ファーストコンタクト

1

「今日から塚田先生と一緒に、みんなと勉強する小川先生です」

 黒板の前に、昨年度から持ち上がりの担任だけでなく、教頭と見知らぬ男が立つ光景は、子供たちにとってさぞかし興味深かったに違いない。一人を除いて全員が小川に注目している。

「海叶! ちゃんと聞きなさい!」

 その一人に向けて、塚田が名指しで注意した。廊下側の一番後ろの席。三十一人のクラスの中で、そのひとつの机だけがどの列にも属さず、「気に入らなければいつでも教室の外に出てもいい」という免罪符を与えられているように小川には見えた。

 そして、海叶は早速その行動に出た。無言で立ち上がると、そのまま教室を出て行ってしまった。

「塚田先生、海叶君が出て行きましたが……いいんですか?」

 小川が、海叶を止めるでもなく黙って見送った塚田に聞くと、塚田は胸ポケットに刺していたボールペンを手に取り、それで自分の頭を掻いた。

「教頭先生、お願いしていいですか?」

 教頭の方を見ずにそう言った塚田は、一時間目の授業の準備を始めた。

「ええどうぞ。小川先生、行きましょうか」

 担任の塚田や教頭だけではない。クラスメイトも、海叶が教室から出て行ったことなどまるで気に止めていない様子だった。

 小川は、塚田にではなく子供たちに向かって軽くお辞儀をしたあと、のんびりと教室から出て行く教頭の後を追った。教室後部のドアから出て右に向かった海叶に対し、教頭は前部のドアから出ると左に向かった。

「海叶君が教室を抜け出すのはよくあることなんですね?」

 先程の教室内の雰囲気と、考えることなく左に向かって歩き出した教頭に、小川はそう確信していた。

「そうですね。入学当初からのことらしいです。私がここに赴任してきたのは二年前ですけど、一日一回は必ず抜け出しているみたいですね」

「それで、授業の邪魔にならないように、机はあの場所というわけですか」

 小川の言葉に、教頭は突き出た腹を揺らして短く笑った。

「その通りです。中々鋭いですね」

 笑うようなことは何ひとつ言っていない。小川は面白くなかった。この学校は何かが麻痺している。そう感じていた。

「海叶君はいつも決まった所に行っているんですか?」

 小川がすぐに返答を求めているのを分かっていながら、教頭は「ええ」「そうですね」と、具体的な返答を先に伸ばして廊下を歩いていた。そして階段に差し掛かり、踊り場の窓の前で教頭は足を止め、校舎裏の山を指さした。

「あそこ。丸太の階段は見えますか?」

 校舎と来客用駐車場を挟んだ反対側。コンクリート擁壁ようへきの一角が、山へと入る階段になっていて、さらにそこから続く山道は、土に丸太が埋め込まれた階段になっている。その道がどこまで続いているのか、上の方は生い茂った樹木で確認することはできない。

「ええ、見えます。あの道はどこに繋がっているんですか?」

 小川がその道を見つけてそう尋ねると、教頭は再び歩き始めた。

「ちょっとした展望台みたいになっています。あの山の反対側が見渡せる。雨が降っていない時は、海叶はだいたいそこに」

 その教頭の言葉通り、昇降口から出てきた海叶が、山道に入ってゆく姿が見えた。

「敷地外に出ることは?」

「それはないですね。一度もありません」

 これまでなかったからといって、今後も起こらないとは限らない。毎年同じ授業を繰り返す大人と違って、子供たちは毎日、毎時間新しいことに触れ続けている。そんなことは小川よりも教頭の方が何倍も身に染みて分かっているだろうに、そこに危機感がまるで見られないことに小川は呆れていた。

 小川がこの学校に足を踏み入れて一時間足らず。まだ外部の人間の意識が多く残っている今だから粗が目立つだけで、やがて全てが普通のことに見えてくるのだろうか。控えめな段差の階段をひとつずつ降りながら、小川は呪文のようにつぶやき続けた。

「悪しきに慣れるな……。悪しきに慣れるな……」

 声に出しはしない。細い息にだけ込めたその祈りに似た決心は、掠れる風になって小川の口元だけに舞った。

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