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 時の流れは平等ではない。

 刻まれる時をどう活かすかは、流れの中を泳ぐ人間たちに任されている。海叶の三年は経験と変化に溢れていたに違いなかった。三年前から進歩も変化もほんの僅かしかしていない小川は、海叶の目には三年前と全く変わらないように見えた。

 挨拶をしてきた男の顔を見て、すぐに小川だと気付いた海叶は、思わぬ小川の登場に大きな目を更に大きく見開いた。その表情は、小川の目に三年前の幼い海叶と変わらないように見えた。だがそれは一瞬のことで、挨拶を返すことなく小川の横をすり抜けた海叶は、踵を踏み潰したスニーカーが地面を擦る音を響かせ、校舎内へと消えていった。

 その海叶の反応は、小川もある程度予測していた。だが、それでも僅かな期待もあった。「久しぶり」と笑顔を返してくれるかもしれない。「また来たのか」と憎まれ口を叩かれても、笑顔が浮かんでいればいい。そんなことを思っていたが、やはり現実は甘くなかったと、小川は自嘲して職員室へと向かった。

「おはようございます」

 職員室に入る前に大きく息を吸ってからその声を出した小川に、入り口から遠い席に座っている教員からも挨拶が返ってくる。

「おはようございます、小川先生。今日はコップ持ってこられました?」

 そう小川に言ったのは、小川より三十分早く家を出た田島だ。コーヒー党の職員で「コーヒーの会」というものが作られていて、毎月の会費千円で職員室のコーヒーが飲み放題になる。小川は前日の昼食時に、田島から入会を勧められていた。ただ、コップは用意されていないので、各自で用意することになっている。

「持って来ましたよ、これ」

 わざとらしい。小川は内心そう思いながら、カバンから新聞紙にくるまれたマグカップを出した。昨日の夜に、田島が包んだものだ。

「じゃあ、早速説明しますね」

 田島は小川からマグカップを受け取って給湯室へと誘導した。

「海叶君に会ったよ」

 給湯室の電気を点ける田島の背中に、小川が小さく話しかけた。

「何か話した?」

 田島が乾燥器から自分のコップを出し、小川のコップと並べてシンクに置いた。

「いや、挨拶は見事に無視されたよ」

 微かに笑ってそう言った小川に、田島は小さく溜息を吐いた。

「やっぱそっかぁ。仕方ないよね」

「それでも俺だってことは顔を見てすぐに分かったみたいだけどな。憶えてくれてただけでもいいさ」

「そうね……。あ、一応豆とかフィルターはここに入っていますから」

 田島は二つのコップにコーヒーを注ぐと、コーヒーメーカーが置かれている所の真下にある扉を開いて見せた。

「まあ、小川先生が淹れることはないと思いますけどね」

 田島はコーヒーが注がれたコップを差し出して笑顔を見せた。

「ありがとうございます、田島先生」

 お互いに「先生」という呼び方を強調して、それぞれのデスクに戻った。

 小川のデスクには、今日の職員朝会の内容や校内行事、不在の教員の名前などが書かれた紙と、海叶のクラスの時間割に移動教室の有無が書き込まれた紙が置かれていた。時限を示す数字の幾つかは丸で囲われている。

「おはようございます、小川先生」

 小川の隣の席に座る担任の後藤は、小川が時間割に目を落としたのを確認して声を掛けた。

「一応今日は、その囲んである授業についてもらう予定です。増田が来ればですけどね」

「海叶君なら来てましたよ。私が来た時に丁度彼も登校してきましたから」

「ああ、そうですか。話はしました?」

「いえ。『おはよう』と声を掛けたんですが、挨拶は返ってきませんでした」

 それを聞いた後藤は思い切り舌打ちをした。

「増田はほんと……。いやあ、すみませんね。後でちゃんと指導しておきます」

 その口ぶりで、海叶が挨拶をしないのはいつものことなのだろうと伝わり、小川も苦笑した。

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