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「はい『わだつみ』です。……ああ、先生。こちらこそお世話になっています。……はい、構いませんよ。こちらも助かります。……ええ、では失礼します」

 仕事帰りに立ち寄ったサラリーマンたちの賑やかな声が溢れる中、店に鳴った塚田からの電話を海叶の伯母が受けた。

「塚田先生か。なんだって?」

 生け簀から四十センチほどのサバを網で捉え、そのサバを手早く絞めた伯父が、カウンターの客との会話を中断して聞いた。

「家庭訪問。ナシでいいですよねって。もう何回も来てるからね。他の子供と同じ時期にする必要もないでしょ」

「ああ。ま、お前に任せるよ」

 興味がない。そうとしか見えない反応だったが、伯母はそれでも構わないと考えていた。夫には店がある。海叶のことでまで煩わせるわけにはいかない、と。

 そんな二人の会話を聞いていたカウンターの客が怪訝な顔をしている。

「大将の娘さんって、もう卒業して東京に行ったんじゃなかったっけ?」

 常連客の言葉に、伯父は伯母に向かって視線を投げた。常連客の視線も、伯母の方へと向く。伯母は顔の前で手を左右に振った。

「違うのよ。私の甥っ子。ちょっと今だけ面倒見てて」

「へえ、そうなんだ。大変だね」

 常連客も、それ以上聞いていいものか躊躇したのか、そもそも興味があまりなかったのか、甥の面倒を見るに至った経緯までは聞こうとしなかった。

 その海叶は、電子レンジでほんの少し温めたメロンパンを頬張っていた。特別なものではない。どこのスーパーでも、コンビニでも売っているメロンパンだ。海叶がいる二階のリビングにも、僅かに一階の店の賑やかな声が聴こえてくる。その声は海叶にとってノイズでしかなく、そのノイズに負けないようにテレビの音を大きくして、漫然と画面に近づいて観ていた。

 海叶の背後から階段を上がってくる音が聞こえ、海叶はテレビのボリュームを下げ、画面から離れてソファーに座った。

 テレビを観るなとまでは言われないが、海叶がテレビを観ていて叱られないことは稀だ。テレビに近すぎる。音が大きすぎる。先に宿題をしろ。そんな言葉と共に海叶が叱られる時には、必ず海叶の何かが奪われていた。食事、玩具、洋服、時間。

 そして、海叶の胸を一番苦しめるのが、伯母が彼女の妹、つまり、海叶の母親を罵る言葉を吐く時だった。姉妹でありながら本気の憎しみを込められた言葉が、海叶の家族に対する認識を少しずつ歪めていった。

「シンジュウでもすればいいのに……」

 身体の中の毒気を連れて伯母の口から何度となく出てきたその言葉の意味を、海叶は理解していない。理解したいとも思っていない。

「海叶、食べたら歯磨きしなよ」

 階段を上がってきた伯母が、ドアを少しだけ開けて顔の半分を覗かせた。

「うん」

 海叶が返事をすると、伯母はトイレへ入っていった。今日のように客が多い日には、伯父と伯母は二階のトイレを使っている。

 メロンパンを食べ終わり、伯母の声でテレビを中断された海叶は、早々に歯を磨いてベッドに潜ることにした。

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