廻る世界
1
遅めの昼食を食べ終えた海叶の伯父と入れ替わるように海叶が座った四人掛けの食卓の上には、海叶一人分の夕食が置かれている。共に生活している伯父と伯母は、自身が経営している一階の料亭を閉めてからが夕食だ。今日の夕食はミートソーススパゲティだ。インスタントのコーンスープも、マグカップから湯気を上げている。
――給食でバランス取れているからいいんだよ。
海叶は、伯父と伯母がそう会話していたのを聞いたことがある。実際そうなのだろうし、何より海叶の好きな物しか夕食には出ないので、海叶には何も文句はなかった。
テレビはついていない。今の時間は面白くないものばかりだ。海叶は食事に集中して、口の周りをオレンジ色に染めながら、皿から直接掻き込むようにスパゲティを食べた。
スパゲティを食べきると、海叶はキッチンに立って食パンを一枚袋から取り出し、テーブルに戻った。食パンを裂いて、皿に残ったソースをそのパンで拭きとるように付けて口に運ぶ。二度それを繰り返すと、皿は綺麗になった。残りの食パンはコーンスープに浸して食べた。
陰で伯父に「海叶の餌」と呼ばれているとは知らない海叶は、その夕食に満足して手を合わせた。
「ごちそうさまでした」
皿を流しに置き、牛乳を冷蔵庫から出してプラスチックのコップを満たす。
海叶がそれを口に運ぶと、コップの縁がオレンジに染められた。
空が茜色に染まると小川は決まって緊張していた。頭の中で銃声が絶え間なく響き渡る。腕の震えを抑え込むように、ステアリングをきつく握りしめた。
東の空高く昇った上弦の月はまだ真白い。茜の空に浮かぶと、海にも写らないそれは偽物のような白さで、月までの距離を忘れさせる。このまま車で向かって行けば、その張りぼてを突き破れそうだ。
だが、今は目的地が違った。月へ向かう道へは乗らず、小川は再び砂浜への道を下っている。
赤い三角屋根の建物の横に車を停めて降りると、その建物の出窓に置かれた花たちがレースのカーテン越しに小川を歓迎していた。小川は握っていた拳を解いた。もう腕は震えていない。
幾何学模様のガラスが嵌められた入り口を開けると、余韻を残さないベルがカラコロと鳴った。
「いらっしゃい。もうみんな来てるよ」
希は店の屋根と同じ色のエプロンで手を拭きながらカウンターから出てくると、そのエプロンを脱いで、誰も座っていないレジ近くのカウンター席の背もたれに掛けた。
「みんな?」
小川がフロアーを見渡したがどの席も空席だ。怪訝な顔をする小川の横をすり抜けて、希がドアにかかった札を裏返して「CLOSED」と書かれた方を表に向けた。
「ロフトにいるから。それ、テーブルに運ぶの手伝ってくれる?」
後ろ手にドアにロックを掛けると、希はカウンターに置いてあった料理を指さした。
料理といってもピザが数枚と、あとはスライスしたバケットとワカモレにサラダ程度だ。
「雄太が来たよ!」
希が上に向かって声を掛けると、急な階段が伸びた半二階から三人降りてきた。
「本多先生……」
最初に降りてきたのは、小川たちの元担任の本多だった。勤務先の中学校からの帰りにそのまま寄ったのだろう。緩められてはいたが、首にはネクタイが締められている。その後ろに田島亜紀と、希の旦那でやはり同級生の
「元気そうだな、雄太。飲み物はどうする?」
そう言って哲也が小川の腕を軽く叩いた。
「車だから……。コーヒーでいい」
その答えに哲也は面白くなさそうな顔をした。
「飲めばいいじゃないか。なんなら送って行ってもいいし」
そう言う哲也に、希も横で頷いている。
「ありがたいけど明日も仕事だしさ。……いや、正直言うと酒は止められてるんだ。というよりも、俺自身が酒は飲む気になれない」
小川の眼差しに、哲也もそれ以上は酒を勧めなかった。カウンターに入って「そっか」と呟いてサイフォンのバーナーにマッチで火を着けた。
「小川君、今日はどうだったかな?」
向かい合って座る本多が、テーブルの上で指を組み、親指同士をぶつけながら前置きなしで小川にそう聞いた。
「よくわかりません」
