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 海叶はこの日、授業中は全て教室から出ることもなく、休憩時間に他の誰かにちょっかいを出すこともなく、ただ、ほとんどの時間を机に伏せて過ごしていた。その間何度か小川も海叶に話しかけたが、たまに睨み返すだけで、言葉が返ってくることは一度もなかった。

 そのまま一日を終えても構わないとも思っていた小川だったが、最後に午前中の授業が終わって廊下に出た海叶を呼び止めて言った。

「海叶君、無視することはないんじゃないかい?」

 すると、海叶はまるで小川のその言葉を待っていたかのように、この日初めて小川に向かって口を開いた。

「先に無視したのはお前じゃん」

 全く心当たりのないことを言って自分の前から去って行く海叶の後姿を、小川は動くことなくその場から見ていた。

 今朝校内で海叶と会う前、通学路の途中ででもすれ違ったのだろうか。それとも、昨日以前か。もしそうであれば、確かに気付かずに通り過ぎた可能性もある。だが、「無視した」というからには、海叶はそれなりのアクションを起こしていたはずだ。それに気が付かなかったというのなら謝るしかない。

「上手くいくとは限らない、か……」

 誤解を解こうにも、まず、まともに会話ができるまでにならなければならないが、それも簡単ではないようだ。

 小川が海叶に対しての考えを巡らせていると、頭の中に本多の言葉が蘇った。

 ――午前中の学校内だけでの関わりなんだ。そこから踏み込んでも、踏み込まれてもいけない。

 小川は海叶が歩いて行った方に背を向け、職員室に向かって歩き出した。

 職員室のドアに手を掛けた小川は、思い直して廊下の反対側にある校長室の扉をノックした。中からくぐもった声で本多からの返答があった。

「失礼します」

 扉を開けた先では、本多が大きなデスクの上に小さなデリバリー給食の弁当を広げて、箸を動かしていた。

「どうだった?」

 本多は、小川の姿を見るなりそう口にした。

「子供の三年間って時間は大きいですね」

 そう言った小川の表情を見て、本多は箸を置いて水筒から注いだ茶を口にした。

「過ぎてしまえばあっという間だが、その一瞬の間に、子供たちは数えきれないほどのものを経験して、大きく成長する。一日も無駄にはできないぞ」

 本多はそこまで一気に言って、再び茶を飲んだ。

「ってなことを新任の教員に対しては言うもんだが……。増田の場合は特に環境が厳しいからな。小川君……いや、小川先生には、増田のことを重く考え過ぎないでほしい。これは君のために言っているんじゃないぞ。増田のためにだ。当然増田本人に小川先生の立場を詳しく説明することはないが、他の先生たちとは違うと彼も感じているはずだ。そういう存在が大人の中にいるというだけでも違う」

 神妙な顔をして聞く小川を見て、本多は笑顔を浮かべた。

「今までの話とは矛盾するおかしな話だが、たかが三年だ。我々中学校の教員が生徒に係われる時間。その先の人生は遥かに長い。小川先生は中学校で過ごした三年間のうち、どれだけを思い出せる?」

 答えは聞かなくても分かっている。本多はそういう表情で小川に対して訊いた。小川もそれを悟って、敢えて答えは返さなかった。

「大切なのは未来だ。その選択肢の多さだ。生きていることだ」

 本多が最後に口にしたひと言は、小川自身に向けられていた。

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