3
廊下でどう過ごすか。小川が思案していたことは無駄になった。
昨日とはうってかわって朝から気持ちのいい青空が広がっていたこの日、一時間目の開始と同時に海叶が教室から抜け出した。
「いきなりか」
廊下に出てきた海叶と目が合った小川がそう呟くと、海叶は一瞬立ち止まったが、すぐにぷいっと視線を外して歩き出した。
「先生も付き合わせてもらうよ」
小川の言葉に海叶からの返事はないが、拒否していないことはその歩みで明らかだった。小川は横には並ばず、海叶の二メートル後ろを歩いた。振り返ることなく外へと向け校舎内を進んでゆく海叶だったが、階段の踊り場で折り返す時にちらりと見える顔には笑みが浮かんでいた。
先に海叶の下履きが置いてある昇降口に着き、小川は海叶が靴を履くのを見届けてから職員用玄関に向かった。小川が靴を履き外に出ると、まだ海叶は昇降口の段差に座っていた。
「なんだ。待っていてくれたのかい?」
それに海叶は頷いただけで答えると立ち上がった。そのまま小川の横を通り過ぎて、展望台へと向かって歩いて行った。
朝から太陽の光を浴びた樹々は、貪欲にその光を浴びようと、音を立てて新しい葉を伸ばしていた。坂道を歩いて熱を持った身体を、森の中に生まれた風が労わるように撫でてゆく。
「先生が子供の頃はさ、風が起きるのは木が揺れているからだと思っていたんだよな」
小川の声に、海叶は立ち止まって青空を覆う緑を見上げた。カサカサと葉を風でこすり合わせて笑っている。
「バカじゃない?」
海叶は声を僅かに上げて笑うと駆けだした。一直線に展望台へと向かって駆ける海叶を小川も走って追った。梯子の所で追いつくと、小川はもう一度風の話をした。
「まだ小学校にも上がる前の話さ。うちわを扇ぐと風が起きるだろう? 家の窓から見えた木の枝が揺れて、風を起こしているように見えたんだな」
先に昇った海叶は小川に構わず指定席へと腰掛けた。
「風が葉っぱを動かすって当たり前だよ」
小川の足音が近づいてくるのを待って、海叶が遠くの街に向かって言った。
「その当たり前になるよりも前のことさ。目で物を見て、鼻で匂いを嗅いで、耳で音を聴く。当たり前だけど、それを初めて知った時だってあるはずだろ? 見ているのは目で、嗅いでいるのは鼻で、聴いているのは耳だってことに、いつ気が付いた? 先生は、もうそんな初めて気付いた時のことなんて忘れてしまったけど」
小川も海叶の横に腰を下ろして、街に向かって言うと、海叶は頭の後ろで手を組み仰向けに転がった。
「僕だってそんなの、もう憶えてないよ。いつの間にか当たり前になってた」
「だろ? 普通は不思議だとも思わないうちに当たり前のことになってしまうんだ。……まずいな。こうしていると眠ってしまいそうだ」
海叶に倣って仰向けになった小川が余りの心地良さに溢した本音に、海叶はなぜだか誇らしい気分になった。
「知ってる? 目をつむっても、太陽がどこにあるか分かるんだよ。真っ赤になるんだ。目をつむっているのに真っ赤に」
海叶が身体を起こして小川を見ると、小川は両目を閉じていた。
「ねえ、聞いてる? もしかして寝たの?」
返事がない小川の肘を海叶が指先でつつくと、ようやく返事が返ってきた。
「ああ、聞いてるよ。……目を閉じても真っ赤か。凄いな」
言葉とは裏腹に抑揚のない小川の喋りに、海叶は頭を掻いて再び仰向けに転がった。
「海叶君は学校の勉強は退屈か? いや、教室に戻れと言っているわけじゃないんだ。新しいことを知るのは楽しいだろう?」
小川が横になったまま片肘をついて海叶の方を見ると、海叶は小川に背中を向けるように身体を捻った。
「アイツ嫌いだもん」
「アイツって塚田先生のことかい?」
海叶はそれに僅かに首を縦に動かした。
「だって、伯母さんとふたりでお母さんの悪口ばっかり言うんだ」
自分が慕う人物に対する悪評を聞かされるというのは、大人であっても堪らない。まだ幼い海叶には反論する術さえなく、全てを拒絶する道を選ぶことしかできないのだ。
「それは……悲しいな」
小川は呟いたあと、自分が口にしたばかりの感情に疑問符を付けた。何が悲しいというのか。海叶の気持ちの代弁か、同情心からの悲哀か。ただ水に濡れた酸っぱさが、小川の胸に広がっていた。
やがて口を噤んだ海叶から寝息が漏れてくると、小川はジャケットを脱いで海叶の上にそっと掛けた。
小川は座って、昨日海叶と見たように正面の空を見た。春の霞が海との境界を滲ませて、小川の家がある島を空に浮かばせている。
小川は目を閉じ、首を回した。
「真っ赤だな」
光と熱を正面に受けた所で目を開いた小川の視界を、太陽の光が白く飛ばす。再び閉じた瞼の裏に、闇に浮かぶ淡い緑の太陽がいつまでも居座り続けた。
強烈な印象を残した言葉や事象は、簡単には忘れられない。瞼を閉じても、いつまでも消えない太陽と同じだ。それでも海叶の心に焼き付いた負の残像と比べたら、太陽のそれは一瞬のうちに消える。
もぞりと動いた海叶を小川は静かに眺めた。
――可哀想な子だ。
小川はゆっくりと肩を上下させて呼吸する海叶を見てそう思った。
だが、小川にとってはそれも所詮は他人事だ。平日の午前中だけの付き合い。それ以外の時間まで、海叶のことに頭を悩ませる余裕など小川にはなかった。
三週間後、海叶の母親には、校長が話していた予想よりも短い懲役一年六か月の実刑判決が下された。
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