後悔に故あり

1

 その刃は小川に向けられたものではない。塚田によってゆっくりと持ち上げられたナイフの切っ先が、塚田の首筋に触れて止まった。

「塚田先生、何をされているか……分かっていますか?」

 小川はできるだけ緩慢に、呼吸の速度を落として静かに尋ねた。

「……分かりません」

 新たな波が塚田の頬を打ち寄せ、ナイフにぶつかる。ナイフの下では別の流れも合わさって、桃色の雫が胸元の浅い谷へと流れてゆく。

 感情を失いかけている塚田の瞳が、小川の目をじっと捉えている。

 小川は自分の眉間に人差し指を立て、それをゆっくり左に動かした。塚田の視線が小川の目から離れ、指を追い始めた。

 穏やかに説き伏せるなど面倒なことはしたくないと、小川は視線が外れた隙に反対の手でナイフが握られた塚田の腕を掴んだ。ナイフが皿の上に落ちて耳障りな音を響かせる。落ちたナイフを拾おうと伸ばした塚田のもう一本の腕も、小さいテーブルを素早く回り込んだ小川が掴んだ。

 小川が力を込めると折れてしまいそうなほど細い塚田の腕は、一度掴まれてしまうと抵抗することはなかった。

 半開きになった唇を震わせ、小川を見上げる塚田を抱きかかえて、放り投げるようにベッドの端に塚田を追いやると、小川はナイフを掴んで自分の喉に当てた。

「……やめて」

 ベッドで横向きになったままシーツを涙で濡らす塚田を、小川は黙って見下ろした。少しずつナイフを握った手に力を込める。

「やめてよ!」

 塚田はベッドの上から動かずにそう叫び、ただシーツを握り締めるだけだった。

 小川はひとつ鼻を鳴らし、ナイフをテーブルの上へ叩きつけるように置いた。

「ついさっき自分がやっていたことじゃないか! 頼るなら俺みたいなヤツはやめた方がいい。今度そのナイフを肌に当てても、この部屋から黙って出て行く」

 小川の首に浮かび上がった小さな赤い粒は、零れることなくその場で固まった。塚田の視線はその一点を見つめている。

「手紙。今見ないと言うのなら、もう帰らせてもらいます」

 小川は無情さを突き付けた。動くこともできず、言葉も失ったままの塚田を小川はまっすぐ見つめ続けた。

 人との繋がりは、時として不必要な悲しみを生む。小川が常に頭の片隅に置いている言葉だ。だが、怒りは繋がりを持たなくても湧いてくる。いま小川は胸の内で悲しみと怒りを天秤に掛けていた。

 塚田が口を噤んで五分が過ぎた。

 小川もその間、全く動かずにベッドの横に立ち尽くしたままだ。

 我慢できずに沈黙を破ったのは結局小川だった。

「残り、食べてしまいましょうか」

 小川は溜息と共に、自分に対する呆れの色を含んだ言葉を溢した。沸き上がった怒りを抑え込み、これから訪れるかもしれない悲しみに目を瞑った。その小川の心中を察したわけでもないだろうが、塚田が掠れた声で小川を求めた。

「起こしてください」

 二人きりの静かな部屋の中だ。塚田の小さな声でも、充分小川の耳には届いている。それでも小川は目を僅かに細くしただけで動かなかった。

「小川先生が私をゴミみたいにここへ放り投げたじゃないですか。小川先生が起こしてください」

 起きる気などなく繰り返された「起こしてください」という言葉と共に小川に向けて伸ばされた右手は、微かに震えていた。その企みが透けて見える腕を掴んでしまえばどうなるか、小川は当然分かっていた。それでも掴んでしまったのは、塚田に対する同情でも、ましてや愛情などでもなく、考えることを辞めた結果だった。

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