虚実

1

 田島は四人掛けのテーブルに所在なくひとりで座っている。テーブルの中央では、持って来たタッパーの蓋が開けられ、早く食べて感想を聞かせてくれと言わんばかりに、最後に残された熱を放出し、香りを含んだ湯気を立ち昇らせていた。

 だがその僅かな香りは、キッチンから漂ってきたコーヒーの芳香に無残に敗れた。

「田島は食べてきたんだろ? コーヒーだけでいいか?」

 小川がお湯で温めたマグカップに、ゆっくりとコーヒーを注ぎながら田島に言葉を投げた。

「うん。ありがとう」

 小川が両手にマグカップを持って、慎重にテーブルへと置いた。濃い紺のカップを自分の方に、淡いピンクのカップを田島の方に。どちらも熱帯魚の絵が小さく描かれている。

 田島は、その揃いのマグカップを見て心に広がった濁ったゼリーのような異物を、すぐに払いのけたくなった。

「小川君、奥さんは?」

 小川もその質問は覚悟していたようだ。むしろ、それを話すべくそのマグカップを使ったかのように、テーブルの上でそれを軽く田島の方に向け押し出した。

「出て行った。……いや、追い出された、のかな。とにかく別れたよ」

 生きてはいるのだ――。田島は自分の中の複雑な感情に気付いて、その根本にあるものを抑え込むようにマグカップを両手で包んだ。

「そか。色々あるよね」

 田島の手に伝わる温度と、黒い液体の上で揺れる湯気は、記憶の引き出しを激しく揺さぶった。どれも恋とは呼べない淡い記憶だ。背伸びして買ったチョコレートを渡せずに、夜にベッドに潜ってかじった苦みの強い味が蘇る。今その苦みが口の中いっぱいに広がったような気がして、ピンクの海で泳ぐ熱帯魚をゆらりと持ち上げてコーヒーを口に含んだ。爽やかな酸味がゆっくりと広がる。

「美味しい……」

 田島のその呟きを聞いて、小川はクスリと笑った。

「哲也の店の方が旨いだろうに。コーヒーメーカーで淹れただけだぜ」

 小川は薬指の指輪を親指で回している。田島はその動作に視線を奪われてしまう。本多と話している間も、小川が度々同じ動作をしているのを田島は見ていた。別れたと言うわりに不自然だと思ったが、それ以上妻のことを聞くのは憚られた。

「私ね、小川君がアフリカに行ったって聞いた時、南アフリカにワールドカップを観に行ったのか、それか、単純に動物を見に行ったのかなって思ってた。小川君さ、子供の頃獣医になりたいって言ってたじゃない?」

 突如出された話に小川は頭を掻いた。

「そんなこと言ってたな。でも、それってほんとガキの頃だ。小学一年とか二年とか、そのくらい。俺もすっかり忘れてたよ」

 笑顔を浮かべながら懐かしそうに話す小川に、田島はホッとした。アフリカの話を持ち出して、沈んだ空気にならないか心配していたのだ。

「あのね、本多先生に聞いたんだけど……」

「ウガンダの話?」

「うん……」

「そりゃあもう酷かったよ。コーヒーが不味くなるような話だから詳しくは言わないけどさ。……これ、貰うよ?」

 小川はタッパーに入っていた粉吹き芋を素手で摘まんで口に運んだ。

「相変わらず哲也の所のジャガイモは旨いな」

 田島は、小川が最初は無理しているのではないかと思っていたが、どうやらそれは違うようだ。キッチンのカウンターに、病院で処方された薬の紙袋が目に入った。帰ったあと、その薬を飲んだに違いないと田島は思った。

「帰ってからは? しばらく島には居なかったって言ってたけど」

「人を殺しかけた」

「え?」

 田島は思いもよらない言葉に耳を疑った。「ジャガイモは旨い」と言ったのと同じ口調で小川の口から出た言葉の意味を、田島は言葉通りに受け取ることができなかった。

「それってどういうこと?」

「そのままの意味だよ。あまりはっきりと憶えてないんだけどね。日本に帰って来て勤めた会社でさ、体調崩しちまって。で、結局傷病手当を期限一杯まで貰って辞めたんだけど、そのあと、そこの会社で知り合った同僚が……。ん? この話、全部聞く?」

 口が開いたまま、焦点の合わない目で話を聞いていた田島に、小川が苦笑しながら尋ねた。

「え、うん。嫌じゃなかったらでいいけど……」

「別に嫌じゃないさ」

 小川はそう言ってふたつ目の粉吹き芋を口に放り込んだ。

「でな、気を効かせて釣りに連れて行ってくれたんだよ。俺が海に行きたがってたからさ。そこで、なんか他の釣り客とトラブルになったみたいで、海に突き落とした。防波堤から六メートル下の海に」

 それこそ他人事とでもいうように、小川は自分の過去を話した。田島は何と声を掛けたらいいのか分からず、ただ黙ってタッパーの中身に視線を落として聞き入った。

「その人は何とか自力で上がってこれたんだけど、それを見ていた他の仲間が俺に殴りかかって来てさ。あばらが何本かヒビ入ったみたい。……って、やったのは俺だけど。で、俺は警察呼べって叫んでたらしいんだけど、元同僚が間に入って俺の病気のこと説明したみたいでさ。その日はすぐ帰って、それからあとは何もなかったな」

 何十年も前の話ではない。ほんの数年前の話のはずだ。それでも人づてに聞いた話のように口にするのは、それだけ記憶が曖昧だということなのだろう。田島は堪らず話題を変えた。

「今日、学校の方はどうだった?」

 田島の質問に、小川は口の中に残った芋をコーヒーで流し込んだ。

「思ってたよりも楽……なのかな。まだ一日だし、よくわかんねぇけど。担任がちょっと頼りない感じでさ。明日少し早めに行って話してみようとは思っているんだけどね」

 笑顔で話を聞く田島に、小川は首を捻った。

「どうした? これはそんなに面白い話でもないだろ?」

 小川に指摘されて、田島は自分の表情に気が付いた。

「あ、ううん。違うの。なんか、中学の三年間よりも、今晩だけの方が沢山話してるなって思って」

「ああ。中学ん時はずっとクラスが違ったもんな」

 それだけじゃない。あの頃の小川の近くにはいつも希がいた。田島はそう言いたかったが、それは胸に仕舞っておいた。

「まあ、ちょっと安心した。急に倒れたからびっくりしちゃって。コーヒーごちそうさま」

「なんだ、もう帰るのかよ。今日は泊ってくのかと思った。……冗談だ」

「当たり前でしょ、バーカ」

 田島は立ち上がり後ろを向いてそう言うと、そのまま玄関に向かった。「冗談だ」と言いながらも、そこに寂しさに起因した本音が隠れていたことに気付かないではなかったが、その傷を舐めてやれるほどの強さも覚悟も田島は持ち合わせていない。

「またメールでも電話でもして。いつでも相談にのれるから」

 田島は玄関にしゃがみ、靴に足を入れながら、聞いているかどうかも分からない言葉を放った。

「ありがとう」

 思いの外近くで聞こえた返事に、慌てて立ち上がり扉に手を置いた。まだ片方の靴の踵は踏みつぶされたままだ。それに構わず、田島は逃げるように小川の家を出た。

「いつからあんなにズルくなったのよ……」

 田島が車のロックを解除して呟くと、閉めたはずの玄関は開けられ、その扉に肩を預けて立つ小川が手を振っていた。

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