第20話 罪悪感


「なんだかお腹が空きましたね。ファミレスかどこか寄りませんか?」


 辺りは暗くなり始めていた。制服姿のミナトはダイチにぴったり歩調を合わせながらも、前を向いたまま楽しそうにしている。


「僕と先生が一緒にご飯食べてたら、怪しまれますかね。少し遠くへ行けば大丈夫かなあ」


 知り合いにでも見つからない限り、怪しい関係には見えないだろう。ミナトより二回りほど年上ではあるものの、親子か親戚だと説明すればほとんどの人は納得するはずだ。

 もし誰かから質問されれば、ダイチは迷わずそう答えるだろう。そう答えることをミナトに強制されているようなものだ。


「遅くなったら、親御さんが心配するんじゃないのか」


 白々しいセリフで間を繋ぐ。他に何を言えばいいのかわからなかった。


「それは大丈夫です。心配しないでください」


 ミナトはさりげなくダイチの腕に自分の細い腕を絡ませようとした。それはいけないと注意する前に、反射的にダイチは彼の接触を拒むように振り払った。


「先生と一緒にいたいんです」


 照れも恥じらいもまるでなかった。


「先生もそうでしょう。僕から聞きたい話がたくさんあるはずです」


 学校から逃げるように出てきて、もう三十分は経過している。その間、二人はあてもなく歩き続けていた。




 夕食どきのファミレスは混雑していて、もう数席しか空きがなかった。家族で来ている客や時間を忘れてお喋りに没頭する学生の話し声で店内はとても賑やかだった。

 一時期、全自動のロボットが店員の仕事を全て肩代わりし、人間は仕事を奪われるかもしれないと危惧されていた時期もあったようだが、いつのまにかそんな話は立ち消えてしまった。タッチパネルで注文したりロボットが食事を運んでくることはあるものの、大体の仕事は未だに人間が担当している。

 店員に人数を告げるとき、ダイチは少なからず緊張していた。しかし忙しさでいちいち人を見ている余裕などないのか、店員はロボットのように事務的な笑顔を浮かべながら二人を席へ案内した。ミナトもまた手慣れた笑顔で店員に礼をいい、それに倣ってダイチも軽く頭を下げた。


「うーん、何にしようかな。今日はたくさん勉強したからお腹が空いているし、どれも美味しそうに見えますね」


 メニューの写真を眺めつつ、文字は読んでいない様子でページを捲る。ダイチは一番最初のページを開いたままで、他のページを見ようとも思わなかった。


「橄原」

「ミナトでいいですよ」

「そう言うわけにはいかない」

「みんな自分のことに夢中で、誰も僕たちのことなんて見ていません」


 ミナトはあるページで手を止め、色鮮やかな料理をまじまじと眺めている。


「ここに食事をしにきたのか。それとも、話をしにきたのか。どっちだ」

「両方ですよ」


 ミナトはページの右上の方を指差した。


「これにします。先生は?」


 長い指が、デミグラスソースがかかったオムライスの写真を指していた。


「……これにする」

「ああ、一番人気のやつ」


 ダイチは自分の指先を見て、使い込まれた大人の手だなと思った。どことなく乾燥していて、色も黒ずんでいる。関節には皺が寄っていて、利便性を最優先に手入れされた爪は深爪気味だ。


「先生らしいですね」


 ミナトの美しい指先とは比べ物にならない。しかし、この美少年はそんなことお構いなしにダイチに笑いかける。今も心なしか、先生らしいという含みを持った言い回しが、なんとも嬉しそうに聞こえた。


「じゃあ僕、注文しちゃっていいですか」


 ダイチの返事を待たず注文ベルに手を伸ばすミナトを止めるような、食い気味な質問だった。


「メグミは元気か」


 一瞬動きを止めたが、すぐに再開してミナトは注文ベルを押した。


「まずはそれだけ教えてくれ」


 ベルというにはあまりに間抜けな柔らかい音の後、彼の中でも一際目立つ瞳が細められ、窓越しに暗くなった外を一瞥した。


「どういう状態を元気というか、それによりますね」


 それから、ダイチの反応を伺うように、視線がゆっくり移動した。


「先生、あなたはどうです? 自分を元気だと思いますか?」

「体のどこにも異常はない」

「身体が健康なら元気、という意味であれば、メグミさんは元気ですよ。配偶者と高校生の一人息子の世話ができるくらいには」


 そのとき、ミナトの背後から店員が歩いてくるのが見えた。

 ミナトは気配に気がつくとすぐさま顔を上げ、よそ行きの笑顔を作った。手元のメニュー表を開きながら、聞き取りやすい声で注文をして、最後にはにこりと愛想の良さまでちらつかせた。

