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 翌日の朝。未明に降った雨で若葉が湿っている。陽が昇っているはずの東の空では、花散らしの雨を降らせた厚い雲が、警笛を鳴らしながら疾走する列車のように雷鳴を引きずっていた。

 校門脇の花は散り果て、児童たちの靴と教員の車に踏みつけられた花弁には、お世辞にも愛でられるような美しさは残っていなかった。

 小川の車が、その汚れた花弁のカーペット上を通過した。雨で路面に張り付いた花弁は舞うことを忘れ、桜色の細胞をただすり潰している。

 かつて急増した児童に対応するために校舎が増築された敷地にあって、職員の駐車スペースは充分とは言えなかった。本来車が侵入することを想定していなかったような場所にも職員の車が停められている。

 小川の勤務時間は午前中だけと短い。「停めるのが奥すぎると出庫できなくなる」という校長のアドバイスを聞いていた小川は、職員玄関までは遠くなるが、校門近くに車を停めた。遠くなると言っても、百メートルも歩きはしない。

「おはようございます!」

 小川が車から降りてすぐに、ランドセルを背負った子供たちが次々と挨拶してきた。

「おはようございます」

 小川も笑顔でその挨拶に応える。普段より歩く速度を落として、子供たちの背中を眺めながら新しい職場へと向かった。

「随分とカラフルになったな……」

 小川が、上下左右に揺れながら進んでゆくランドセルたちを眺めて呟いた。小川の小学生時代には、男子は黒、女子は赤と決まっていた。しかも、幼少期を離島に生きた小川たちの学校では、ランドセルを始め、ノートや鉛筆に至るまで指定業者からの一括購入だった為に、そこに個性が入り込む余地はなかった。

 そんな小川には、カラフルなランドセルが、他の人間に比べてより明度と彩度を高くしたように映っていた。曇り空の下にいても、小川は眩しそうに目を細めてその光景を見ている。

 小川が職員用の玄関に入ると、ずらりと並んだ下駄箱のひとつに「小川先生ようこそ南小学校へ」と、ポップ体でプリントされた紙が貼られているのを見つけた。他の扉にも、所々同じような張り紙が貼られてある。紙が貼られていない扉には、ネームプリントシールがその代りに貼られていた。

 小川は、バッグから出した上履き用に買ったスニーカーに足を入れ、脱いだ革靴をその下駄箱の扉を開けて中に仕舞った。扉を閉めた時にそのまま紙を捲ってみると、ネームプリントシールも既に貼られてあった。それを確認した小川は、大きく印字された紙を剥ぎ取って、バッグの中へ適当にねじ込んだ。

 ピーク時よりも減ったという児童数が九百人強。それに対して、教職員数は四十七人。単純に計算して一人の教員が二十人の児童を見ることになる。だが、小川は増田海叶ただ一人を見ればいい。

 小川は、まだ海叶本人に会ったことはない。

 今年十歳になる子供が、自分だけ他の子供よりも多くの予算を充てられることも、その理由も知ることはないだろう。そもそもそのことに関して小川自身、子供やその親、担任や他の教師たちから感謝されたいなどとは微塵も思っていなかった。等しく教育を受けられるのは子供にしてみれば当然の権利であり、大人たちにとっては義務だ。問題行動があるからといって、教室からつまみ出すことはできない。

 小川は職員室の扉を前に立ち止まり、背筋を伸ばした。この扉を開ければ、止まっていた自分の時間も動き出す。それが幸せなものであっても、辛いものであっても、時は同じスピードで過ぎ去るだけ。小川は自分の胸に左手を当て、口を動かした。

「前を向け」

 小さく呟いたその声でも、鼓動と共に胸を震わせる感触が手のひらに伝わった。

「おはようございます。今日からお世話になる小川です」

 ドアを開けると同時に、小川は職員室の隅まで響く声で言った。だが、その挨拶に同じく「おはようございます」と返す声はひとつもない。その代りに、正面窓際の席に座る若い女教師が手を上げ、自分の右隣の席を指さした。

「小川先生、ここに」

 その机は、他の机よりも片付いていた。だが、机上に何もないというわけではない。何冊かの本や、プリントアウトされた紙が平積みにされている。だが「ここに」と言われたのは、そこが自分に割り当てられたデスクだという意味だろうと判断し、小川はその椅子を引いて腰掛けた。

「すみません、この荷物は?」

 小川の隣の女教師は、手に持ったボールペンをクルリと回して、小川を挟んで反対側の机を指した。

「阿部先生の。今は登校指導に出てる。適当に脇へ寄せてもらっていいから」

 小川は言われるまま、本の山を崩さないように一番下の本へ力を加えて、自分のスペースを確保した。露わになった机上には、透明のデスクマットが置かれ、職員室の座席表が挟まれていた。その表には、名前の上に担当クラスも書かれている。

「塚田先生、ですか?」

 座席表に書かれた小川の左隣ある塚田の名前。その塚田の名前の上には、海叶のクラスを示す数字があった。四年三組。これから小川が身を置く戦場だ。

「ですです。小川先生はいつまで?」

 小川は胸に抱いた不快感を表情には出さなかった。どう考えても初対面の相手に対しての言葉遣いではない。下駄箱にあった「ようこそ」という紙が途端に嘘くさく思えていた。

 塚田が口にした「ここに」にしても「いつまで」にしても、それだけでは何について言っているのかまるで分らない。前後の会話の流れに加え、お互いの立場や環境についてまで考慮しなければ、望む答えは返せないだろう。

「塚田先生が知りたいのは、私がいつまでこの学校で特別支援教育補助ボランティアの活動をするか、ということですか?」

 対して小川は、省略することなく正確な言葉で塚田の真意を確かめた。少なからず舌足らずなことを指摘する意図を含んでの言葉だったが、どうやらそこまでは塚田に伝わらなかったようだ。

「そうですよ。いつまで?」

 繰り返される質問に対し、小川は聞かれたことにだけ答えることにした。

「必要とされればいつまででも。私自身は期間を決めていません」

 小川のようなボランティアの人間が必要かどうかは、校長の意見をもとに教育委員会が決定する。海叶に補助は必要ないと判断されれば、その時点で小川の仕事は奪われる。

 しかし、年度途中でそういう事態になることは、予算がキッチリ組まれている学校ではまずあり得ない。

「そうですか。去年も何人か来てもらったんですよ。だけど、誰も一か月以上もたなくて。皆さん今年いっぱいは働きますって言ってたんだけどね」

 下らない。小川は笑顔を浮かべたままで塚田の話を聞いていた。

「大変な活動のようですね」

「きっと小川先生が想像されているよりは」

「そう思うのならさっさと俺がやるべきことを説明しろ」と言いたくなったが、小川はそれを飲み込んだ。相手は自分よりも十歳近く年下の世間知らずだ。小川にとって塚田は、仕事以外では関わりたくないタイプの人間だった。

 話さないのならそれでも構わないと、小川は考えていた。余計な先入観を持たずに接した方が、相手が子供だろうが大人だろうがお互いの信頼関係を築くのには良い場合が多い。それに、大まかな内容は校長から聞いている。毎月結果が求められる営業マンとして、一般企業に雇われたわけではない。子供がこれから何年もかけて、自立した大人になってゆく手伝いをするだけだ。

 焦る必要はどこにもないと、小川はのんびり構えることにした。

 小川の主治医からも何度となく言われている言葉だ。

「焦るな」

 胸に手を置いて呟いた小川のその言葉は、チャイムにかき消されて塚田の耳には届かなかった。

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