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ほんの少し。
ほんの少しだけ自分の勘違いだったのではないかという思いが海叶の中にあった。
「先に無視したのはお前じゃん」
そう言った時に見せた小川の顔は、眉間に皺を寄せ、記憶を探っているようにも見えた。だが、そう言って小川の前をゆっくりと去った時、彼は声を掛けることも、追ってくることもなかった。
やはりあの時、小川は自分のことなどどうでも良かったのだ。今もそうに違いない。海叶は事実を確かめる煩わしさと恥ずかしさに、自分の感情に蓋をした。
小川の勤務の性質がどういうものなのか理解していない海叶は、午後になって姿を現さなかった小川に対し、更に失望した。イライラが募り、五時間目が開始された直後に机を蹴り上げ、そのまま家に帰った。
昼間のバスは乗客が少ない。今は自分を蹴りつける高校生も乗っては来ないだろうと、一番後ろの席に陣取った。
左端に身体を寄せて窓を少し開ける。運転手がルームミラーでちらりとその様子を見て、鏡越しに海叶と目が合うと、運転手はすぐに目を逸らした。海叶の他に乗客は三人。老人ばかりだ。
海叶は窓の外に視線を動かした。
道路も車が少ない。通学時間のバスよりも景色は早く流れてゆく。そんないつもより速いスピードで走るバスを追い抜いて、そのまま空へと昇る黒く小さな影があった。影を追い、顔を上げて空を見る。ツバメはバスの窓枠には収まらない高さへと昇り、海叶はツバメを追って窓から少し顔を出した。
「窓から顔や手を出さないよう願います」
マイクを通した運転手の声が聴こえ、海叶は窓を閉めてシート深くに尻を押し付けるように座った。前に一度運転手の注意を聞かず、バスを止められて学校に連絡されたことがある。安全のための妥当な行為なのだが、海叶にとっては自分に対する嫌がらせのように感じた。何より、他の乗客からの視線が堪らなく嫌だった。
バスの中は静かだった。座席の真下からかすかに聞こえるエンジンの音と、バス停を知らせる自動アナウンスの声だけが、空席のシートに吸い込まれて残響もなくバスの中に消えてゆく。乗客の誰も口を開かない。窓の外の景色も、紙芝居のように止まった絵が後ろに流れ去るだけだ。
降りるバス停が近づき、ポケットから定期券を取り出す。海叶は定期券に書いてある名前を眺めた。
――マスダカイト
定期券には名前がカタカナで書いてある。カタカナで見る自分の名前は、青空からの使者のようだった。
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