 ミナトは余裕なのだ。ダイチと違って。

 店員がどこかへ歩き去っていくまでの間の、ミナトはよそ行きの笑顔のまま一言も喋らなかった。何を言っているか断片的にしか聞き取れない談笑がぼんやりと聞こえていた。


「メグミは幸せそうか」

「側から見れば。でも、実際はあまり。高校生の僕と不貞行為に走るぐらいですからね」

「俺のせいか」

「そう思います?」

「彼女の人生に大きな影響を与えてしまったことは自覚している。とても後悔している」

「後悔しているのは、メグミさんも同じですよ」

「俺と出会ったことを悔やんでいるか」

「そうではないです。あなたともっと一緒にいられる道を、今でも妄想しては悲しくなっているみたいですよ」

「まさか。だってメグミは、やるべきことをやれない俺と一緒にいるのが辛くなっていたはずなんだ」

「どうしたらそれができたか、どうすれば一緒に人生を歩めたか。ずっとそんなことを考えているんです。結婚して子供を産んだら、どんな子供が生まれてきたのか、とかね」

「子供が欲しかったのか。メグミは」

「子供が欲しかったというよりは、幸せな家庭を築きたかったみたいです。その期待が重くのしかかって、実際に生まれた子供は苦しい思いをしてるみたいですが」


 ミナトの言わんとしていることが嫌でもわかった。ダイチは初めから知っていた。だけど敢えて目を背けていた。


「セナは可哀想な子ですね、本当に」


 自分がセナを苦手なのは、性格が眩しいからではなく、彼が、メグミの実の息子であると、知っていたからだ。




 食事をしている間、ミナトはメグミの話を一切口にしなかった。ダイチがそれっぽい話題を振ってものらりくらりと交わし、学校でのくだらない出来事をラジオのようにすらすらと話していた。合間にスマホに届いた通知を確認したが、返信はしなかった。あまりに連続でスマホが振動するので、最終的には電源を切ってしまった。ダイチはスマートフォンを鬱陶しそうに睨む彼の冷たい瞳を見ながら、味のしない料理を口に運んだ。

 支払いを済ませ、外に出たミナトは上機嫌だった。


「じゃあ、帰りましょうか」


 聞きたい話を十分に聞けていないことが心残りだったが、解放されるならば素直に従うべきか。そして、教師として彼を家まで送っていくべきかと考える。


「一緒に。僕の家」


 けれど、彼曰くそれは必要ないらしい。


「それはできない」

「どうして?」

「俺は大人だ。橄原は」

「ミナト」

「……ミナトは子供だ。それに、親御さんだっているだろう」

「いないですよ。僕、一人暮らしなんで」

「一人暮らし?」

「誰にも言ってないですからね。僕が内緒で応募していたプロジェクトの試験結果を見た日、両親は泣きながら僕を責めました。どうしてそんなことをしたんだ。自分たちの今までの愛情はなんだったんだ。どして全てを捨てるような真似をするんだ」

「それで追い出されたのか」

「はい」

「……今からでも遅くない。然るべき機関に連絡して、それからお前の今後を考えよう。俺が協力するから。それは親としての責任を放棄しているとしか考えられない」

「もう、やめてくださいよ。今更遅いですって」


 ミナトは強引にダイチの手を引いた。


「何回言ったらわかるんですか。全部僕にはわかってます。無駄な抵抗をするのはやめましょう」


 ダイチにとっては無駄な抵抗なんかではなかった。これが最後のチャンスだと思っていた。

 夏の夜は蒸し暑かった。嫌な湿気が肌に張り付き、ミナトの自宅らしき場所へ向かう道は段々と寂れて街灯が減り、暗くなっていった。


「こんなことは間違っている」

「先生のしていることは正しい?」

「俺は正しいことしかしたくない」

「じゃあ、メグミさんを裏切ったのは?」


 壊れた機械が唸るような虫の声が聞こえる。


「俺が未熟だった。正しさを理解しきれていなかった。自己中心的すぎた」

「大好きな親友についていかなかったのは?」


 従順に動いていた足が、その場に張り付くかのように動くのをやめた。ミナトは引っ張られ、反動と共に振り返った。


「ショウタを知っているのか」


 心なしか早口になっていた。鼓動が速くなっている。期待でもあり、恐怖でもあった。


「会ったのか。あいつは、今どこで何をしてる」

「いいえ、会ってはないですよ。ショウタさん、もうこの世にはいないので」


 心臓が跳ねた。

 胸の中にじわりと広がっていくのはショックではなかった。

 安堵だった。


「先生が初めて教師として教卓に立った頃かな。自ら命を断ったそうです」


 立ち尽くすダイチの手を、ミナトは再び引いた。


「罪悪感、無くなりましたか」


 ダイチは再び、少年に連れられて歩き出した。

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