ポーズ
1
授業間の十分間は、遊ぶための時間ではない。次の授業の準備をするための時間だ。
小川自身が子供だった頃は、学校でそう教育されてきた。それは今の時代でも同じだろう。そして、子供たちがそれにかまわず遊ぶのも同じだ。
学校で学ぶのは、教員と教科書によるものばかりではない。子供たちだけになった教室の中で、傷つき傷つけられ、癒し癒されて対人コミュニケーションを学んでゆく。自分たちで遊びを考え、ルールを作り、そのルールを守る大切さを知る。
そんな子供たちの目から、余計な憶測と共に見られるのを小川は嫌い、海叶の傍に居続けることはしなかった。前の時間に児童たちの座席表を見て、ひとまず山田と谷口の顔は記憶した。席は海叶と対角線上に配置されている。その二人は休憩時間に入ると、お互いの消しゴムを机の上で弾いて遊んでいた。海叶は自分の席から動く気配はない。
小川は教室の後ろに掲示されている子供たちの今年度の目標を眺めつつも、神経は子供たちの動きに向けていた。
ギャングエイジ。集団形成時代。
校長が言っていたそれは、休み時間になると顕著に表れていた。二人から五人のグループが自然とできている。その教室の中にいて、たった一人自分の席で動かない海叶は、果たしてその時代に遅れているのか、先を行っているのか。恐らくそのどちらでもないのだろう。海叶は海叶だ。小川は、枠にはめすぎる考え方が好きになれなかった。
「先生は副担任?」
突然二人組の女子児童が小川にそう話しかけてきた。
「いや、副担任とは違うよ。副担任はどちらかといえば担任の味方だけど、先生は君たちの味方だ」
二人が話しかけた時、海叶の意識が自分の方に向いたのを小川は感じて、海叶にも聞こえるようなボリュームで返した。海叶は身体を捻って小川に完全に背中を向け、聞いていないというポーズを取ることで、聞こえていると証明した。
「え? じゃあ宿題とかしてくれるの?」
そんなわけない。そう思っていながらも、その子は笑いながら小川に言った。無理だと分かっていながら、僅かに「手伝うよ」という返事が返ってくるのを期待している目で。
「宿題は残念ながら無理だな。宿題は家でやるものだろ?」
「なぁんだ。ケチ。……先生、結婚してるの? 子供は?」
僅かな望みが絶たれ、その子は小川がしている指輪に目を付けて言った。もしかしたらこの子供たちの父親は自分と同じくらいの年齢かもしれないな、と小川は思った。小川の実家からは遠いこの学校だが、ひょっとしたら同級生の子供もいるかもしれないとも。
「結婚はしてる。でも、子供はいないんだ。どうしてだい?」
「先生は自分の子供の宿題は見てあげてるのかなぁって。うちのお母さんは全然見てくれないんだもん」
小川は、自分が子供だった時のことを思い返した。やはり小川も宿題を親に見てもらった記憶はない。だが、小川の場合はその必要がなかったからだ。子供の頃、二歳年長の兄の勉強を一緒に見ていた小川にとって、小中の勉強は退屈でしかなかった。元々勉強ができた方だとも言えなくもないが、小川の場合は、どちらかと言えば要領が良かった。だが、今ではその要領の良さも影を潜めている。
「お母さんもやることが多いからかな。逆に何かお母さんを手伝ってあげたらどうだい? ギブアンドテイクさ。家事を手伝う代わりに、宿題を手伝ってもらえばいい」
二人並んだ女子は、小川の提案に不満げに頬を膨らませた。
「家事を手伝うんなら、宿題手伝ってもらうより、おこずかいもらった方がいいもん。ねぇ」
「ねぇ」
笑顔で頷き合う二人の女子を見て、それはそうだと共感してしまった小川は失笑した。
「さあ、そろそろ次の時間の準備をしようか」
隣のクラスの担任が廊下を通り過ぎて行った。そろそろ塚田もくるだろう。小川に言われ、教室の黒板の上に掛けられた時計で時刻を確認した二人は、自分の席へと戻っていった。他の子供たちも既に自分の席についている。この学校の教師たちも工夫して指導しているようで、ほとんどの児童が自主的に自分の席について、次の授業に必要なものを机の中から出している。
綺麗に整列した小さな黒い頭を教室の後ろから見て、小川は自宅近くの海に浮かぶ養殖生け簀のブイを思い出していた。
間もなく塚田と教頭が共に廊下を歩いて来ると、塚田が前の扉を開けて教室に入ってきた。教頭はそのまま廊下を進み、後ろの入り口を開けて小川に向かって手招きをした。日直が号令をかける中、小川は廊下に出た。
「お疲れさまです」
小川は教頭にそう頭を下げたが、同じ挨拶は返ってこない。
「小川先生、休憩する時間を適度に取って下さいね」
「はい。お気遣いありがとうございます」
教頭は教室の中を一度見て、入り口から少し離れた。小川もそれに倣う。
「さっき、海叶が謝ったらしいですね」
教頭の言葉に、小川は首を捻った。
「山から下りてくる時です」
教頭にそこまで言われて、小川は海叶が塚田を押したのを思い出した。
