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「合宿かよ」

 夏休みの最終盤、東の空に青く輝く星団が昇った頃に、小川の家へ哲也と希が子猫を一匹連れてやってきた。まだ目が見えているのかどうかも分からない、チョビの産まれたての子だ。父親似なのだろうか、チョビとは違って全身が黒く、四本の脚と尻尾の先だけが白い。

 チョビも正確には幸田家のペットというわけではない。ふたりの店ができる前にあった食堂に、代々住みついている猫だ。島には人よりも多く猫が住んでいる。この島に、純粋にペットとして猫を飼っている家はない。

 子猫が産まれたからといって人に譲る風習もなかったが、田島がせっかく戸建てに住むのだからと、希に頼んだのだ。

「一緒に住み始めたって聞いたから、もうちょい色気のある展開を予想してたんだけどな」

 哲也に言わせれば、小川と田島の暮らしぶりは運動部の学生の合宿のように見えるらしい。この日の客である幸田夫妻が、子猫と共に店から持ってきた料理を食べ終わったあと、子猫と遊ぶ小川以外の三人で食器を洗っている。そのキッチンに貼ってある張り紙を見ると、確かに合宿所のようでもあった。

「『十時以降の食事は原則禁止』とか、笑うしかねえな」

 冷蔵庫にドレッシングを入れてドアを閉めた哲也が、その冷蔵庫のドアに貼ってある一枚を読み上げた。

「小川君はあなたとは違うのよ」

 希がそう言って哲也の脇腹を小突くと、哲也はバツが悪そうに頭を掻いた。

「なに? 幸田君、相変わらずお客さんに手を出してるの?」

 田島が部屋にある張り紙は全て自分が貼ったことは言わず、口をへの字に曲げて哲也を責めた。

「さすがにね、もうそれはないけど。見るだけはしっかり見てるわよ、いやらしい目で」

 哲也は思いがけず降りかかった火の粉を避けて、ソファーで子猫の肉球をつついて遊んでいる小川の方へ移動した。

「お前たちさ、マジでなんもねえの?」

「名前、どうするかな」

 小川は、哲也の言葉に被せるように視線を子猫に向けたまま言った。

「足だけ白いからさ、『シュー』とか。呼びやすいし。哲也はどう思う?」

 小川が質問を拒否したことで、哲也は何かふたりの間にあるのだと推測した。それも単純な男女の関係ではない何かが。お互いには何もないとしても、少なくとも小川の中では何か思いがあるはずだと。

 だが、間違いなく言えるのは、前に哲也の店に来た時と比べると、小川が随分元気になったということだ。哲也はそれだけで充分と、小川の話に流されることにした。

「いいんじゃね? でも、田島に相談しなくていいのか?」

「それはもちろん話し合うさ。向こうがもっといい名前思いつけばそれでいいし。なあ、シュー」

 小川は小さな寝息を立て始めた子猫の、白い「シュー」の部分を撫でた。その足は、撫でている小川の親指ほどの大きさしかない。自然に柔らかくなる小川の表情に、哲也はホッとした。

 キッチンでは哲也への攻撃は終わり、話題はやはり小川と田島のことへと移っていた。

「でも不思議よね。亜紀と雄太って、昔はそんなに仲良かったわけでもないのに」

 違う。田島は希の言葉に心の中で反論した。小川と田島は、確かに中学時代に学校ではほとんど話さなかった。だが、それ以前はそれこそ家族のように仲が良かった。しかし、それを別の小学校に通っていた希と哲也は知らない。

「うん、不思議よね。でもさ、子供の頃から一応知ってる仲だから、全然気を使わなくていいし。変に職場の女の人なんかと住むよりも楽なのは間違いないかな。色気もない、合宿みたいな感じってのも否定はしないけど。もうオバサンになっちゃったのかもね。……あ、貰ったコーヒー、淹れるね」

 今日哲也が持ってきたコーヒーをメーカーにセットして、田島と希はテーブルに移った。

「小川君、今コーヒー淹れてるから」

「おう」

 小川は、すっかり眠ってしまった子猫と、まだ希の小言を警戒している哲也をその場に置いて、テーブルに戻った。

「田島、名前どうする?」

 小川は田島が座る椅子の背もたれに腕を掛けて、田島の隣の椅子に横向きに座り、田島の顔をまっすぐ見つめた。その様子を正面に見ていた希には、二人と自分との間に挟まれたテーブルがひどく大きく感じられていた。

「どうするって、聞こえてたよ。『シュー』って呼んでるの」

 田島は頬杖をつき、小川の顔を見て笑っている。

「私もいいと思うよ。シューなんて、小川君にしては可愛い名前思いついたじゃない。ねえ、希」

「え? う、うん。そうね」

 希は食事の時にも襲われた感覚に、再度のみ込まれていた。自分たち夫婦よりも、余程この二人の方が家族らしいのではないかと。田島は「気を使わない」と言っていた。だがそれは、意識しなくても相手のことを思いやれているということなのではないか。好きとか嫌いということではなく、信じられるかどうか。任せられるかどうか。このふたりの間にあるそれを、信頼関係とか絆とか、そういう言葉で簡単に片づけられると、胸にささくれが立つような思いが希にはあった。

「いいなあ」

 思わず希が呟く。自分と哲也との間に築けなかったものだけに、希には目の前のふたりを包む空気が尊く眩しかった。

「哲也、そろそろ帰ろうか」

 希はそう口にして立ち上がっていた。小川がこの島に帰ってきたと聞いた時、まだ秘かに自分へ想いを寄せているんじゃないかと心のどこかで思っていたのが、ひどく惨めに思えて苦笑した。

「なんだ、急に。コーヒーだけでも飲んで行けよ。田島、四人分淹れてるんだろ?」

 田島も小川に頷いて「もう少しくらい」と引き留めたが、希はふたりを前にコーヒーを飲んでしまうと、心もその色に染まりそうな気がして「やっぱりいい」と首を横に振った。

「ごめんね、仕事残してたの思い出しちゃって。今度はお店に来てよ。お詫びにコーヒーご馳走するから」

 哲也は「仕事残してた」という言葉が腑に落ちない様子だったが、ソファーから大人しく立ち上がった。今日は希に逆らうと、ろくなことにはならないと感じられたのは、腐っても夫婦だというところだろう。

「ま、あまり遅くなっても悪いしな。雄太、また仕事帰りにでも寄ってくれ」

「ああ、そうするよ」

 小川と田島は並んで玄関までふたりを見送った。哲也と希も、そんな二人に愛想よく手を振り去っていった。

「なあ。俺、なんか怒らせちまったか?」

 田島は希の嫉妬と呼ぶには少々大袈裟な感情に気付いていたが、それを小川に説明しても理解はできないだろう。女のプライドと男のそれとは、まるで違う語意だ。

「そんなことはないと思うよ。ちょっと羨ましく思われちゃったみたいではあったけどね」

「羨ましい? なんで?」

 やはり分からないだろう。田島は予想通りの小川の反応がなんだか可笑しかった。

「なんだよ、ひとりでにやけやがって。……まあいいや。今日はもうシャワーだけでいいだろ? 田島先に行くか?」

 田島はちょっと考えて首を横に振った。

「あとでいい。シューと遊んでから行く。小川君お先にどうぞ」

 そう言って田島は跳ねるようにして、シューが眠っているソファーへと向かった。小川もその後ろ姿を見て、心を弾ませている。

 田島が歩いて行くリビングとは反対方向にあるバスルーム。そこへTシャツを脱ぎながら向かった小川の背中には大小無数の傷跡があったが、田島はその傷のことをまだ知らない。

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