ただ生きる

1

 南小学校での勤務も一か月が過ぎ、良くも悪くもその環境に慣れてきた小川だったが、五月の連休明けに職員朝会で触れられた注意には、少なからず戸惑いを覚えた。家庭の事情でどこにも行けなかった子供たちに配慮して、連休中の過ごし方に関する話題を出すなと言うのだ。教員が話題にしなくても、子供同士は必ず連休中の話はする。子供たちにそれを止めさせるのは不可能だ。

 教員たちも、その多くが苦笑している。一部の、あるいは特定の保護者から上がった要望だろうと、小川にも推測できた。

「意味あるんですかね……」

 思わず呟いた小川に塚田は聞こえぬふりだ。小川も返答を期待してはいなかった。これまで約一か月、塚田と建設的な話など、できた試しがない。

 小川以前に海叶の補助を務めたボランティアたちが、ひと月程度で辞めていった原因。最初の頃小川は、それが海叶の素行の悪さによるものだと予想していた。だが、これまで小川が見てきた中で、海叶が暴言や暴行を働いたというのは、初日に塚田を押した時だけだ。それもあって最近では、塚田をはじめとする学校側の対応に嫌気がさしたのではないかと考えるようになっていた。

 一度膨らんだ不信感は、萎むことを知らない。慣れるということと、馴染むということは、似ているようで違う。

 どちらからともなく、小川と塚田との間での会話の数は、日が経つほどに少なくなっていった。それと比例して、海叶が教室を出て行く回数も増えた。晴れの日は展望台へ。雨の日は、保健室の隣にある和室の「ふれあい教室」へ。

 登校するなり教室へは上がらず、一階のふれあい教室で一日を過ごすこともある。それこそ、クラスメイト達が話す土産話から逃げるように。

 その逃げた先で海叶は、決まって小さなブロックのおもちゃを組み立てて遊んでいた。ふれあい教室には、尾崎という五十代の男性指導員がいる。

「それは違いますよ、小川先生」

 小川は海叶がトイレに行っている間に、尾崎へ以前の補助員が短期間で辞めている理由について尋ねていた。

「海叶は大人の女性には甘えるんです。ただ、あの通りの子でしょう? 甘え方がちょっとズレているんですね。皆さん対応には苦労していらっしゃいましたよ。私の前では海叶もひとり大人しく遊んでいるだけですけどね。逆にそれはそれで壁を感じなくもないですが」

「極端に甘えるか、壁を作るか、ということですか……。他人との丁度いい距離感っていうのは、子供にとって分かりにくいものなんですかね」

 小川の疑問に、尾崎は腕を組んで口を横に結んだ。尾崎も子供の教育を専門にしているわけではない。学校という組織は、意外なほどに雇用対策の受け皿として利用されている。

「人との距離感……。丁度今の海叶の年代じゃないんですかね、そういうところが分かり始めるのは。実際私には、海叶と小川先生とはいい距離感で接しているように見えますけど、どうです?」

 今度は小川がそれに対して考え込んだ。尾崎に「壁」と言われて、小川は自分の方こそ壁を作っているではないかと思い直した。

「そう見えますか? でも、正直自分では分かりません。もしかしたら、私自身丁度いい距離感というものが分かっていないのかもしれないです。それができていたら今頃ここには……」

 小川の話に、尾崎もクスリと笑った。

「確かにそれは言えていますね。私もそうだ」

 ドアを大きな音と共に無遠慮に開け、トイレから戻ってきた海叶が畳の上に身を投げて転がった。

「腹減ったぁ」

 海叶のその言葉に釣られ、大人ふたりが同時に壁の時計を見た。飾り気のない円形の時計は、丁度正午を指していた。

「あと二十分我慢しな」

 小川の言葉が届いているのか、いないのか。海叶はうつ伏せに寝転がったまま、キツネとイノシシが旅をする児童書を読み始めた。トイレに行く前まで遊んでいたブロックは、大きな城を造っている途中で、資金が尽きたかのように放置されている。その様子を見て尾崎が立ち上がった。

