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何を生むことも育むこともない行為でも、ふたりの身体に浮かんだ汗はしばらく流れ続けた。
ベッドに横になって汗ばむ背中を合わせたまま、塚田は手紙に手を伸ばした。粗い手つきで封を切り、中を確かめる。入っていたのは、校章と共に薄く南小学校と印字された一枚の便箋だった。
「校長室で海叶に書かせたみたいね」
何度も鉛筆で書き直した跡のある手紙には、幼い字で感謝の言葉が並べられていた。だが、読み進めても、塚田の心を震わせることはなかった。海叶自身の言葉ではない。そう感じられたからだ。
唯一最後の部分には海叶の想いが感じられたが、それも塚田に向けられたものではなかったようだ。
「『海は、海のように広い心。叶は、夢が叶うように』ですって。それから『桜町小学校にも来てください』って書いてある」
「そうですか」
平坦な返答を残して、小川はベッドから抜け出した。
手紙を読むまでという約束は果たされた。シャワーを浴びたかったが、それよりも早く帰りたいと思っていた小川は、汗も拭かずにシャツに袖を通した。
「それじゃあ、お大事に」
ネクタイをポケットにねじ込んで玄関に歩いて行く小川に、塚田は声を掛けることもできなかった。身体がだるく、足に力が入らない。
小川が振り向くことなく部屋を去ったあと、塚田はベッドの上を石の下で蠢く虫のように這い、ドレッサーに置いてあった薬を手に取った。すっかりぬるくなったアイスティーでそれを飲み込むと、地の底に沈むような眠りに落ちていった。
小川が塚田の部屋に来た時に乗ったエレベーターは、塚田の部屋にいた間使われることなく、そのフロアーから動いていなかった。
小川が蒸し暑い箱の中に入ると、自分から塚田の体液の匂いがするのが分かって、両手の拳を固く握りしめた。
眩暈に襲われそうになって、小川はその場にしゃがみ込んで頭を振ると、塚田から聞いた手紙の内容を思い返した。
漢字の意味を書いたのは、出会った日に小川から尋ねられたことが海叶の頭に残っていたからだろう。しかし、転校先の学校にも来てほしいと書いたのは、果たして海叶自身の言葉なのか、校長からの指導が混ざっているのか判断できなかった。
どちらにしても、海叶を追って勤務先を変える気はない小川だったが、そのことで校長から尋ねられたらどう答えるか、現時点では自分でも予想できなかった。
「どっちでもいいか……」
一階に着いたチャイムの音に合わせて呟き、壁に手をつきながらゆっくりと立ち上がると、いつもより多くボタンを外したシャツの襟元をつまんで、外の空気を流し込んだ。マンションから出た小川は、エアコンを効かせるために車のエンジンをかけ、歩いて隣のコンビニに入った。氷の入ったカップをフリーザーから取り出すと、手のひらから伝わる冷気が身体に籠った熱を少しずつ逃がした。
小川がレジにカップを置き、代金を店員に渡した時、その店員に先程の行為を見られていたかのような感覚になった。カップをセットしてコーヒーがドリップされるのを待つ間にも、店員からチラチラと見られているような気がしていたのは、後悔の表れだろう。
小川は店を出てすぐにタバコに火を着け、コーヒーを細かい氷ごと喉に流し込んだ。
タバコをフィルター近くまで吸い尽すと、残りのコーヒーを一気に飲み干し、氷の残ったカップに溜息も詰めてゴミ箱に投げ込んだ。
エアコンが効き始めた車に戻り、自宅へと走らせている最中に小川が胸を痛めながら思い出していたのは、塚田の痩せて骨ばった腰でも亡き妻の無残な姿でもなく、子猫のシューと遊ぶ田島の笑顔だった。
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