4

 二人のコーヒーは半分と飲まれていなかったが、莉乃は突然誘ったお詫びと、二人分の料金を支払って去っていった。

「ねえ、雄太。今の人って?」

 莉乃の分のコーヒーを下げに来た希がそう言うと、小川はやはり聞かれるか、と頭を掻いた。その仕草は、普段の、普通の小川の仕草そのものだ。

「三年前に行ってた学校の先生の妹」

「ああ、あの……」

 そう言った希が分かりやすく「しまった」という顔をした。小川がそれを見て苦笑する。

「田島が何か言ってたか? まあ、いいけどな」

 小川は残ったコーヒーを手に取り、カウンターに移動した。

「哲也、まだ昼飯食ってないんだ。面倒じゃないヤツをなんか食わせてくれ」

「うちの店に面倒な食いもんなんかねえよ。そうだな、サンドイッチでいいか?」

「利益率で選んだな?」

「バレたか」

 旧友と軽口を叩き合えていることに、小川自身安心しながらも、胸に広がった闇を追い出すために、早く田島に会いたいと願った。

 ――無理しない程度に今日は早めに帰ってきてくれ

 小川が田島に向けて送った短いテキストに、

 ――今から帰る

 と、さらに短いテキストが返ってきた。

「哲也、サンドイッチのテイクアウトできるか?」

 ベーコンをフライパンで焼いていた哲也は「できねぇよ」と言いながら、希にタッパーを用意させた。


 田島は、小川が自宅に戻って三十分もせずに帰ってきた。時刻はまだ三時前だ。

「良いのか? こんなに早く帰ってきて」

 リビングに姿を見せた田島に対して、ソファーに寝そべったままの体勢で声を掛けた小川に、田島は覆いかぶさるようにして小川の胸に頭を置いた。ゆっくりとした小川の鼓動が田島の頬に伝わる。

「上司の命令だもん。本多校長が帰ってやれって言うから仕方なく、ね」

 田島がその言葉を発してから、五分。そのまま動かなかった小川が、田島の頭を腕に抱いて語り始めた。

「前にさ、よく見ていた夢の話、したことあったろ?」

 小川の声に反応して顔を上げようとした田島の頭を、小川はそのまま自分の胸から離さなかった。田島の顔を見てしまえば、用意していた言葉が消えてしまいそうだった。ただ、その温もりを胸に置いて、小川は単語の海から冷え切ったものを拾い上げて並べ続けた。

「何度も考えた。俺は本当にあの子を撃ったんじゃないか。夢じゃなく、冷酷に、自分が生きるためだけに、幼い子供の眉間を撃ち抜いたんじゃないかって」

 田島が、Tシャツ越しに、小川の肉体越しに、小川の心へ優しくキスをした。

「大丈夫だよ。ちゃんと分かってる。あの子は、俺がウガンダを発ってから何年もして死んだんだ。自分が撃たれて死ぬ前に、何人も撃ち殺してね」

 小川は天井を見上げた。何もない、のっぺりとした天井だ。

「今の俺は、間違ってはなかったって自分を信じられている。あの自爆テロからその子供を守った行為は間違いじゃなかったって」

 小川は天井から視線を戻し、自分の顎で、コツンと田島の頭に触れた。

「もう知ってると思うけど、今日、塚田先生の妹にあった」

 小川の肩の上に置かれていた田島の腕が、ソファーと小川の間に滑り込んで、小川の傷だらけの背中を撫でた。

「俺が塚田先生の部屋に行ったとき、何があったのか訊かれたよ。でも、何も答えられなかった。ただ、彼女は自殺するつもりじゃなくて、俺を殺そうと思っていたのかもしれないってだけ話した」

 その話は、田島も初めて聞いた話だった。その後も、小川はこれまで話していなかったことも含めて、あの日の行為全てを話した。ゆっくりと、自分自身確認するかのように。そして最後に、田島の頭を押さえていた腕を降ろし、涙ぐむ田島の目を見つめていった。

「今度は、塚田先生を殺す夢を見そうでな。少し怖くなった」

 返す言葉を探している田島の口を、小川の唇が塞いだ。

「でも、今話したから。全部話したから、多分そんな夢は見ない。いや、絶対見ない。ただ、俺はこれからどうしたらいいのか……」

 今度は逆に田島の唇が小川の口を塞いだ。

「どうしたらって、やっぱり一番は海叶君のこと、じゃないかな? 一度、ちゃんと頭を下げるべきだと思う。子供に頭を下げるのは、嫌?」

「嫌じゃないよ。何より、俺もそうしたい」

 その小川の言葉を聞いて、田島は満面の笑みを浮かべた。

「うん。塚田先生の妹さんは、あの時の海叶君の気持ちを伝えるために来たんだよ。お姉さんのことじゃない」

 田島は大きめの声で誰かに宣言するかのようにそう言って、キッチンに立った。

「そのサンドイッチ、食べるんでしょ? 今コーヒー淹れるから」

「ああ、サンキュ」

 小川も体を起こしてソファーに座りなおすと、いつからそこにいたのか、掃き出しの窓の向こうで、シューが窓を開けろとガラスに爪を立てていた。

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