遷移
1
「転校した?」
夏休みが明けて初めて出勤した小川を待っていたのは、信じられない事実だった。海叶が伯母の家近くの学校に転校したらしい。小川が信じられなかったのは海叶が転校したことそのものではない。それを小川に伝えなかった学校側の対応だ。
もうひとつ夏休み前と変わった所がある。たった今海叶が転校した事実を伝えたのが、塚田ではないということだ。今塚田の席に座るのは、塚田よりもさらに若いであろう女だった。
「母親の裁判が終わって、小学校卒業まで伯母さんの家で生活することが確定したので、近くの学校にということらしいですよ。毎日の送り迎えも大変だからって言ってたみたいです」
塚田が病気で休職し、代わりに臨時採用でこの山下がそのまま塚田のクラスを受け持つことになったようだ。
「じゃあ私は……」
そう言って眉間に皺を寄せる小川に、少し離れた場所から声がかかった。校長だ。
「小川先生、ちょっとよろしいですか」
職員室とドア一枚を隔てた校長室から、校長が顔を覗かせている。
「はい」
小川が立ち上がり、校長室へと向かう。山下の後ろを通った時、彼女のノートパソコンの画面が目に入った。児童たちのデータが纏められた表計算ソフトが開かれている。そこにある海叶の列には網掛けがされ、一番右には「転出」の赤い文字が見えた。小川は音にならない溜息をそっと漏らして教頭のデスクの前を歩く。
小川はチラリと教頭を伺い見たが、教頭の視線はそれを避けるように伏せられていた。自分に対して後ろめたさでもあるようだと小川は感じながら、開けられたままの校長室への入り口に立った。
「失礼します」
小川が軽く頭を下げる。
「ドア、閉めて頂いてよろしいですか」
校長は、ここでの話しを聞かれたくないというよりも、職員室からの雑音を断つためにそう指示し、小川にも容易にその意図が伝わる程に朝の職員室は音で溢れていた。
「どうぞ、座って下さい」
小川が校長室に入った時から既に校長はソファーに腰掛けている。その向かい側に小川がお辞儀して座ると、校長は申し訳なさそうな顔をした。小川はその顔を見た瞬間、自分は用済みだと告げられるものだと思った。
「すみませんね、まだたった三か月だというのに。小川先生もやっと慣れてきた頃だったでしょう?」
「確かにそうですけど。しかし、校長先生が謝られるようなことでも……。仕方がないですよ」
小川がそう言うと、校長は少し表情を柔らかくした。
「それでですね、小川先生。あと半年と少し、海叶はいませんが引き続き来て頂けますか?」
小川には校長が何を言っているのか理解できなかった。海叶の学校生活を見守るために来た小川に、その海叶が去った学校で何をやれというのか。
その戸惑いが分かりやすく顔に出た小川を見て、校長は微笑んだ。
「小川先生のことは、前島中学校の本多先生からよく聞いていますから。山下先生を助けてあげてください。いや、こう言っては語弊がありますね。山下先生の目が届かない子供たちを助けてあげてください。まだ山下先生は経験があまりありませんから」
「経験というなら、私なんてもっとありませんよ。海叶君だけでもちゃんと対応できていたのか怪しいものでしたし」
校長はそれに否定も肯定もせず、ソファーから立ち上がって自分のデスクから、小さな封筒を取って小川の前に差し出した。
「塚田先生と連名ですが……、増田からの手紙です」
渡された封筒には、明らかに子供の字で「塚田先生小川先生へ」と書かれていた。手紙を書いた海叶の名は書かれてはいないが、海叶の字に間違いない。
封はされたままだが、中に入っている手紙の量は多くはなさそうだ。
「中の手紙も海叶君が書いたものなんですね?」
小川の質問に、校長は頷いた。
「塚田先生には構わず、小川先生が読んで頂ければ大丈夫です。増田は小川先生を信頼していたようですし」
小川は校長の言葉に首を傾げたが、そもそも塚田ではなく校長がこの手紙を手にしていることから、この手紙は校長が海叶に書かせたものなのだろうと小川は推測した。
校長はこの手紙に何が書かれているかを知っている。そして、塚田にも内容は伝えているのだろう。
「私はきっと……校長先生が思われているような人間ではありませんよ」
小川は今、居心地の悪さを感じていた。過度に期待されたり、信頼されたりするのを酷く苦手としている。これまでも小川は、責任を負う立場から可能な限り遠ざかってきた。だが、お金よりも自由な時間を求める、昨今多いタイプの人間とは少し違った。
