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 翌日の仕事帰り、小川は塚田の住むマンションへと向かっていた。その途中、小川の視線は、信号待ちの車内から見えるフラワーショップに向けられていた。

「手ぶらでいいもんなのかな?」

 同乗者などいない車内での独り言だ。当然返事などない。

「いや、花はねえな」

 玄関先で塚田に花を渡す自分の姿を想像して、小川は苦笑した。それに、厳密に言えば手ぶらでもない。助手席に置かれた封筒に視線を落とした小川は、余計な心配をしても意味がないと、残り数百メートルの運転に集中した。

 学校から小川の住む島へと続く道を、いつもと真逆の方向に走って既に三十分が経過している。

 国道沿いのコンビニの隣に建つ目的地のマンションは、昨日の電話で塚田から聞いていた通り迷いようがなく、容易に見つかった。来客者用の駐車スペースに車を停めたあと、少々空腹を感じ始めていた小川は、コンビニでパンを買って食べてから塚田の部屋へ行くかと考えた。

「まあ、手紙を渡すだけだしな」

 コンビニに行くのは用件を済ませてからにしようと思い直し、マンションのエントランスへと向かった。定礎板を見る限り、築三十年経った建物はお世辞にも綺麗とは言い難い。エントランスのオートロックは、ボタンの数字が四か所だけ摩耗している。小川は、悪戯心でその四つのボタンで開錠を試みようかという気持ちを抑え、塚田の部屋番号を押した。

「はい」

 インターホンの前で待ち構えていたのかというくらいに、塚田の声はすぐに返ってきた。

「小川です」

「どうぞ」

 短いやり取りの直後に解錠されたエントランスを抜け、エレベーターに乗り込む。十六階建ての七階。エントランスから塚田の部屋へと小川が向かう間、誰ともすれ違わず、誰の声も聞こえなかった。上層階の数フロアーを除いてワンルームで構成されているマンションは、平日の昼間は静寂に包まれている。

 ドア横のインターホンを押すと、塚田からの応答はなく、そのままドアが中から開かれた。

「すみません。お仕事終わりにわざわざ」

 ドアから顔を覗かせた塚田は少し痩せていたが、それ以外は夏休み前と何も変わらなかった。

「良かった。元気そうですね。……いや、病気なのは分かっていますけど」

 元気そうと聞いた塚田の瞳に僅かに影が差し、小川は自分の迂闊さを恥じた。用事を済ませ、この場を早く離れようと、海叶からの手紙を差し出した。

「校長が預かっていた手紙です」

 だが、塚田は小川の手にある封筒を一瞥しただけで、それをその場で受け取ろうとはしなかった。

「どうぞ上がって下さい。昼食は済まされましたか?」

 塚田からの思わぬ誘いに小川は一瞬呼吸を忘れた。塚田は無表情で、声も平坦だ。特別な意味はないのだろうと、小川は正直に答えた。

「いえ。帰りにコンビニでパンでも買って帰ろうかと」

「それじゃあ、是非どうぞ」

 塚田が玄関を大きく開いて小川を招き入れると、狭い部屋からチーズの焼ける匂いが溢れてきた。

「ピザを焼いたんです。生地は市販の物ですけど」

 ベッドの横にある折り畳みの丸いテーブルの上には、既にグラスと皿が二つずつと、その皿の上にはナイフが置かれている。

「病院で、まずは家事をしっかりできるようにと言われて……。おかげで料理のレパートリーは増えました」

 そう言うと塚田はやっと笑顔を浮かべたが、それはどこか寂しさを感じる笑顔だった。小川に向けた笑顔ではなく、自分自身に向けた作り笑いだ。

「それじゃあ、遠慮なく」

 小川はそう言うと、勧められるままテーブルの前に腰を下ろした。テーブルの横には仕事関係の本が山と積まれていた。

 この部屋には本棚というものはなさそうだ。ベッドと小さめのテレビとオーディオ。真っ白なドレッサーは、鏡にレースのカバーが掛けられている。若い女の部屋にしては殺風景だと思って初めて、小川はそこに上がり込んでしまったことを少し後悔した。

「熱いうちにどうぞ」

 部屋を見渡していた小川の顔を見ることなく、塚田は丸いままのピザをテーブルの中央に置き、再びキッチンに向かう。小川は出されたピザをナイフで四つに切り分け、一切れずつそれぞれの皿に盛った。

 戻ってきた塚田の手には、輪切りのレモンが泳ぐアイスティーが入ったウォータージャグが握られている。冷蔵庫から出されてすぐに水滴が周りに浮かび上がったガラスの容器は、再び表情を失っている塚田と奇妙な似つかわしさがあった。

 小川と向かい合って腰を下ろし、グラスにアイスティーを満たす塚田は、小川をもてなしているというよりも、仕事をこなしているといった様子だ。

「飲み物は紅茶でいいですよね?」

「ええ、それはいいですけど、この手紙は?」

 海叶からの手紙は、まだ小川の手に握られたままだ。

「その本の上にでも置いといてください。食事が終わったら見ますから」

 塚田は自分で決めたスケジュールを崩されたくなかった。昨日小川から電話があり、コーヒーは飲まないと言っていた小川のために、普段は飲まない紅茶を用意した。ピザが好きだという話は、小川が他の先生と話しているのを小耳に挟んでいた。

 だが、小川が口にしたそれらは真実ではなかった。

 塚田は小川が吐いた小さな嘘を信じ、それを記憶していた。それに気付いた小川は、塚田と深く知り合うつもりはないという気持ちは変わらなかったが、それでも罪悪感が胸に広がりだしていた。

「どうぞ、召しあがってください」

 ぎこちなく笑う塚田に、小川の心はざわついていた。

「じゃあ、いただきます」

 チーズの絡まったブラックオリーブが転がり落ちぬよう、小指で生地の下から切り取ったピザの角の部分を支え、その角から口に運ぶ。その様子をじっと見ている塚田の視線に、小川の動作はぎこちなかった。

「イテっ」

 あろうことか、自分の小指に歯を立てた小川が顔を歪めた。それを見た塚田は声を上げて笑っている。

「いやだ、小川先生。子供みたい」

「そんなにじっと見られてちゃ食べにくいですよ。……ま、いずれにしても、そういう風に笑っていた方が良いです」

 小川にとってはなんでもない言葉だった。部屋に招いておいて、表情が硬いままでは自分も息苦しい。その緊張が緩んだことを素直に喜んだ言葉だったのだが、塚田は声を上げずに涙を流していた。

 自分で泣いていることに気付いていないのか、塚田は涙を拭おうともしない。その頬に小川は指を伸ばしかけたが、ピザに触れていた指だと思いとどまった。

「塚田先生、私もそんなにゆっくりしていられません。やはり先に手紙を確認してくれませんか? 塚田先生に先に読んでもらってからと、私もまだ読んでいないんです。あまり長くお邪魔していても申し訳ないですし。読まれたらすぐに帰りますから」

 このまま塚田の部屋に留まれば酷く面倒なことになりそうで、小川はこの場から早く去ろうと試みたが、既に遅かった。

「じゃあ……明日、見ます」

 本気とも冗談とも知れない口調でそう言った塚田に、普段の小川なら無言で立ち去っただろう。そうさせなかったのは、涙を見たからではない。

 塚田の手には、ピザソースの付いたナイフが逆手に握られていた。

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