ふたつの太陽

1

 季節は色を変え、匂いを変え、人の心を変える。

 特に夏は、その膨大なエネルギーによって人も自然も弄ぶ。

 紺色のインクが垂れてきそうな空が、海へ太陽をひとつ落としている。

 柔らかく寄せる波に撫でられている崖の上に建つ小川の家は、ふたつの太陽に挟まれて輝いていた。

「潮風は気持ちいいけど……タープなんて役に立たないね」

 海からの照り返しに手をかざし、田島はキッチンで切った肉と野菜を、タープの下に置いた丸いテーブルに並べている。小川は首に掛けたタオルで汗を拭いながら炭を熾している。小川と田島、二人だけの引っ越しパーティーだ。

「ないよりましだって。直射日光の下でやってたら五分で死ぬ」

「それはさすがにオーバーだけど……ううん、やっぱりオーバーじゃないか」

 外でバーベキューをしようと言い出したのは田島だ。日光を浴びるというのは様々な効果がある。主に精神的にだ。

 自分の目の前で小川が一度倒れて以降、田島の目に小川の異変は見えなかった。それでも小川の生活は健康的と呼ぶには程遠いようにも見えていて、外でのバーベキューを思いついたのだが、昼食ではなく夕食の時間にするべきだったと少し悔いていた。

「よし、じゃあ焼こうか」

 その僅かな後悔を消し去るに充分な笑顔を目の前にして、田島はこの家に来たのが間違いではなかったと確信した。

 人は独りでは生きられない、とはよく言われるが、それは誰かから支えてもらわねば生きられないという意味ではない。他人の人生に交わることで、初めて「生きている」と認識されるのだ。

 田島もまた、必要とされることで得られる、生の実感に飢えていた。

「小川君、飲むの?」

 一通り網の上に野菜と肉を乗せた小川が、足元に置いたクーラーボックスから二本の缶を出している。そのうちの一本のプルタブを引いて、炭酸ガスが閉じ込められた缶から解放される音を鳴らすと田島に手渡した。田島に渡されたのはビールで、小川の左手に握られているのはジントニックだ。

「なんとなく、な。飲んでみようかって気になった。まあ、一、二本くらいなら大丈夫だろ。田島もいるし」

「私もいるしってどういうこと?」

 田島はそう口にしたものの、その意味を深く考えることもなく、受け取った缶ビールを小川のジントニックに軽く当てた。

「じゃあ改めて。今日からお世話に……なります」

 田島の言葉が一瞬途切れた時の視線に、小川は苦笑した。

「全く、女ってのは細かい所にすぐ気付きやがる」

 気付いたことに気付く小川も大概だ、と田島は内心思ったが、それは置いておいた。

「指輪、どうしたの?」

 小川の左手の薬指には指輪の跡があるだけで、その跡を付けた指輪そのものはそこになかった。

「太陽が落ちた場所に、一緒に落としちまった」

 そう言って小川は目を細めて、ギラギラと輝く海を見た。

「え、うそっ! 投げちゃったの?」

 小川の芝居がかった言い方に頓着せず、目を見開いて口を両手で覆って驚いた田島に、小川は少し笑った。

「ごめんな、嘘だ」

「なんだ……。でも、外したんだね」

 それ以上の言葉は頭に浮かぶだけで口には出せないでいる田島に気付いてか、小川はもうひとつ告白した。

「投げたのもだけど、別れたってのも嘘だ」

 話す覚悟に気力を使っていると知らせる小川の瞳の黒い輝きに、思わず田島は視線をそらした。

「その顔は言わなくても察してたって顔かな?」

 そう言って田島の顔を覗き込む小川の口元は、微かに笑みを浮かべていたが、それは笑顔と呼ぶにはあまりにも悲しい表情だった。動かずとも額に汗が滲む暑さの中で、田島の胸の空気だけがひんやりとさざ波を立てた。

「飲酒運転のじじいに轢かれて逝ったよ」

 知りたいということと、聞きたいということは違うのだと、この時田島は痛感した。こんな悲しい顔で過去の傷を話して、自分に何を求めているというのか。ただ誰かに話したかっただけだろうと田島は思うようにしたが、それにしたって何故このタイミングで自分に対してなのかという思いが消えずにいた。