「ああ……。私もまさか海叶君が塚田先生に対してああいう行動をするとは思っていなかったもので……。申し訳ありません」
小川が教頭にそう言って頭を下げると、教頭は「いやいや」と言って首を横に振った。
「今まで塚田先生は、海叶が謝った所を見たことが無かったんですよ。自分に対しても、他の子供たちに対しても。それで、小川先生が海叶と、展望台でどんな話をしたのかと」
「ああ、そういうことでしたか」
小川はそれを聞いて、あの時の塚田の態度に得心した。知らず知らずのうちに、塚田のプライドを傷つけてしまっていたらしい。
「本当に特別何もしてないですし、大した話もしていないんですけどね。隣に座って同じ景色を見ていただけですから」
展望台での海叶の様子を教頭に話しながら、小川は教室の中に意識を向けた。海叶は教科書を広げている。この時間は理科だ。どうやら海叶は理科が好きらしい。自然の事象を実験で体感する授業は刺激的なのだろう。
「なるほど。小川先生は『凧の糸』ってところですかね」
小川が教頭に、海叶の名前がカイトから来ているのだと説明されたことを話すと、そう反応した。
「そんな単純な物でもないとは思いますけど」
海叶本人には聞かせられない話だと小川は思った。凧が空を飛ぶには多くの力を借りなければならない。その中でも、操る人間の意思を本体に伝える糸というポジションに、今日初めて海叶に会ったばかりの小川を当て嵌める教頭の安直さも気に食わなかった。だが、教頭はそこまで深く考えていないようだ。
「これから、私たちだけでは目が届きにくい所を小川先生に助けてもらうわけですからね。海叶も今の時期が大事なんですよ。いや、大事ではない時期なんてないんですが。甘やかしすぎて、何でも自分の思う通りにならないと気が済まなくなってしまったら、その先が大変ですから」
小川はこれまで教育の現場に入ったことはない。学校以外で多くの子供と関わる機会はあったが、それは一時的なものであり、なおかつ、平和な日本とは対極にあるような環境下だった。将来を見据えた教育や指導についての知識は皆無と言ってもいい。「甘やかしすぎ」がどの程度から当て嵌るのか、全く見当がつかない。
「海叶君の家庭での状況って、実際はどうなんでしょうか。伯母さんが厳しいというのもどう厳しいのか。虐待とかあるわけではないんですか?」
教頭がそれには顔の前で手を振って否定した。
「普通ですよ。普通の家庭と何も変わりません。母親に比べて厳しいというだけで。あの母親に躾をするなんてことは不可能だったですからね」
「それでも海叶君は母親のことがやっぱり好きなんでしょうから、今は辛いんでしょうね」
小川がそう言うと、教頭は再び顔の前で手を振った。今度は笑みまで浮かべている。
「それはどうだか。いつも母親の話になると『早く死ねばいい』とか言ってますからね。躾がしっかりしているから、伯母さんのことを厳しく感じているんでしょうが、今だけですよ。今の生活リズムに慣れたら、少しずつまともになってゆくはずです。今までの環境が悪すぎたんですよ」
母親がどういう教育をしていたのか。当然小川がそれを知るはずもないが、海叶が母親を恋しがっているのは間違いない。「死ねばいい」と口にしていると言っても、本心なわけがない。自分の名前の由来を誇らしげに話していたのが何よりの証拠だ。世間から見たら道を外れた母親だったとしても、海叶にとっての母はそのひとりしかいない。
「海叶君に補助を付けるようになったきっかけはなんだったんですか?」
小川は教頭に気になっていたことをぶつけてみた。
「山田と谷口の母親たちが何度も学校に乗り込んできましてね。海叶が二人をいじめていると言って。いや、実際はいじめなんかじゃないんです。二人は海叶よりずっと大人で、海叶を相手にしていないだけなんですよ。殴られようが、持ち物を壊されようがね」
ただ、持ち物が壊れているとなれば、親はその事実には気付く。子供にどうしたのかを問いただせば、「海叶に壊された」という答えが返ってくる。
山田と谷口の親の反応が過剰だとも言い難い。ただ小川の心には、漠然とした悲しみが満ち始めていた。その小川の口から洩れた小さな溜息に何を感じたのか、教頭は芝居がかった溜息の後に言葉を続けた。
「海叶はあの通り身体も小さくて力も他の子達よりも弱い。逆にいじめられないのが不思議なくらい……いや、これは失言ですね」
「失言ですね」と言いながらも、教頭には全く悪びれる様子もない。小川は、苛立った表情を教頭に見られないように背を向けてから口を開いた。
「つまり私はその二人の保護者に対してのポーズというわけですか。学校はちゃんと対策を取っていますよ、という……。いや、私の方こそ失言ですね」
小川は言葉を失った教頭を置いて、教室の中へと入った。
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