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「おはようございます」

 翌日の八時、小川が塚田の横に座り挨拶をすると、入れ替わりに塚田が立ち上がった。

「小川先生、コーヒー飲みます?」

 塚田が自分のマグカップを掲げて見せる。

「ありがとうございます。でも、コーヒーは飲めませんから」

 いつの頃からか、小川は嘘の数で周囲との距離を取る習慣が付いていた。それは誰にでも多少あることかもしれない。近づきたくない人物、親しくなりたくない人物、そういった相手にも正直に自分自身を曝け出す者は稀だろう。だが、小川の場合、この時のように嘘を吐く必要がない場面でも嘘を吐いていた。

 塚田も挨拶の代わりにコーヒーを勧めただけで、意味のない会話に、意味のない嘘を返しただけだ。小川は取るに足らぬことと、塚田がコーヒーを片手に戻るのを待った。

 そして、朝会前に塚田と話した小川は、やはり自分は学校側が保護者達に取って見せる「ポーズ」でしかないのだと思い知った。それは小川にとって、実際にはどうでもいいことだ。その方がありがたいとさえ思えた。小川が今学校でやっていることは、社会に復帰するリハビリでしかないのだから。

「ですから最初に話があったと思いますけど、他の子供たちに怪我をさせるようなことがないようにだけ見ていてもらえれば充分ですから。理科と、図工の時ですね、一番気を付けてもらいたいのは。それと休み時間。あとは職員室で休んでいてもらっていても構いません」

 教育委員会がいう「学習と生活面の補助」とはかけ離れているようだが、現場側と管理する側との意識のずれとして、小川にはありがちだと思えた。それを塚田に言ったところでどうにもならない。

「分かりました。授業についておいた方がいい時間をあらかじめ教えて頂けると私もやりやすいです。それ以外の時は廊下ででものんびりさせてもらいます。職員室にいては海叶君が出て行った時にすぐに対応できませんから」

 小川の返答に、塚田も満足そうに頷いた。塚田も常に小川が教室にいては、授業がやりにくいと感じていたのだ。

「それでは、今日は四時間目に図工がありますからその時だけ。今日は絵の下書きなので怪我するようなことはないでしょうけど、小川先生もずっと外じゃ退屈でしょうから」

 二日目にして、自分が海叶に付けられている目的を悟った小川は、この時初めて塚田に同情した。塚田は小川のことなど望んでいないのだ。そして恐らく海叶のことも。

 自分自身はどうなのだろうか。

 小川は自問した。

 ネクタイの結び目に右手の人差し指をかけ、手のひらにすっぽり収まるセミウィンザーノットを握り締める。多くの男にとってネクタイはスイッチだが、特に小川にとってそのスイッチは強力に働いた。意識を外に向け、俯瞰で自分自身を見つめる。

 ――一日が無事に過ぎれば何でもいい。

 小川の頭の中に、外から聴こえた自分の声が木霊した。

「分かりました。では四時間目に」

 ネクタイを掴んだままの手を震わせた小川の声は、低く、感情の揺らぎなく響いた。

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