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 小川は、田島から冗談のような話を聞いたことがある。

 女子中学生が志望校を制服の可愛さで選ぶという話は昔からあるが、それと同じように、教員の異動希望を給食の美味しさで選ぶ人間が少なくないというのだ。その点で言えば、校内の施設で作る「自校方式」の温かい給食を食べられる小川が住む島の中学校は人気があり、民間委託のデリバリー給食方式の城東中学校などは不人気だという。

 初めてそれを聞いた時には笑ってしまった小川だったが、出張で給食を余らせている本多の分を実際に食べ、毎日のこととなると笑い事ではないと考えを改めざるを得なかった。美味しくないわけではないが、汁物がない弁当形式というのは、給食としては魅力が減少している。教員によっては、面倒な配膳指導からは解放されると、歓迎する声も聞こえるらしいのだが、それは少数意見のようだ。

「小川先生はどう思います?」

 食卓に姿を変えた職員室の中央付近に長机を並べた作業スペースで、小川の隣に座り箸を動かす田島が聞いた。「小川先生」と呼ばれるのには抵抗がなくなっていたはずだが、田島から言われるとどうにもムズ痒く、小川は箸を握った手で頭を掻いた。

「どうって言われても……。確かにちょっと寂しい気はしますが」

 近くに他の教員もいる中で、小川はそれだけを言うのが精いっぱいだった。田島に対しても他の教員と同じように接すればいいだけなのだが、小川にそういう器用さはなかった。

 普段ほとんど見ることがない、あたふたする小川を見られるのが楽しかったのか、田島は小川に話しかけ続けていた。その様子に、他の教員や講師たちも興味を持ったようで、小川に質問を投げ始めた。

 食事中の雑談ということもあってか、会話の後半は終始プライベートな内容だった。それでも小川が気分を害することなく食事を終えられたのは、隣で会話の流れを絶妙にコントロールしている田島がいたからだ。

 給食を食べ終えた生徒たちの声が大きくなり始めると、田島も仕事に戻ると言って席を立った。

「それじゃあ小川先生、お疲れさまでした。また明日よろしくお願いしますね」

 田島がそう言うと、他の教員たちも口々に「お疲れさまでした」と小川に声を掛けた。

「はい。お疲れさまです。お先に失礼します」

 小川の中学生時代から「挨拶は社会の基本」と言っていた本多が校長を務める学校らしく、職員だけではなく、廊下ですれ違う生徒も全員、すれ違う小川に対して足を止めて頭を下げる。

 ふと小川の頭に「子は親の鏡」という言葉が浮かんだ。

 ドロシー・ロー・ノルトが書いた「子は親の鏡」という詩がある。「ある接し方をすれば、子供は、こういうふうになる」と断じた文がいくつも並べられたその詩が、小川は好きではなかった。加えて「子は親の鏡」という言葉は、子供の躾に対しては使われず、親を糾弾する際に使われているのを多く目にする。それでは、ストレスに弱いタイプの親はプレッシャーに押し潰されてしまう。

 この学校にはそういった圧力や重たい空気は感じられない。教員は当たり前のことを当たり前にこなしている。子供たちはそんな大人を見て、見習うべき所を自然に真似しているように小川は感じていた。そんな子供たちを前に、小川はいつもよりも背筋を伸ばして駐車場までの道を歩いた。

「海叶……」

 小川が車に乗り込むと、自然にその名前を口にしていた。海叶が置かれた環境は間違っても良いとは言えない。

 エンジンをスタートさせるボタンに小川の指が触れる寸前、その動きが止まった。

 細かく震え始めた指を折り曲げ、拳をきつく握る。小川はその拳で自分の額を軽く打ちつけた。背中の傷跡が疼く。

 小川は初めてその傷跡に田島の唇が触れた日のことを思い出し、更にその傷を負った日のことを思い出した。

 繰り返し額を打ちつける。

 小川の耳から、銃口を向け合って罵倒する子供たちの声が離れない。背中にジワリと汗が浮かび始め、傷跡が熱を帯びる。炸裂する光に背を向け、まだ幼い子供を胸に抱いた時の激しい痛みが背中に蘇る。

 小川によって救われた幼い子供が、伸びてくる血まみれになった母の手から怯えたように逃げる。顔の三分の一を失っていた母は、我が子から母親と認識されないまま命を閉じた。

 最後にひとつ強く額を打ちつけた拳が、額に触れたまま震えている。大きく息を吸うと、鼻の奥にツンと沁みるものがあった。小川は顔を両手で覆った。両手が湿らず、涙を流してはいないと知ると、もう一度深く深呼吸をして車を走らせた。

 田島に助けられながらも、まだ「普通」ではない自分が、「普通」ではない海叶と上手くやっていけるのか。南小学校で海叶と接していた時にはなかった責任感が、小川をもうひとつ前に進ませようとしていた。

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