2
「最近は平和みたいですね、塚田先生のトコ」
夕方になって子供たちが下校したあとに、塚田が間近に迫った家庭訪問のスケジュールを調整していると、眼鏡のレンズをポロシャツの裾で拭きながら、阿部が小川の椅子に座って言った。塚田は僅かに椅子を阿部から離すように滑らせ、呼吸を浅くした。
本人はいい香りだとでも思っているのだろうか、阿部から漂うオーデコロンの匂いは、子供たちからも嫌われている。それも、エチケットというより、怠惰で風呂に入らない体臭を誤魔化すためのものだということを公言しているのだから堪らない。
セルフカットで短く刈られた髪は、寝癖の見本のようなはね方をしており、容姿に無頓着だという形容の限度を超えている。そのくせ塚田と二歳しか違わないというのに、何かと塚田を下に見る所が彼女は特に好きになれなかった。
「おかげさまで」
塚田は阿部に最低限の返事だけ返し、目の前の仕事に集中した。
「小川先生とは上手くいっているみたいですね」
阿部は黄ばんだ歯をむき出してニヤついている。塚田はノートパソコンのエンターキーを中指で強く叩いた。
「上手くなんかいってないですよ。ほとんど話もしないし、何考えているんだか分かんないです。大体あの年で、他に働きもせずボランティアなんて……」
不機嫌そうな塚田とは対照的に、阿部は三角に突き出た喉仏を震わせてクックと笑った。
「違いますよ。塚田先生とじゃなくて、海叶とですよ。塚田先生は男嫌いですからねぇ。塚田先生と小川先生が、ほとんど目も合わせていないのは分かっていますよ」
塚田はキーボードの上で指が震えるのを何とか鎮め、表の空白を埋めていった。男嫌いではなく、あなたのことが嫌いなだけだと叫びそうになったが、ノートパソコンのモニターを穴が開くほど睨みつけてそれを堪えた。
「そんなに赤くならなくてもいいじゃないですか」
追い打ちをかけて浴びせられた阿部の言葉に、塚田は我慢できずに立ち上がった。背中に投げられる言葉を無視して、トイレへとサンダルの踵を鳴らして向かっていった。
苛立ちをトイレの扉にぶつけるべく激しく閉めようとしたが、遅めに調整されたドアクローザーの力に負けて、それすらもままならない。壁のスイッチを拳の横で叩くように入れると、両端の黒ずんだ蛍光灯が点いたかと思えば消えてを繰り返す。
「赤くなんかなってないじゃない」
塚田は鏡に映る疲れた顔に思わず舌打ちをした。
酷い顔だ。塚田は洗面台の蛇口を捻り、両手に水を溜め、自分の顔に叩きつけた。水しぶきが散って、ブラウスへも小さな苛立ちの跡を無数に付けた。手を顔にこすりつけるようにゆっくりと下に降ろす。
「私も阿部先生とたいして変わらないのかな……」
塚田は化粧などしていない。少し眉を整えている程度だ。新任の年、初めての授業参観で珍しく化粧をした時に子供たちから浴びせられた棘が、塚田からメイクという言葉を奪っていった。
「仕事しなきゃ……」
鏡の前でやり過ごした時間の量さえ曖昧になり、もう一度顔に水を浴びせた。仕事に集中することで日常の虚しさを忘れることに慣れてしまった塚田は、心に走ったひび割れに気付かなかった。
塚田はトイレを出て職員室の扉に指を掛けた。指先に力を加えて扉を横に滑らすと、爪の内側がピリピリと痺れる感覚があった。後ろ手に扉を閉め、自分の爪を見ると、いくつかのくぼみが横に走っている。
「はぁ……」
不細工な爪だ。医者にその爪を見せれば、抗うつ剤を処方されるだろう。だが、塚田は自分の爪が教えるサインには気付いていなかった。
塚田はひとつ嘆息して自分の机へと戻る。五時十五分を過ぎ、阿部の姿は既に職員室には無かった。
真っ黒になったモニターを、マウスを軽く滑らせて復帰させる。最終日、最終枠にあった「増田海叶」の文字を消し、ファイルを保存した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます