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四時間目が終わり、小川の初日も終わった。
塚田は給食の配膳指導で教室に残っている。担任と話をする時間が思いの外少ない。
職員室に戻った小川は、市教育委員会に提出する日報を記入していた。毎日記入する「ネタ」があるものだろうかと思いながら、過去の補助ボランティアが書いた日報を参考に記入を終えると、塚田に向けた伝言をひとつ残した。
――明日は八時に来ます。小川
そう書いた付箋を塚田の机上に閉じられたノートパソコンに張り付けて、職員室を後にした。
一日四時間というのは、正確にいえば謝礼が支払われる上限であり、勤務時間が四時間以内と定められているわけではない。それでも小川が活動している南小学校に限らず、全ての学校で四時間を超えての活動は好まれていなかった。
小川自身も長時間の労働を望んではいない。小川が数年通っている精神科の担当医からも、仕事は短い時間から始めた方がいいと言われていた。
小川は学校を出てすぐのコンビニで菓子パンひとつと缶コーヒーを買うと、車を走らせながら昼食を済ませた。小さな市街地を抜け、海沿いの道を走る。十年前に開通し、昨年の春に無料化した橋を渡って島へと帰る。橋の上では窓を全開にした。潮風を浴びてホッとすると同時に、これまで緊張状態が続いていたのだと実感した。
まっすぐ自宅に帰るつもりの小川だったが、潮風が彼を砂浜へと誘った。橋を渡ってメイン通りから左に曲がり、つづら折りの道を海へと下ってゆく。
急なカーブを曲がるごとに景色が変わる。
ひとつ曲がってジャガイモ畑。
もうひとつ曲がって黄色い絨毯のような菜の花。
砂を洗う音と共に飛び込んでくる乱反射。
白い砂浜が左手に伸び、その終点に張り出した黒い岩には、一羽のアオサギが我が物顔で胸を張って立っている。砂浜の終わりは、道の終わりでもあった。その先の険しい岩場には車が通れる道はない。小川は、その終点まで車を進めた。
そこには駐車と転回が充分にできるほどのスペースがある。そのスペースに一台の軽ワゴンが無人の状態で停まっていたが、その車とは三台分のスペースを開けて駐車した。
エンジンを停止すると、波の音が大きくなった。ドアを開けると更に大きく、岩場に叩きつけられる波の音が小川の腹に響いた。
空を覆っていた雲はすっかり消えて青空が広がっていたが、海はまだ低気圧のうねりを残しているようだ。
砂浜に人の姿はない。先客の軽ワゴンに乗ってきた人物は、岩場の方に入っていった釣り客だろう。小川は車に鍵を掛けると、砂浜へ降りる階段に腰掛けた。すると、その直後に小川の足へとすり寄るように、隣に座る影があった。
「お前も暇そうだ。……昼飯は食べたのか?」
小川がその馴染みの相手に声を掛けると、「ミャア」と短い返事があった。尻尾をピンと上に伸ばして、その身体の右側、左側と交互に小川に擦り付け、丸くなって座った。
「俺はもう食ったぞ。残念ながらお前にやれるものはない」
自分の隣にある小さい頭を、小川が人差し指でポリポリと掻いてやると、気持ちよさそうに目を閉じている。それを見た小川も目を閉じる。
小川は浜辺で目を閉じ、その耳から入ってくる音に集中するのが好きだった。集中して音を聞いているはずが、いつの間にかその音が聞こえなくなり、どんどん自分が無になってゆく感覚が心地良かった。
無意識に左手薬指の指輪を親指で撫でて回す。そこに特別な感情はない。ただの癖だ。十年近く続く癖。
目を閉じている小川の脳裏には、現実に目の前に広がっている海よりも、より青く、より透き通った海が広がっていた。その波打ち際で両足を濡らす妻と小川自身。
小川の心は時が経つほどに波と風の音に溶けていった。
一方で、波と風、地球が奏でる音以外のものに敏感になってゆく。背後から聞こえた人の足音に、小川は目を開いた。
「チョビー! ご飯よー!」
鼻の下にだけ黒い毛が集まっている白猫が、首に付けた鈴をチリンと鳴らして小川の横から立ち上がった。前足をぐっと伸ばしておしりを上げると、一度身体をブルッと震わせ階段を駆け上がる。呼びかけた声の主である女性の所まで駆け寄ると、赤いエプロンの下から伸びた脚に身体を擦り付けている。
「雄太、居たんだ……。雄太はもうお昼食べた? コーヒーだけでも飲んでいく?」
その声に続いて、猫も誘うように「ミャア」と声を上げた。
「いや……うん、どうしようかな。帰る前に寄らせてもらうかもしれない」
小川は顔を浜辺に打ち寄せる波に向けたまま答えた。それが気に食わなかったわけでもないだろうが、赤いエプロンの女は階段を降りてきた。潮風で乱れる長い髪を、手首にあったゴムでひとつに纏める。
「今日、初出勤だったんでしょ?
女が小川の座る階段の一段上まで降りてきた時、小川は立ち上がった。振り返って女と正対すると、上の段にいる女よりもまだ小川の頭が高い位置にあった。
「なんだ、田島から聞いたのか?」
女は一段階段を後ろ向きで上った。ようやく頭の高さが揃う。
「そ。突然学校に来たってのもね。……ねえ、今日は最初からうちに来るつもりだったの?」
女は砂浜と道を挟んで反対側に建つ赤い三角屋根の建物を指さした。十年前、島と本土を繋ぐ橋の開通と同時にオープンした、島で唯一外食ができる店だ。だが、小川はまだ一度も訪ねたことはない。元々島民のためではなく、橋の開通で観光客が増えるのを狙ってできた店だ。実際、店は休日に島を訪れる観光客で成り立っている。
それでも平日には地元住民たちも少しは利用していたが、小川が同窓会の会場にもなったその店を訪ねなかったのには、彼なりに理由があった。
「
思わぬ提案に希は目を見開いた。
「うん……。私は大丈夫。亜紀もたぶん。場所はうちの店でいいの?」
小川は階段を上り、すれ違いざまに希の肩を軽く叩くと、足元の猫の頭も軽く撫でて車へと戻った。
「チョビ。雄太、泣いてた?」
希がしゃがんで猫の喉を撫でた。猫は返事をしなかったかわりに、鈴を鳴らしながら頭を白く細い指に摺り寄せた。
下校時間。海叶は校門前に迎えに来ていた車に静かに乗り込んだ。
「今日はちゃんと勉強できた?」
ハンドルを握る海叶の伯母が、助手席の海叶の頭に手を置いて聞いた。
「別に……」
その答えに、伯母は頭に置いた手を一度離して手首だけを捻り、海叶の頭を軽くはたいた。
「ちゃんとしなさいよ。迎えも毎日とか面倒臭いんだから」
海叶は口を噤んで外を流れる景色に目をやっている。教師が体育の授業の時に吹く笛の音に似た、独特な鳴き声が聞こえた。窓を開けようとスイッチを触るが、運転席側でロックされているようで反応しない。
海叶は窓を開けるのはあきらめて、窓に顔を近づけて、青空の中で笛を鳴らしながら旋回するトンビに自身の姿を重ねた。
その姿に人差し指を向け、親指を立てる。
「バン……」
海斗は狙いを定めて心の中で引き金を引いたが、トンビは相変わらず笛を鳴らして飛んでいた。
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