「今だってよく見えているじゃないですか。周りが何を求めているのか、自分が何をすべきなのか」
「それこそ買いかぶりですよ」
「いいじゃないですか。第三者からの評価が自分を育てるのです。心の中は自分にしか見えませんが、それは社会活動には関係ありませんから。問題は表面に出てくる部分ですよ」
小川は中学時代に本多から聞いた話を思い出していた。
――思想良心の自由だけが公共の福祉に制限されない。それだけに、自分の想いは何よりも大切にしなくてはいけない。
単純に言えば信念を持てということだと小川は理解していた。理解はしていたが、その言葉が自身の内で成長をして実をつけるまでには至っていないと、その話を思い出すごとに実感している。
「やはり、私は評価されるような人間ではないです。……でも、これは言われた通り読まさせていただきます。今後のことについては、少し考えさせてください」
「ええ、結構ですよ。では、答えが出るまで、山下先生のサポートとして三組の授業を見ていてください。少なくとも、三組の生徒のことは山下先生よりも、小川先生の方が知っていますから」
「分かりました。では、失礼します」
小川は校長室を出て、自分のデスクに向かった。職員室は学年ごとに纏まってデスクが並べられているが、四学年の教員たちの姿は既になかった。それぞれの教室へ行ったようだ。
小川も、デスクの下に置いてある自分のバッグに海叶からの手紙を入れると、四年三組の教室に早足で向かった。校舎内に残された夏の空気に汗を浮かべながら階段を上りきると、山下が教室の外から子供たちに何かを告げていた。
そのまま山下は教室の中へは入らず、小川の立つ階段の方に向かって歩いてきた。
「ああ、小川先生。朝の会が終わったところなんですけど、ちょっと忘れ物しちゃって……。すぐ戻りますから、中で待っていてください」
「はい、分かりました」
このクラスでの初授業に緊張しているのが見えて、小川には笑顔が浮かんでいた。教員が緊張するなど、子供の頃は考えもしなかったことだ。小走りで職員室に引き返す山下を見送って小川は教室に入った。山下が出て行って騒々しくなりかけた教室が静かになる。
その教室の後方に夏休み前まで離れ小島のように置かれていた海叶の机はもうない。
「小川先生! 塚田先生の病気ってなんですか?」
小川にそう聞いてきたのは、小川の勤務初日に、小川に子供がいるのかと聞いてきた女子児童だ。
「それは先生も詳しくは聞いていません。でも、心配するような病気ではないとだけ聞いています。少し頑張りすぎて疲れたのかもしれないですね」
「いいなあ。あたしも疲れたからずっと学校休みたい」
常套句だ。小川は苦笑した。当然本心から羨ましいなどとは思っていないはずだ。だが、だからといって、言葉にして良い内容でもない。
「和田さんは病気で学校を休んだことはありますか?」
小川がその女子児童の席にゆっくり近づいて、机の横で中腰になった。
「それは……あるけど。去年もインフルエンザで」
そう答えて、小川に何を言われるか察したようだ。目を合わさず俯いている。小川はその様子を見て、用意していた言葉の一部を飲み込んで立ち上がった。
「塚田先生が戻ってきたら、元気になられたことを喜んであげれば良いですよ」
小川は女子児童の肩に一度手を置いて、教室の一番後ろに戻った。
塚田についてのことは、他にも何人かの子供から小川に質問が飛んだが、海叶のことを聞いてくる子供は全くいなかった。母親が刑務所に居るために親戚の家に引き取られた海叶。その不幸な境遇に、子供たちなりに気を遣って口を噤んでいたのだが、小川はそれも敏感に察した。
「同情の方が無関心よりはマシか……」
小川は、少なくともクラスメイトたちの海叶に向けていた感情が、大人のそれのように嫌悪感に満ちてなどいなかったことに、僅かながら安心していた。
「ごめん、お待たせ」
まるでデートで待たせた恋人に掛けるような言葉を発しながら教室に戻った山下に、小川は苦笑する顔を見られないように誰もいない背後に視線を向けると、正方形が規則正しく並んだ木製ロッカーに目が留まった。そこには、子供たちが作ってきた色とりどりの夏休みの課題が並んでいる。
――海叶だったら何を作ってきただろうか?
そういう想像をしている自分が、小川は意外だった。
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