2

 小川の停止した僅かな時間の中で、無様に倒れ込むという不便な身体を置き去りに、心はウガンダの大地に降りていた。

 その病院に窓はないその名残があるだけだ。壁さえも一部しか残されていない。天井から下げられた幌は、土埃の侵入を多少なりとも防ぐという役割は果たしていた。

 動くことのないシーリングファン。

 小川は何度そのシーリングファンに目を向けたことだろう。面影と呼ぶには無機質なそれに、漫然と過ごしていた時代の自分を映していた。

 内戦に巻き込まれ、傷を負った少年少女が多く横たわるその地を、医師が去って十四時間が過ぎていた。一時間と掛からず戻る予定の医師は帰らず、傷ついた子供たちは、苦痛に泣くことも、呻くこともなかった。

 血と膿が混ざった匂いが充満し、身体に纏わり付いていた湿気を多く含んだ熱い空気が、横へとずらされた幌の隙間から流れ込んできた熱風でかき回された。

 自動小銃を杖にして立つ少年。

 その少年と目が合った小川は、大きく嘆息した。この後、小川はその少年の眉間に向けて拳銃を発射しなくてはならない。そうしなければ、自分が殺されてしまう。

 小川は再度嘆息し、静かに天井を眺めた。止まっていたはずのシーリングファンが回っていた。


 小川が目をゆっくりと呼吸をすると、吐き気に襲われた。目を奪われていたシーリングファンの回転から目を逸らす。逸らした先に、希の心配そうに眉が下がった顔があった。

「大丈夫?」

 希はまっすぐ向けられた小川の視線を受けていたが、自分ではない誰かを見ているような気がしてもう一度声を掛けた。

「雄太、大丈夫なの?」

 見開かれて一点で停止していた小川の目が微かに動いた。

「希……。あ、そうか。みんなは?」

 希は口では応えず、視線を小川から外して周りを見た。その視線に誘われて小川が首の向きを逆に向けると、誰もが小川が倒れる寸前にそれぞれが座っていた場所に立ち、小川の顔を心配そうにのぞき込んでいた。どうやら気を失ったのはほんの一瞬のことだったようだと悟ると、小川は体を起こした。

「痛っ……」

 小川は顔をしかめて頭を押さえた。軽く左側頭部をさすったあと、手に何も付いていないか確認した。出血はない。

「椅子から落ちた時に頭を打ったのよ。哲也、氷持って来て」

「ああ」

 哲也が希に言われると、製氷機の氷を小さなビニール袋に詰めたものをタオルで包んで希に渡した。

「はい。これで冷やしておいた方がいいよ」

 希が小川の頭に氷を包んだタオルをあてがった。小川が反射的に身体をのけ反らせると、タオルがぼとりと落ちた。

「あ、ごめんね」

「いいよ」

 慌ててタオルを拾おうとした希を制して小川が自分でそれを拾うと、椅子に座り直してタオルを頭に当てた。

「よくあるのか?」

 小川が椅子に座ったことで、正面にいた本多も椅子に座ってそう聞いた。

「いえ。そんなには……」

「たまにはあるってことか。一度病院に……」

「行ってます。……行ってますから、大丈夫です」

 小川の口調は、このことについて触れられたくないと語っていた。

「そうか。今日はもう休んだ方が良くないか?」

 本多のその言葉は小川にとってありがたかった。正直自分から話をすると言ってきたものの、何からどう話せばいいか困っていた。

「そうですね。せっかく先生にも来てもらったのに申し訳ないですけど……」

「なに、いつでもまた会えるさ。運転は大丈夫そうか?」

 小川以外の四人の中で、唯一小川の過去を知る本多には、小川の身に何が起こっているのかおおよそ見当が付いていた。

「はい。もう大丈夫です。哲也、これありがとう」

 小川は頭に当てていたタオルをテーブルに置いた。

「それはいいけど。無理すんなよ。なんだったら送っていくけど」

 心から心配そうにそう言った哲也に、小川は嬉しさと同時に恥ずかしさを覚えた。自分にはこんな友達がいたのに、そのことを完全に忘れていたのだ。

「心配いらない。……っていっても無理かもしれないけど。本当に大丈夫だから。また出直すよ」

 小川はそう言って立ち上がった。頭の痛みもない。頭をもう一度触ってみたが、瘤もできていなかった。

「頭もたいして強く打ってなかったみたいだ。大丈夫、どうもなってないよ。先生、希、田島も、また今度」

 まだ心配そうな同級生たちの視線を振り切って、小川は店を出た。運転席に座り、エンジンをかける前にステアリングを握る。そして、さっきの自分を振り返って苦笑した。

「何回『大丈夫』って言ってんだよ……」

 小川はエンジンをかけて窓を開けると一度強く目を瞑った。夢の中で纏わり付いていた死臭は全くしない。薫るのは潮風の優しい香りだけだ。波の音も小川の血を浄化させた。

 何度か深呼吸をした後、小川はステアリングから手を離し、自分の頬を挟むように軽く叩いた。

「明日は八時に学校。八時に学校」

 繰り返し呟いてアクセルをゆっくりと踏んだ。

 小川の車のテールランプが坂道を上ってゆくのを、田島は花が置かれた出窓越しにその光が見えなくなるまで見つめていた。

「本多先生、小川君は……」

 残された四人はテーブルに座ってただ飲み物に口を付けていた。そこに田島がそう言うと、飲み物を飲んでいた手も止まる。

「そうだな。私も全てを聞いているわけじゃないが、ある程度は話しておいた方がよさそうだ」

 本多は残ったコーヒーを飲み干してから続けた。

「小川君のお父さんが、高校受験の直前に亡くなったことは?」

 本多は三人にそう尋ねてそれぞれの顔を見渡した。だが、首を縦に振る者はいなかった。

「私たちも小川君に口止めされて、他の生徒には話さなかったからね。やっぱり誰も聞いていないか」

 本多は自分の顎を掻いた。どの程度話すべきか考えている顔だ。やがて自分に頷くと再び口を開いた。

「小川君が大学を卒業してすぐにアフリカに行ったって話はみんな知っているよな?」

 それには三人は頷いた。本多もそれを見て頷く。

「実は彼が中学生の時、小川君のお父さんは仕事でウガンダにいたんだ。そしてそのまま帰らなかったわけだが、実際に亡くなったのはいつだったのか分からない。小川君は何か分かればと思って向こうに渡ったんだろうな」

 それだけ聞けば充分だった。小川の父は、内戦の激化したウガンダで亡くなったのだ。加えて、小川自身が行っていた時期、首都カンパラではソマリアの反政府軍勢力による自爆テロが起きていたはずだ。田島は立ち上がり希に声を掛けた。

「残ったの、貰っていっていい?」

 カウンターの上にはまだ運ばれていない料理がいくらか残っている。希は多くを尋ねず、ただ頷いた。

「よろしくね」

 希は料理をタッパーに詰めて、そう一言添え田島に渡した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る