セカンドコンタクト

1

 海叶も善悪の判断はついている。

 母親が夜中に留守にする時、「悪いこと」をしているのは知っていた。だが、その「悪いこと」をしたあとの母は、いつも機嫌が良かった。それが、悪いことをしても自分が楽しければいいという考えを海叶に根付かせていた。

「海叶、早く食べてしまいなさい。遅刻しちゃうよ」

 昨日、部屋の物を投げ散らかし、海叶に酒を買ってくるように叫んでいた母は、今日はいない。いるのは、朝食を用意し、一人息子を明るく送りだす優しい母だ。

「ごちそうさま」

 インスタントの味噌汁を最後に飲んで、海叶は空っぽのカバンを肩に掛けた。器を下げろとうるさく言う母も今日はいない。テーブルに空の器を残したまま、海叶は玄関に向かった。

「いってらっしゃい。今日の夜は、海叶の好きなカツ丼にするね」

 そう言って、嫌がる海叶の頬に無理やりキスをした母に、海叶は投げ捨てるように「いってきます」と言って駆けだした。

「カツ丼ったって、スーパーで買ってくるだけのクセに」

 海叶の母は、自宅近くのスーパーでパートをしている。夕飯の多くは、そこの総菜コーナーで買ったものをそのまま並べるだけだ。それでも海叶はその日の夕飯を楽しみにした。

 海叶は卒業した小学校と同じ校区の中学校に通うため、高校生や会社員が並ぶバス停でバスを待っている。自分の周りに年上が並んでいるだけで、自分も少しだけ大人になったような気がしていた。

「おはよう」

「あっ、おはようございます」

 海叶に笑顔で挨拶をしてきたのは、名前も知らない会社員風の若い女性だ。緩くウェーブのかかった長い髪は、朝見る時はいつも少し湿っていて甘い香りが漂っている。

「昨日はいなかったね。また学校サボったんでしょ?」

「別に……」

 言葉を交わす前までは大人になった気分でいたのに、ひと言話すと、まだ子供である事実を叩きつけられる。心の底ではもっと話してみたいと願う海叶は、子供だからこそ話しかけられているということには気付かない。

 黙して自分のつま先から視線を動かさない海叶を見て、その女性は会話を諦めてバッグからスマートフォンを取り出していじり始めた。

 やがてバスが来ると、その女性はバスの前の方へ、海叶は後ろへといつものように別れる。

 海叶は後ろから乗客を見ているのが好きだった。だが、一番後ろには座ることはできない。初めて独りでバスに乗った時、一番後ろに座っていたら、あとから乗ってきた高校生に「どけ」と低く言われて足を蹴られた。それ以来、タイヤハウスの真上の、足元が少し窮屈な席が海叶の指定席になっている。

 三十分。バスは、停車しては発進してを繰り返す。その度に少しずつ変化する車内の景色、音、香り。三年前の海叶なら、車窓から見える景色の変化に心躍らせていたかもしれない。今は孤独の膜を張り、その内側から別の孤独を眺めている。

 バスに乗った瞬間に張られる孤独の膜は、これまで学校の中に入っても、剥がされることはなかった。誰かと話していても、触れたとしても、間に膜を挟んでいる。

 そんな海叶を包んでいた膜が、この日校門を潜ると泡となってはじけた。

「おはよう、海叶君」

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