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 四月。小川ゆうの姿は、昨年暮れに訪れた学校とは別の小学校の校長室にあった。

「シャブ中……ですか」

 小川は校長から渡された資料に目を通しながら、対面した校長の言葉を抑揚なく繰り返した。

 小川自身、社会への復帰は五年ぶりだ。年齢は三十四歳。短く清潔感のある髪型に、柔和な笑顔に覗く白い歯。好青年の見本のような男だった。

 一月に本多経由で教育委員会へ提出された履歴書には、五年前の前職である民間企業を退職した理由については当然ながら何も書かれていない。小川が特別支援教育補助ボランティアの登録を望んだ理由としては「子供たちが平等に明るい未来を掴む手伝いがしたい」と控えめな文字で書かれていた。

 ボランティアとはいえども、無償ではない。一時間当たり九二〇円の謝礼が支払われる。だが、それだけだ。交通費も出なければ、保険もない。一週間二十時間以内、年間で七百時間程度と勤務時間も定められている。生活するには少なすぎる金額だ。したがって、働き盛りの男性がこのボランティアをするケースは稀だった。

「それで、主にこの子にはどんな問題があるのでしょうか?」

 小川に問われて、校長は小川がどういう人生を送って来たのかという憶測に使っていた思考を止め、今回小川に見てもらうことになった新四年生の増田かいについての説明を続けた。

「おかしな話だと感じられるかもしれませんが、先月その子の母親が逮捕されて、去年よりも少し落ち着いてきたんです。とは言っても山田と谷口、特にこの二人には相変わらずちょっかいを出しています。小川先生にはその点を一番注意して見てもらわないといけないと思っています」

 小川は「先生」と呼ばれることに違和感を覚えたが、学校で働く以上慣れなければならないとも認識している。

「中毒ってことは再犯ですか……。それじゃあ実刑でしょうね」

「そうですね。裁判はまだですけど、二年ぐらいじゃないかという話です。その間海叶は母親のお姉さんの所に。担任の話では、海叶はその伯母さんが怖いようで。それで少し大人しくなったみたいですけどね、難しい時期ですから油断はできません」

 小川が本多から紹介してもらった時に聞いた話とは随分違っていた。子供を見守る程度の仕事だと軽く説明を受けていたが、当初の想像よりも気を使いそうな仕事だと感じていた。

 校長がその小川の表情に現れた不安を読み取ってか、笑顔を浮かべて口を開いた。

「最初のうちは教頭にもサポートしてもらいますから。心配されるようなことはないですよ。ギャングエイジといっても、それなりに大人の話も聞きますから」

「ギャングエイジ?」

「こっちのギャングじゃないですよ」

 校長はそう言いながら、両手でピストルの形を作って上下に軽く動かした。それを見た小川は眉間に皺を寄せ、少し視線を外した。予想外の小川の反応に、校長がひとつ咳払いをする。

「えっと、この場合のギャングっていうのは集団という意味です。ギャングエイジっていうのは三年生、四年生を指して言うんですが、児童生徒同士でグループができ始める時期なんです。友達関係が密になっていって、親離れの第一段階というか……。大人に隠し事をするようになったり、友達同士の約束を優先させたりね」

「ああ、そういうことですか。分かりました」

 小川が頷いたのを見て、校長は自分の両膝を軽く叩いて立ち上がった。

「それじゃあ明日からよろしくお願いします。職員朝会は八時二十分からですので。……これ、良かったらどうぞ」

 校長はそう言って一冊の本を小川に差し出した。「ADHD教育マニュアル」と表紙に味気ない文字で書かれたその本を、小川は一度も開くことはないだろうと思いながらも手に取った。

「ありがとうございます」

 何に対しての感謝の言葉なのか。ただ反射的に返したその言葉であっても、小川の顔にはそれらしい笑顔が貼り付けられていた。

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