 田島はどうしたらいいのか分からず、ただ自分の手のひらを握りしめていた。もしも今が寒い冬ならば、小川を自分の胸に抱きしめていたかもしれない。ふたつの太陽に熱せられた夏で良かったと考えたら、途端に喉が渇いた。

「まだ人生長いから……。これからも辛いこともあるだろうけど、できるだけ楽しまないとね。放っておいても時間は過ぎて行っちゃうんだから」

 なんて気持ちのこもっていない言葉だろうと、田島は自分に苦笑してビールを煽った。

「そのつもりだよ」

 そう返した小川の言葉も宙に浮いている。それでも数年ぶりに喉を降りて行くジンの苦みは、生きていることを実感させた。

「生きるってのは大変だよな。毎日飯を食わなきゃいけない。そのためには働かなきゃいけない。大変だよ、ほんと」

 網の上で焼けた食材を、小川が皿へと移しながら呟いている。

「大変だからさ、できるだけ楽しいことを探しながら生きてくんだよな。……それが見つからなかったり、なくなってしまったりしたら、どうしたら良いんだろうって。いや、今はそうでもないんだけど、嫁さんが死んだ頃は、そんなことばかり考えてた。生きる理由っていうのかな……」

 言葉を紡ぐごとに小川の瞳が光を失っているように見えて、田島は聞いていられなくなった。

「そんなの! そんなの、考えちゃダメだよ。……あのね、誰かが言ってたの」

 田島は小川から皿を受け取ってテーブルに置くと、小川の手をそっと包んだ。

「理由なんて分からない方が良いこともあるって。特に生きる理由っていうのを作っちゃうと、それが達成されたり、奪われたりした瞬間に生きる糧を失うんだって。だから、ね」

 小川はそれを聞いてさっきとは違う笑顔を見せた。この日最初に見せた笑顔よりも、嬉しそうな笑顔だった。

「なんだよ、良い先生って感じ出しやがって。……大丈夫だよ。独りじゃないしな」

 そう言って小川は逆に田島の手を包んで、軽くその手をポンと叩いた。

「よし、食おうぜ」

 ふたりで食べ、飲み、話す。時にふざけ合いながら。

 田島は、飲む前に小川が「田島もいるし」と言った意味が分かった気がした。アルコールは良くも悪くも気分を大きくする。独りで飲んで負の方向に走ってしまえば、妻を亡くした理由が理由なだけに、それを止めるのは難しいだろう。小川がこの家に住めと誘ったのも、自分の監視役が欲しかったからではないのだろうかとさえ田島には思えた。

「そろそろ中に入るか」

 たっぷり三時間が過ぎた頃、小川がそう言って炭を火消し壺に入れ始めた。手伝おうと身体を動かした田島を、小川が制す。

「いいよ、炭の処理だけしたら俺も中に戻るから。他の片づけは明日でも構わないさ」

「じゃあ、ゴミだけでも」

 田島が改めてテーブルとその周辺を見渡すと、潰されたビールの空き缶が五本転がっていた。全て田島が飲んだものだ。ビールを飲めない小川が飲んだのは、ジントニックが一本だけだ。

「小川君ごめんね。私ばかり飲んじゃって」

「いいよ。食った量は俺の方が多いし。それに、元々俺は酒飲まないから。酒よりもコーヒーの方が美味いと思うくらいだからさ」

「そっか。それじゃあ私もこれからビール控えようかな。今までさ、仕事終わって帰ったら、ご飯作る気起きなくて。いつもビールと適当なお菓子とかで誤魔化してたのよね……」

 小川がそれを聞いて、視線を田島の腹に向けた。

「それは改めた方がいいな。まだ腹は出てないみたいだけど」

 田島はその視線を感じて腹を両腕で隠した。

「いや、実は結構出てて……って、もう! 食べて飲んだ後にお腹の話なんか勘弁してよ。せっかくの幸せな気分が……」

 小川はその田島の反応に声を上げて笑った。

 幸せな気分。

 正に小川はその時、数年ぶりに幸せな気分を味わっていた。

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