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 小川が城東中学校で勤務を始めたのは、新学期が始まって二週間後だった。「小学生時代の海叶と同じと思うな」と本多から聞いていても楽観視していた小川だったが、二年半ぶりに見た海叶の変わりようには正直驚いていた。

 職員室で見せられた集合写真の中の海叶は、それと教えてもらわなければ分からないほどに大きく変わっていた。柔らかくふわりと風に踊っていた髪は、ただの青い粒にしか見えないような丸刈りにされ、額の両端は深く剃りこまれていた。眉も鉛筆で一本横に線を引いただけのように細く、その下の双眸はカメラの方へは向かず、横にある何かを睨んでいた。体格は同級生たちの中では小さいままだったが、それだけに小川にはやるせなさがあった。

「小川先生が増田を見ていたのは四年生の頃でしたっけ?」

 海叶の学級担任である後藤は、四十代の男性教員だ。少し太って見えるが、それは丸い顔のせいで、実際は標準体重をほんの少しだけオーバーする程度だと、最初の挨拶で口にしていた。受け持つ教科は社会科だ。

 久しぶりに海叶と顔を合わせるはずだった小川の城東中学校での初日は、一日中職員室で過ごすことになった。海叶が学校を休んだためだが、担任や各教科担からは「丁度良かった」と、海叶の話を聞かされている。今は担任の後藤が小学校から上がってきた資料を見ながら小川と話している所だ。

「そうです。ほんの三か月だけでしたけど」

「あ、そっか。この学校に転校する前なんですね」

 そう言って後藤が指した所には「桜町小学校」と書かれていた。

「小川先生から見てどんな子でした? あの増田は」

 後藤が言った「あの」という言葉には、ネガティブな響きが多く含まれていた。それを察した小川は、その反対の言葉を並べた。

「素直で可愛い子でしたよ。担任とはちょっと上手くいってなかったようですけど、大好きな母親が居ない寂しさの反動のようでしたし」

 塚田のことを話した小川の中では、海叶の担任だった塚田と、自分に抱かれた直後に自殺した塚田とは別人のように感じられていた。実際この時の小川は、その塚田が自殺したことも頭の片隅にさえなかった。

「へえ……。まあ、三年経てば変わりますからね。特に去年母親が出てきてからは急に変わったみたいですし」

「そう言えば当時の教頭が、伯母さんの家に預けられてからマシになった、なんて言っていましたね。そんなに海叶君の母親は……」

 どう表現していいか、続く言葉を見つけられなかった小川に代わって、後藤が容赦のない言葉を吐いた。

「酷いってもんじゃないらしいですよ。私もまだ実際に会って話したことはないですけど。妹の店のレジから売上を鷲掴みで持ち出すってこともあるって言うんですから」

 やはりクスリは止められていないということだろうと、小川も嘆息した。そうやって手に入れた金は間違いなくクスリに使われる。

「それで、肝心の海叶君の様子は?」

 小川の質問に、後藤は出席簿のコピーを取り出した。

「まともに授業を受けているのは三分の一ぐらいですかね」

 小川がその紙を覗き込むと、理科の授業だけは登校していれば必ず受けているようだった。それ以外の授業では、度々保健室に行っていたり、早退してしまっていたりしている。

「理科は相変わらず好きなようですね」

 笑顔を浮かべてそう呟いた小川の横顔を見て、後藤は頷いていた。

「そうみたいです。ただ、これから危険な実験も出てきますからね。興味を持ってくれるのはいいんですけど、こちらは神経を使いますよ。あ、佐野先生」

 後藤が手を挙げた方には、分かりやすく白衣を着た白髪だらけの男性がいた。大事そうに両手で湯気が立ち昇るマグカップを持って自分のデスクに戻る途中で呼ばれ、マグカップを持ったまま小川たちの方に近づいてきた。

「こちら増田の補助でついてもらう小川先生。小川先生、理科の佐野先生です」

 小川が立ち上がってお辞儀をすると、佐野は人のよさそうな笑顔で頭を下げた。

「早く来てもらえて助かります。今からしっかり見て行けば、まだ間に合いますよ。勉強がどうにも嫌いというわけでもなさそうですからね」

 この日は出張で不在だったが、校長の本多のおかげだろうか。南小学校で感じた職員室の雰囲気とは随分違い、どの教員もしっかり前を向いているような印象を小川は受けた。

「他の生徒にちょっかいを出すようなことはありませんか?」

 小川が佐野にそう聞くと、ただでさえ皺が目立つ顔を更にしわくちゃにさせた。いかにも生徒たちに人気がありそうな優しい顔をしている。

「そりゃあ、いつものことですよ。でも、ちゃんと相手の反応を見てます。嫌がられたら止めるというわけじゃありませんが、本気で怒らせないようには加減してますよ。それでも実験では劇薬を使うこともありますからね。増田も経験がないことは加減が分からんでしょう。小川先生自身も気を付けてくださいね」

 もちろん細心の注意は怠りませんが、と最後に付け足して佐野は自分の仕事へと戻った。

 その後も小川は各教科の担任から話を聞いたが、どの教員も海叶が授業を放棄するのを無理に止めてはいないが、できるだけ授業についてゆけるように努力しているのが小川に伝わってきていた。それでも決して海叶を特別扱いしているわけではない。もしも海叶が他の生徒や授業の進行に大きく迷惑をかけるようならば、容赦なく切り捨ててしまうだろう。だがそれは最終手段であって、クラス全員が同じ教室で等しく学べる環境を目指している。

 まだ一学年目が始まったばかりということもあるかもしれないが、最初からその理想を諦めていると感じた南小学校での様子とは全く違って、小川も身が引き締まる思いがした。

 各教科の担任とも充分に話ができ、四時間目終了のチャイムが鳴って小川が帰ろうとすると、その肩を叩く者が居た。

「小川先生、良かったらこれ食べて帰りません?」

 小川が振り返ると、デリバリー給食の容器を持った田島が、少し出した舌を噛んで、照れ笑いを堪え立っていた。

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