それは小川の本心だった。何も飾らず、何も隠さず、ありのまま話せる相手はそう多くない。中学時代の視野が狭まった時に、その死角から常にそれと気付かないように道を整備してくれていた恩師は、小川にとって親よりも信じられる存在だった。
「よくわからない、か。まあ、確かに一日でわかったら面白くないわな。続けられそうか?」
本多はピザに手を伸ばしながら聞いた。視線を外され、会話と関係のない動作をされるだけで、小川は質問されているというプレッシャーを感じずに済んでいた。
「たぶん。でも、前任者たちはひと月ぐらいで次々に入れ替わっていたみたいですけど」
本多はそれを聞くと、肩を竦めた。
「そりゃあ、随分とアレだな。そんなに難しい子なのか?」
「俺にはそう思えませんでしたけどね。それなりに他の子との違いはありますけど」
小川は、本多に倣ってピザを食べつつ、今日起きたこと全てを本多に話した。本多の横に座る田島も、その話を聞きながら時折眉間に皺を寄せている。
「担任は女か……」
本多はそう呟いたが、何も男女差別的な考えを孕んで言ったのではない。
「やっぱり母親への想いが強いんでしょうか?」
田島が言うと、本多は頷いた。
「多分ね。それを本人が認めたくないと、心のどこかで無意識に思っているんだろう。それが身近な大人の女性である担任に対する態度に出ているんだ。小川君の前任者は女性かい?」
小川は前任者のことについて詳しく聞いてはいなかったが、日報の参考にと見せられたものには女性の名前が記されていた。
「直前の人は女性だったみたいです。でも、それ以前はどうかわかりません。俺は……今日の感じのままでいいんでしょうか?」
「そうだな。ただ、その子とは適度に距離を取っていた方がいい。午前中の学校内だけでの関わりなんだ。そこから踏み込んでも、踏み込まれてもいけない」
よく言う。小川はそう思った。休みだろうが構わず生徒たちを見ていた本多が口にする言葉とは思えなかったのだ。
「なんだ? お前が言うなって顔をしてるな」
本多はそう言って短く笑うと、笑顔を引っ込めて続けた。
「私だって線を引くべきところは引いているんだよ。特に最近はSNSとか気を付けないと……」
話しながら視線を田島に動かした本多に、田島は舌を出して見せた。
「はーい、気を付けまーす」
田島のその返しに、本多はドアをノックする要領で、直角に曲げた中指の関節だけで田島の頭を小突いた。
「ったぁー! 本多先生、体罰です!」
その二人のやり取りに中学時代のことが次々と思い出された小川は、いかに自分が周りの大人たちから守られていたのかを改めて思い知った。そして、それは三十四歳になった今でも続いている。
「本多先生、ありがとうございます。ずっと世話になってばっかりで。……でも、それホント痛いんですよ」
小川はそう言って、目の前でノックの素振りをして見せた。
「大丈夫だ。一分経てば痛みはなくなる」
本多はわざと中学時代の小川たちに聞かせていた言い訳を言った。
「『ただしお前たちは真似するな。厳しい修行の末に会得した技だ』……ですか?」
その言い訳の続きを言いながら、哲也が希と二人でコーヒーをテーブルに運んできた。
小川はテーブルに置かれたコーヒーから立ち昇る湯気を吸うと、背もたれに体重を預けて、ゆっくりと回るシーリングファンを眺めた。
静かに回転を続けるファンの動きに、自分の脈動がシンクロしているような気がして、小川は一気に頭が真っ白になり、シーリングファンから目が離せなくなった。
小川の世界から音が消えた。
続けて、色彩がゼロになる。
小川の中でシーリングファンが突如静止し、それと同時に今度は自分を囲む世界が勢いよく旋回した。
「雄太!」
小川の隣の席を引いて腰を下ろそうとした希が、椅子から転げ落ちようとしている小川に気付いて手を伸ばした。だが、希の手は小川に触れることなく、そのまま小川は床に転がった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます