第21話 だから好きなんです
小さなアパートだったが、案外古くはなかった。部屋の中は高校生の一人暮らしにしては広く、ダイニングとリビング、そして寝室があった。必要最低限のものは置いてあるものの、とても生活感があるとは言えなかった。ダイチは、自分の部屋と似ていると思った。
「何にします? お酒?」
「おい」
「冗談ですよ」
ミナトはグラスを二つ取り出し、麦茶を注いだ。
「先生、もう戻れませんね」
麦茶の容器を冷蔵庫にしまったミナトは、ダイチの隣に腰掛けた。
「ああ」
「僕の言うことなんて、みんな話半分で信じないでしょう。どうして、簡単に脅しに乗ってくれたんです?」
そこまで見抜いていたのか。少年の観察眼に、ダイチは素直に感心した。
「どうでもよくなった」
これでも、本心をオブラートに包んで言葉にしている。意識しても抜けない癖になっていた。
「そこまで知っているなら、俺がどういう人間か知っているだろう。俺には自分がわからない。欲望の矛先も、希望の感じ方も、どうして死にたくならないのかも」
「死にたくないのは、人間として当然の感情ではないですか」
「ミナトは、俺を人間だと思うのか」
ミナトは、少し笑った。
「いいえ」
清々しいくらいの即答だった。
「普通を普通にやれる人は、人間ではありませんね」
「どういう意味だ」
「ここで言う人間というのは、僕の愛する人間像のことです。欲に塗れ、成功者を妬む人たちの人生が好きなんです。普通というのは、一般的に努力しなければ手に入りません。だから皆、普通になるために苦労するものなんです。少なくとも、僕の考える人間はそうです」
「それでは、俺はなんだ」
「あなたのは、苦労ではなく選択でしょう。そこに欲望はない。だから好きなんです。とっても変だから好きなんです。あなたは僕と同じです。生まれた頃からずっと、人間ではない何かです」
ミナトはダイチの体にもたれかかった。
「先生は、これからどうするつもりなんですか?」
心なしか、声も甘ったるい。
「生徒の家に上がり込んだことを自首する」
「自首?」
「そうだ」
「それでどうするんです?」
「何も考えなくていいところへ行く」
「生徒の家に上がったくらいじゃ無理でしょう。僕は先生が悪意を持っていないことをちゃんと証言しますよ」
「知っている。だからどうすればいいか今考えている」
細い指が、ダイチの首筋をなぞった。
「強姦しますか。殺しますか」
ダイチはぴくりとも動かない。
屈強な体に身を預けていたミナトが、するりと体勢を変える。二本の腕がダイチを捕えるように巻き付く。
「最低です」
言っていることと、行動が合っていない。ミナトは恍惚とした表情でダイチに抱きついていた。恐ろしいことを口にするダイチを怖がることもしなかった。
「自分の人生のためにメグミさんを利用し、親友を裏切り、何食わぬ顔をして社会に溶け込んだ。そうしてすり減らされたあなたの精神が悲鳴をあげ、僕の言葉で破裂した。そして僕をどうにかしようとしている。逃げるためではない、もう考えるのをやめるために。その癖死ぬ勇気はない。一体どんな風に調合を間違えれば先生のような人間が生まれてくるんですか。あなたはあなたの母親から生まれたけれど、きっと作ったのは神様だ。そうでもないと説明がつかない」
「神様が俺を作ったなら、どうしてこんな欠陥品ができるんだ」
「きっと退屈なんでしょう。イレギュラーがいるだけで物語は面白くなる」
「そうか。俺がいるから物語は普通でなくなるのか。では、俺がいなければ普通に戻るんだな」
「あ」
手のひらがダイチの胸辺りを撫でている。
「心臓、速くなった。自暴自棄になってる」
まるで、夏休みの自由研究で育てているカブトムシを観察しているかのような無邪気さ。
「俺が自分で死ねないなら、ミナトが殺してくれてもいい。俺が襲うふりをするから、ミナトは抵抗したと装って俺を殺す。それでいい」
「本気で言ってます?」
「ダメか?」
「ううん」
ミナトはダイチから離れた。少年の顔が、疲弊しきったダイチの顔をまっすぐに見つめている。
「気持ち悪い人」
ストレートな罵倒を投げられたというのに、ダイチは怒るどころか無視をした。相槌の一つだろう、程度の認識しかできない。
「死んで救われることなんてありませんよ。逃げてるだけだから」
「逃げて全て無かったことにできるのならそれもいい」
「今まで積み上げてきたものを全て投げ出してでも?」
「俺は俺の為に何も積み上げてこなかった。だからもうどうでもいいんだ」
自暴自棄になっている、というミナトの指摘は正しかった。ダイチは既に理性を失っていた。人間として最低限の常識と行動を守り実行するために必要なものを、今まで無理やり起動させてなんとかやり過ごしてきた。けれどもうそれすらできない。ミナトに現実を直視させられてしまった。忘れようとしていた過去をほじくり返された。
ショウタと決別した時点で、ダイチは死ぬべきだったのだ。
人間らしさを与えてくれるかもしれなかった初恋の相手に拒絶され、希死念慮に支配されそうになった瞬間、ダイチは本能から生きる選択をした。つまり、現実から逃げた。欠陥品として生まれた自分は誰からも受け入れられない。だから、全てを偽って生きるしかない現実から逃げた。醜い生存本能。
「やっぱり、僕はあなたが好きだ」
ミナトはダイチの手を取り、肉親に感謝を告げるような、照れくさそうな表情をして確かにそう言った。
最初の補習授業で言われたのと同じセリフだ。
「あなたの人生を一番側で見ていたい。空っぽのまま年齢を重ね、何もないまま大人になったあなたのこれからと、僕は共に生きたい」
一体、ミナトは何を聞いていたのだろうか。
寄り添いたいと思うような部分を見せた覚えはないし、ダイチがミナトに特別何かを与えたわけでもない。独りよがりで自分の事情を最優先にする辺り、彼は自分と似ている、とダイチは思った。
「そう思える人を、ずっと探していました」
ダイチはミナトの細い体を見て、少し力強く殴れば折れてしまいそうだと思った。本人もそれを理解していながら話を続けるのだから、よっぽど肝が据わっているか、もしくはダイチと同じように、自暴自棄になっているのかもしれなかった。
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