第003話 差異

—— 知らない匂いがした。


 魔物化と最適化、二重に強化された嗅覚が異物を捉える。

 そして、肉の焼ける匂いがしてゴブリンの臭いが消えた。


 それから何度も何度も、肉の焼ける匂いがするたびにゴブリンの臭いが消えていく。異物がゴブリンを消しているのは間違いない。それに、こちらに近付いてきているのも確かだ...。


 不意に熱風が吹き付けてきた。

 あと少しで異物は大部屋ここへ辿り着くだろう。


—— そして、通路から姿を見せたモノは背の高いゴブリンのような姿だった。


 その目は飛び出さんばかりに見開き、ギラギラと怪しい輝きを。

 その口元は孤を描き、荒い呼吸を繰り返す。

 全身に緑を纏い、その手には捻じれた長い棒。


—— その姿を侮った、経験が浅かった、飢餓に耐えられなかった。


 恐らくその全てだ。


 子狼が襲い掛かり、止める間もなく視界が赤く染められた。

 煙が晴れ視界が戻った時には、子狼の姿は何処にも見当たらなかった。

 鳴き声の一つも残さず消えていた。


—— ゴブリンを消していたのはこれか。


 警戒はしていたが見えなかった。

 さっきまでと違うのは、こちらに突きだした腕と長い棒。

 それが向けられた場所にがくる。


「大人しくするなら、そっちの黒いのも少しは長生きさせてやるぞ?」


 三日月のような口が何を言っているかは理解できないが、どう考えてもろくなことではない。あの老人ゴブリンは他のゴブリンエサとは違う、滅ぼすべき敵だ。

 背後に控える二匹に足を止めるなと警告を送り、一斉に、だが別方向に飛び出す。


 互いが直線に並ばぬよう回り込み、飛び、壁を蹴り ——

 —— 同胞二匹が同時に襲い掛かった。 右からは天井を蹴り、左からは地を這うように。

 そして、どちらが攻撃されても隙を付けるよう自身は背後から。


 った ――


 そう思った瞬間、閃光が走り同胞二人は視界から消えた。

 その視界に残ったのは、長い棒をこちらに向けた異質な老人ゴブリン


 自棄か、それとも一縷の望みに掛けたのか。

 面妖な術を発動される前にその爪牙を届かせんと最短距離で駆け抜け ——


 そして視界が真っ赤に染まり衝撃が襲った。


 —— 全身が燃えるように、だが生きている。

 理由は分からないが、まだ生きているなら —— ッ!!


 咄嗟に空中で体勢を変え、眼前に押し寄せる壁を全力で蹴り飛ばす ——

 —— もう後足は使い物にならないだろう、それが理解わかった。


 それでも勢いを殺さぬよう、まだ晴れぬ煙の中に突っ込む。この洞窟に移り住んでまだ日は浅いが…それでも、さっきの場所から動いていないのなら...ッ!


—— 確かに老人の魔法は恐るべきものだ。


 しかし、あくまでも研究者なのだ。魔力は研究と実験による成果で、ここまでの道程はその魔力に物を言わせたゴリ押し。自分の得意な魔法と、使い勝手の良い魔法を撃っているだけで、実戦経験と呼べるようなものは無い。


 冒険者ならば、その炎のような姿を見て炎への耐性も考慮しただろう。事実、老人の知識にはそう言った魔物の知識が大量に眠っていた。そう、文字通り ―― 。


—— 土壇場で明暗を分ける咄嗟の判断力、反応速度。

—— 自然に生き、常に命の危険に晒されてきたモノと老人では比べるべくもなかった。


 煙が晴れた時、その牙は老人ゴブリンの右手を捉え、肉を裂き骨を砕いていた。

 老人ゴブリンは叫び声を上げるが、その隙に首を、その命を狙い ——


 —— 体内をくように、何かが...。


「この駄犬がッッ!!」


 そう叫びながら老人が左手で放った雷魔法が、その身を貫く。杖を持っていなかった為、一撃で消し飛ぶことはなかったが、それでもその一撃はその身を蹂躙して余りある。


 地に落ちたところを蹴り飛ばされ、落ちた水たまりには血が広がっていく。


「糞ッ!まさか炎耐性とは...」

「忌々しい、わしに何かあればこの世界の大いなる損失に...」


 こちらをめ付ける老人ゴブリンが何を言ってるかは理解わからない。

 視界も不明瞭で、気を抜けば今にも意識が飛びそうだ。


「まぁいい、持ち帰ったら存分に実験礼をしてやろう...」

「今は右手の回復が...」


 だが、先程までの興奮が落ち着いた今。その鼻が何かを ——

 —— いつもかたわらにあった匂いがした。


—— 背後から予想だにしていなかった衝撃が襲った。

—— 馬鹿な、もう他には居なかったはず...。


 それは、全身にミミズが這ったような火傷を負っていた。

 全身がボロボロで、既に満身創痍で。それでもその眼が言っている。


—— オマエダケハ ユルサナイ ——


 それは地を這うように襲い掛かり、そして、閃光と共に姿を消した同胞だった。

 本来なら耐えることなど出来ず、もう一匹と共に跡形もなく消えていただろう。

 

 だが彼女は、閃光が、そのいかずちが走った瞬間、地に足を付けていた。そして雷は地に流れ、衝撃に吹き飛ばされながらも辛うじて生きていた。


 目の前で仲間が傷付けられている。今すぐ飛び出していきたい。

 逸る気持ちを必死に抑え、息を潜め、訪れるかもわからない隙を待った。

 この命が尽きるのが先かもしれない。そんな不安を抱きながら、それでも ——。

 その執念が、この瞬間を生み出した。


 脇腹に喰らい付き、飛び出した勢いに任せるまま、その全身全霊で仲間の元へ。

 もう意識は無く、その命も間もなく燃え尽きるだろう。


—— 後はよろしく

    そう言われた気がした。


—— 最期まで一緒に居られなくてごめんね

    俺もすぐに行くから、もう少しだけ待っててくれ ―― 心の中でそう返した。


 もう身体を動かすことも出来なかったが、最後の力を振り絞り、顔を上げて前を見る。


 仲間の勇士を、決して見逃したりしないように。

 そして、生涯最後になるであろう敵を、決して逃したりしないように。


—— 一塊になって倒れ込んでくるに向けて、彼はそのあぎとを広げた。


——————————

Tips:老人

 元は魔素研究所で魔素と魔力の関係について研究していた。魔物では飽き足らず、非人道的な実験を繰り返した為に除名された。人目を忍ぶよう僻地へと流れてきたが、流れ着いた先でも繰り返した末、王都で手配されるに至る。

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