に車の左半分を侵入させて停車した。
「先生は車の中で待ってて」
海叶は小川にそう言うと、一度膝の上で両拳を握り締めてからドアノブに手を掛けた。
見慣れぬ車が停まって身体を強張らせていた母が、海叶の姿を見て緊張を解いた。反対に、母のもとに向かう海叶の歩みは、緊張からかぎこちなかった。
小川の頭の中で、チリチリとした微弱な信号が行き来する。ここで黙って見ていてはダメだ。小川の直感がそう囁いた。
海叶がここへ向かう途中、何故あの少年兵の話をさせたのか。
海叶は、小川が子供を救ったことに理由を付けてもらいたかったのかもしれない。子供には未来がある。親も子供が助かったことを喜んだに違いない。そんな言葉を待っていたのではないか。これから海叶がすることを肯定させるために。
小川が運転席から飛び出したのと、海叶がジーンズの尻ポケットに手を忍ばせたのは同時だった。
久しぶりに外の世界で会う、成長した息子の姿に笑顔を浮かべたのもつかの間、海叶の母は、車から飛び出してきた男の様子に怪訝な顔をした。
「海叶君! よせ!」
小川の叫びに、海叶の動きは逆に加速した。
シルバーに輝くバタフライナイフのストッパーが外され、刃を守っていた鞘がグリップへとその役割を変える。海叶が母親に向けたその刃は、既に赤黒く血で汚れていた。
海叶の母は、一度は小川の声に驚いたものの、もう一度正面から海叶を見据えると、笑みを浮かべて目を閉じた。
海叶は、そんな母の顔を見ることもなく。頭頂部からぶつかってゆくように頭を下げて突進し、叫び声と共にナイフを握った右手を付き出した。
「うっ……」
低い呻き声と共に、刺さったナイフが崩れる身体によって下へと落ちてゆく。
ナイフを握ったままの海叶も、ナイフに引っ張られるように膝をついた。その海叶の首の後ろ側に、太い腕が巻き付いてきた。
「先生……」
海叶と母の間には小川がいた。小川は海叶が動かぬように押さえつけたまま、脇腹に刺さったナイフに視線を落とした。ナイフの刃は、刀身のほとんどが見えたままで、切っ先から三センチも肉に食い込んでいなかった。
小川は、ナイフの刃にこびりついている、自分の物ではない血を見つけて海叶を睨みつけた。
「誰を刺した?」
いつもと違う小川の目に、海叶は怯えきっていた。
「このナイフで誰を刺してきたんだ!」
小川はそう言ってナイフを抜き取ると、地面に叩きつけた。アスファルトに跳ねて、金属音を響かせる。その音にも海叶は肩を縮めた。
「伯父さんと、伯母さん……」
小川はそれを聞いて海叶の頭を胸にきつく抱きしめた。
「なんで先に電話しなかった? そんなことをする前に何で……」
海叶は言葉を返すことができなかった。自分でもまさか刺してしまうとは思っていなかったのだ。
「伯父さんたちは無事か? 刺したって言ったって……」
「一年の時、ハトを殺したって言ったろ?」
海叶は小川の言葉を遮った。
「俺の餌食べずに、小学生のパンなんかばかり食べてたから、傘で刺して殺したんだ」
小川は海叶の肩を掴み、その顔を覗き見た。とてもたった今母親を殺そうとしていた人間には見えない、普通の子供の顔だった。
「ハトを殺したけど、何ともなかった。ただ怖がる小学生が面白いだけだった。伯父さんを刺した時も一緒。ただ、怖がる伯母さんが面白かった。だから笑いながら刺した……」
「それは違う!」
今度は小川が海叶を遮った。
「それは海叶君の方が怖がってたんだよ。怖くて、怖くて、しょうがない時、人は笑うしかないんだ。……だけど、もういい。怖がらなくても、いい」
小川の言葉に、海叶が涙を流した。その涙を小川が拭っていると、海叶の母がゆっくりと近づいてきた。
「先生、ごめんなさいね。ご迷惑ばかりお掛けして……」
海叶の真後ろに立った母が、海叶と小川を見下ろしてそう言うと、「トン」という軽い衝撃の後、海叶が涙で濡れた目を見開いて、ゆっくりと小川の方に倒れ込んできた。小川が慌ててその身体を支えると、背中に回した手が濡れた。その手を濡らした液体の正体が海叶の血だと、その温度が小川に教えた。小川が言葉なく唇を噛み締め、母親を下から睨みつけた。
「本当にごめんなさい。もっと前に私だけ終わらせていれば良かった……」
海叶の母は、息子が自分を刺そうと刃を向けたナイフを両手に握り締め、喉元に切っ先を押し当てたまま小川に対してもう一度謝った。
小川は一瞬その血飛沫を浴びる覚悟をした。いや、そうしたかった。だが、考えるよりも早く、望むよりも早く、小川の手が海叶の母親の片足を跳ね上げた。
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