「海叶、ブロックを先に片づけなさい。本を読むのはそのあと」

 海叶はその尾崎の言葉も無視して、膝を曲げて脚をバタバタと動かしている。

「海叶! 片づけなさい! 片づけないと……」

「嫌だ!」

 尾崎の言葉の続きを待たず、海叶は本を閉じて飛び起きた。部屋の隅に置いてあった衣装ケースを持ち、作業テーブルの上に広げられたブロックを無造作に衣装ケースへと掻き入れる。

「よし。今度も片づけをちゃんとしないと、その本はもう図書室に戻すからな」

 海叶に遮られた言葉の続きを尾崎が発すると、海叶は口と目を開いて尾崎を見たが、何も言わずに定位置の畳の上に戻った。

「伯母さんに告げ口されると思ったんですかね?」

 小川が尾崎に小声でそう言うと、尾崎は苦笑して細かく繰り返し頷いた。

「そんな感じの反応でしたね」

「私はあのセリフ、あまり好きじゃありません」

 小川の呟きに、尾崎は一度小川の目を見ただけで、机上の書類に目を落とした。

「どの先生も必死なんですよ」

 尾崎も、そのセリフが塚田の決まり文句だと知っているようだ。

 教員の仕事が激務だということは小川も承知している。組織の中に居ながら、個人事業主のように多岐にわたる仕事が終わりなく積み重ねられてゆく。だが、忙しいからこそ手を抜きたくなるのが人間だ。

 小川は生きることに手を抜いていた。感情をひとつ捨てるごとに楽になってゆく。苦しさをひとつ忘れるために、希望をいくつか置いてきた。

 そんな小川だからこそ、ひとつだけ確かに分かることがあった。

 海叶は縛られることから逃げて、ただ好き勝手に振る舞っているわけではない。生きるために選んだ道なのだ。

 問題の解決には時間がかかる。その時間をやり過ごす為に、前進を止めてでも自分を保って生きる道を本能的に選んだ。ただ、海叶は自分がなぜこうなったのか理解できていない。自分から友達を捨てておきながら、大人には構ってもらいたくて手を出したりする。寂しさという感情に蓋をした海叶は、寂しさゆえの甘えが歪んでいることに気付かず、認めようとしない。それを気付かせるのもひとつの方法かもしれないが、小川は蓋をさせたまま時間が過ぎてゆくのを見守る方法を採っていた。

「一番必死なのは海叶君じゃないんですかね? 私はそう思いますけど」

 小川がそう言うと、四時間目の終了を告げるチャイムが鳴った。

「必死というか、頑張っているんでしょうけどね。学校だけでは難しいですよ。あ、お疲れさまでした」

 違う。今は頑張ることさえも止めているのだ。そう小川は言おうとしたが、何も言わずにネクタイを少し緩めた。

「お疲れさまでした。……海叶君、また明日」

 海叶は返事の代わりに脚をバタつかせた。小川はそれを海叶の挨拶と受け取り、職員室へと戻った。自分の机で、今日の日報を書く。

 ――一日ふれあい教室で過ごした。ブロック遊びと読書。

 その日の日報は二行で済ませた。授業を全て受ける他の子供たちと比べると、一日の充実度に大きな差があるのは明らかだ。海叶はもちろんのこと、小川も充実しているとは言えないだろう。

 小川自身はそれでも構わないが、海叶はそれでも良いのか。そういう考えが頭をもたげようとするたび、小川は頭を振って思考を止めていた。

 小川が来て一週間経った頃、教頭が小川に言ったことがある。

「百人以上の日報をひとりで見てるんだから、問題が無かったときは適当でいいですよ。どうせほとんど読まずにハンコ押すだけなんですから」

 日報は毎週末に教育委員会へ送られる。毎日ではないということだけでも、日報の重要性が低いのは知れた。小川も今では、何も書くことがないのは良いことだと考え、その教頭の言葉に甘えている。

「お先に失礼します」

 人の少ない静かな職員室を出て、小川は傘をささずに小雨の中を車に向かって走った。

 途中のコンビニで、いつものように菓子パンひとつと缶コーヒーを買って、家に着くまでに運転しながら食べた。誰もいない家に帰ると、オーディオの電源を入れたアキュフェーズとロゴの入ったCDプレーヤーに入れっぱなしだった北欧バンドの、重くダークなベースラインの上で呻くホーンセクションに胸をかき乱されながら、小川はベッドへ横になった。

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