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 翌日の朝、昇降口で上履きに履き替えた海叶は、目の前で深々と頭を下げる小川に、何も言うこともできず、その場から逃げることもできず、ただ困惑していた。

「桜町小学校に行けないにしても、ちゃんと伝えてもらうべきだった」

 そう言った小川はまだ頭を下げたままだ。「やめてくれ」と海叶は心の中で叫んでいた。子供じみた願いを聞いてもらえず、それを根に持って捻くれていた自分があまりに幼く思えて恥ずかしかった。

「この中学校にいる間は、できるだけ力になれるように努力するよ。あまりに無理難題言われたら困るけど」

 ようやく頭を上げた小川と海叶の目が合った。

「もういいよ」

 海叶は小川に向かってそう言ったが、その目は完全に冷え切っていた。それでも大きな進歩と、小川は素直に喜んで見せた。

「許してくれって言っているわけじゃないんだ。前に進みたいと思ってるだけなんだ。分かってくれ」

「もういいって! いい加減うぜえよ!」

 言葉は悪いが、それでも無視されるよりはましだと、教室に向かって走ってゆく海叶の後を、小川はホッとした表情でゆっくりと歩いていった。


 それからの海叶は、教室からも抜けださず、他の生徒に干渉することもなかったが、あまりにも静か過ぎた。

 授業で教員に指名されても反応することがなく、まるで聞こえていないかのような振る舞いをしていた。ただ、授業開始や終了時の挨拶など、全員で同じ動きをする時は、それに従っていた。

 昼休みにもほとんど席を立つことはなく、大抵一人でノートや教科書に落書きをして過ごしている。

 掃除の時間は持ち場には行くが、ほうきを持って同じ所にずっと立ち、教員が来て注意するとほうきをその場で動かしていた。

 テストは空白の箇所が多くあったが、理解できている所はきちんと記入されていた。

 仮にこの状態が南小学校で続いていたとしたら、翌年度以降は特別支援教育補助ボランティアを要請することはなかったかもしれない。だが本多は、海叶には卒業まで特別な配慮が必要だと見ていた。小川がいるからこそ、海叶は授業の妨害等をしないのであって、さらに言えば、小川が傍にいることで、まだ向上の余地があると考えていた。

 小川も本多からの期待は感じていたし、それが嫌ではなかった。

 一年生の夏休みを前にしたある日、市の研究授業が城東中学校で行われた。研究授業が行われるのは、各学年一クラスだけで、他のクラスは午前中で授業が終わる。

 海叶のクラスは、その研究授業が行われないクラスだったため、授業は午前中だけだった。この日の朝、小川は海叶を南小学校の展望台に誘っていた。南小学校には、既に許可を取ってある。

 本多の言う「午前中の学校内だけでの関わり。そこから踏み込んでも、踏み込まれてもいけない」という教えには背くが、次の一歩を踏み出すには、お互いにどうしても必要なことのように思えていた。その小川の気持ちが海叶にも届いたのか、あるいはただの退屈しのぎか、海叶は小川の誘いに乗っていた。

 小川が子供の頃は、男子は決まって教員たちの乗っている車で、教員をランク付けしていた。実際に、車をひと目見れば、メーカーや車種まで分かる子供たちはざらで、特に車好きな子供に至っては、その車の持つスペックという名の分かりやすい「数値」を覚えている者もいた。

 だが、今の時代がそうさせているのか、車に興味を持つ子供は少なってきたようだ。単に大きさと色の違いでしか認識していないように見える。小川の車は、特別特徴もないハッチバックだ。海叶から見たら、ただの車だろう。だが、それでも家族の物ではない車だ。

 初めて座る小川の助手席に、なかなか落ち着かない様子だった。

「南小学校に行くのは久しぶりだろう?」

「うん」

 海叶は嘘を吐いたつもりもなく、生返事で返した。返した後に、傘でハトを刺した感触が蘇って、右腕をさすった。

「なんで、あそこなんだよ」

 海叶は小川に、南小学校の展望台に誘った理由を訊いたが、その答えは聞かなくても分かっていた。いや、正確には、言葉にして表すことはできなかったが、どういう気持ちでいるのかは理解できていた。

「……なんとなく、だよ」

 想像と違う小川からの返答に、海叶は小川の横顔をじっと見た。そして、小さく声を出して笑った。

「なんだ、小川もかよ」

 海叶が「小川も」と言って笑ったことが、小川にとっては堪らなく嬉しかった。

 理由は分からないが、帰るべき場所。始めるべき場所。そういう場所のような気がして展望台を選んだ小川は、海叶もあの場所が特別だと感じているのだと信じていた。

 だが、海叶にとって小川は、あの場所に招いても構わないに過ぎなかった。とはいえ、その客は小川一人しかいない。

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