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「いらっしゃい……ませ」

 小川の後ろから入ってきた莉乃を見て、あからさまに希の語尾が下がった。

「珍しい、雄太が若い女の子と一緒に来るなんて」

 カウンターではなく、テーブル席に座った小川と初めて見る女性客に興味津々で水の入ったグラスを出し、希は伝票とペンを握った。

「俺はホットな。塚田さんは?」

「私も同じで」

 どうやらこの店にはコーヒーを飲みに来たわけではなく、話をするために来たのだと見当を付けながら、希は伝票にペンを走らせた。

 注文を哲也に伝えた後も何か小川に言いたそうな顔をしていた希に、小川が視線で「あっちに行け」と合図を送ると、希は小川にだけ見えるように舌を出してカウンター端の指定席で週刊誌を広げた。

「昨日海叶君に会ったんですけど」

「え?」

「……皆さん、海叶君の名前を聞くと眉間に皺を寄せるんですね」

 小川は、莉乃が当然姉の話をするために会いに来たのだろうと疑いもしていなかったし、実際そうではあるのだが、不意に海叶の名前が出され、小川は莉乃が言った通り眉間に皺を寄せていた。海叶は母親が逮捕された翌週からは学校に休まず来ているが、小川とはまだまともに挨拶すら交わしていない。

「ごめんなさい。昨日、偶然海叶君と会って。それで小川先生のことを聞いたんです」

「そうですか」

 まだ話が読めない小川は警戒していた。

「海叶君、これをクシャクシャにして、小川先生のことを『裏切り者』って言ってました」

 莉乃も莉乃で、こんな話し方をするつもりはなかったのだが、何故か小川を見ていると苛立ちを隠しきれなかった。小川の視線は莉乃が手にした手紙に注がれている。

「これは?」

「憶えていらっしゃいませんか? 海叶君が小川先生と姉宛てに書いた手紙です」

 小川の脳裏に、その時の塚田の甘えた声が蘇ってきた。汗にまみれて、求められるまま塚田の中に入っていった感覚まで思い出されて、手紙と莉乃から目を逸らした。そして、なぜ海叶が自分に対して「先に無視したのはお前」と言ったのかがようやく理解できた。

 あの時小川は、塚田の部屋から日常の世界にできるだけ早く戻ろうとするあまり、海叶からの手紙のことは完全に失念していた。

「確かに、裏切り者ですね……。すっかり忘れていましたけど」

 一瞬で喉が渇ききった小川は、グラスの水を一気に飲んだ。

 そんな小川を見て、莉乃は苛立ちの原因が分かった。どこか姉の実莉に似ているのだ。それに気が付くと、苛立ちの代わりに憐れみが顔を出してきた。

「姉があんな死に方をする前、私に電話してきたんです。小川先生に申し訳ないことしたって。それから遺書にも、小川先生に謝りたいっていうようなことが書かれていました。この手紙を姉に持って行った時、何があったんですか?」

 聞かれることを覚悟していた小川だったが、いざ話すとなると喉は張り付き、上手く言葉が出なかった。莉乃はそんな小川をじっと見つめたままでその口が開くのを待っていた。

「誤解がないように言っておきますけど、それを聞いて何かしようなんて思ってません。正直、五つ歳が離れた姉とは、そんなに仲も良かったわけでもないですし。でも、昔は自殺するなんて考えられないような人でした。そんな姉がどうして死んでしまったのか。それが気になっているだけです」

 小川は無言のまま自分の喉を撫でた。自分の喉にナイフを押し当てた感触が蘇る。

「何も……。何も謝られるようなことはないですよ」

 ようやく口を開いた小川を、莉乃はそのまま次の言葉が出るまで待った。

「お待たせしました」

 会話の切れ目に、遠慮がちに希がコーヒーを二つテーブルに置いて、心配そうに小川の顔を一度覗き込んだ。小川の視線はテーブルに置かれた角砂糖に固定されて動かない。

「ごゆっくり……」

 希は後ろ髪を引かれながらも元の位置に戻っていった。

 莉乃の細い指が角砂糖に伸びると、再び小川が話し出した。

「もしかしたら……。もしかしたらだけど、本当は塚田先生が殺したかったのは自分自身じゃなくて俺だったのかもしれないです」

 小川は情事の最中に塚田が一度ナイフを握ったのを見ていた。それでも気付かぬふりをして塚田の中を突き続けていた。自分でその命を閉じようとは思わない小川だったが、いつ死んでも構わないとの思いはずっと心の奥にある。

 莉乃は小川の目が冗談や嘘を言っているようには見えなかった。だからといって、姉がこの恋人でも何でもない男を殺したいと思っていたとは、あまりにも突飛な話で信じることはできなかった。

「姉がそんな……」

 あり得ない。そう思った莉乃だったが、自分を殺すことと、他人を殺すことに違いはないのではないか、どちらも同じ殺人ではないのか、と思い直した。

「ごめんなさい。小川先生も思い出したくないですよね、自殺した人のことなんて。分かりました。姉が普通の状態じゃなかったっていうのは、私も電話で気付いてはいたんです。それなのに、何もできずに助けられなかったっていう罪悪感があったんですけど、もう忘れます。嫌なお話させて申し訳ありませんでした」

 深々と頭を下げた莉乃とは対照的に、小川は最初にその椅子に座った時の姿勢を維持していた。

「いえ。おかげでこちらも色々と思い出せましたから、気になさらないで下さい」

 小川の言葉を聞いて顔を上げた莉乃は、小川の表情を見た瞬間、二人の間にある異様なほどの距離を感じた。今の言葉を、集合写真を撮る時に見せるようなその笑顔のまま、口にしていたのだろうか。距離だけではない。生きている時間さえもズレがあるような感覚がした莉乃の腕には鳥肌が立っていた。

「私、仕事に戻りますね」

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