会議は踊る、されど進まず。
…という言葉を、読者の皆様方はご存じだろうか。
もともとは1814年のウィーン会議の様子を風刺した言葉だが、今ではしらない人のほうが少ないレベルのありふれた言葉になっている。
ただ、ありきたりで陳腐な表現というのは、それゆえに芯を食っているため馬鹿にできない。
以前、とある人から「人間は日々獲得することで成長している(超要約)」という話を聞いた。言葉を獲得する赤子から始まり、子供から大人に成長するに至って社会性などの様々なものを獲得していく。そうして、我々は日々成長しているのだ、と。
この人間が“獲得”することにより成長していくという考え方は、正にヘーゲルの哲学、“弁証法”と一致する。
ヘーゲルは今自分が持っている主張=テーゼと、それに矛盾する新たな反論=アンチテーゼとを統合することで、2つの主張を組み合わせた新たな結論=シンジテーゼを獲得できるとし、このシンジテーゼを得る一連の流れを“弁証法”と名付けた。
これを今回の話に当てはめてみると、今持っている主張とは別の反論を“獲得”し、組み合わせた新たな結論を“獲得”するという言いかえができるというわけだ。
ヘーゲルは、この弁証法に、その果てにたどり着くだろう“絶対精神”という概念を見出した。
この世に存在するすべて、人やモノ、歴史すらも、この“絶対精神”にむけて弁証法を繰り返していると、ヘーゲルは説いたのだ。
弁証法に反論したとて、弁証法という主張に反論し、それを糧に新たな結論が生まれるという、正に弁証法に他ならない現象が起きてしまうので、実質弁証法に反論はできない。
ただ、“絶対精神”という存在が確認できていない以上、この理論が正確であると言うことはできても、人類にとって意味ある理論であるとは限らない。
そもそも、我々は成長しているのだろうか。確かに個人という単位で、私たちは弁証法により成長している。だが、もう少しだけ広い目でみたとき、人類という単位で我々を見たとき、我々は成長しているのか。
確かに昔と比べ世の中は便利になった。戦争も規模を小さくし、数を減らした。だが、それでも戦争は情報戦へと姿を変え、過去から今に受け継がれた。どれだけ技術が進歩し、新たな理論が持ち出されても、人々の争いの歴史は、闘争心という人間の本質は変わっていない。
闘争心の消失そのものが人類の成長というわけではない。だが、分別できる理性を持たぬ我々は、過去と今を切り離せない我々は、ヘーゲルから見た人類は、本当に成長しているのだろうか。
ただ一つ言えることは、今日も、我々は議論を続けるだろうということだけだ。
果たして結論が出るのかという疑問は…誰にもわからないだろう。
もしくは、それについての議論でも始めてみようか?
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