第002話 妄執

「糞ッ、研究の価値も分からぬ愚物共めッ!!」


—— その老人が何かから隠れるように駆け込んで来たのは、まだ日が昇る前のことだった。


 肩で息をしながら真っ赤な顔に青筋を立て、憤りを隠しもしないその表情かおは、その白い髭では隠し切れぬ狂気をたたえている。


 現れたゴブリン歓迎を怒りに任せ跡形もなく燃やし尽くし、爆風にはためくローブの音に少し頭が冷えたのか、状況を整理し始めたらしい。

 考えが口に出るのはその老人の癖なのだろう ―― 。


「一体何処から漏れた、あそこは代官無能と小娘だけのはず...」

「ならば家人けにんか?いや、邪魔をしそうな奴は全て被検体に...」

「残っている奴らも金を掴ませた、それに今更善人ぶったところで...」

「小娘も実験を始めてからは外に出さないよう言いつけて...」

「衛兵の動きが思ったより…まさか王都からこんな僻地まで...」


「ちッ、今はこれ以上考えても仕方ない」

「ひとまずは奥か、誰か来ればゴブリン子鬼どもが騒ぐじゃろう」 


—— そう言いながら奥へと進む老人の背後には、煤けた地面が残されるだけだった。


「折角良い金蔓が見つかったというのに...」

「あの小娘は勿体無かったかの、あと数年もすれば...」

「実験の一環とでも言って味見すれば良かったか...」

「金蔓を探す時間も惜しいというのにまったく...」

「次の実験はもっとこう、いや、その為には...」


—— いつから歪んだのか。それとも、その始まりから既に歪んでいたのか。


 取り繕えぬ、取り繕おうともせぬ欲望と狂気を垂れ流しにするその姿に、警戒する様子など無い。そもそもゴブリン程度、警戒に値するとも思っていないのだろう。時折遭遇するゴブリンは杖を向けるだけでその姿を消してゆく。人間性は兎も角、その力は圧倒的であった。


「王都では目が厳しくなった所為でこんな僻地まで...」

「散々わしの研究の恩恵を受けておったくせに...」

「あのゴブリン子鬼を元に実験すれば魔法は飛躍的に発展を...」

「それにあの小娘も、もう少し時間があればもっと...」

「そうすれば王国の歴史には永遠にわしの名が...」


—— いつの間にかゴブリンは姿を見せなくなっていた。


 もし冒険者なら警戒して然るべき状況。だがそれに気付いている様子はない。

 尽きぬ愚痴と悪態を吐き出しながら、老人は変わらぬ足取りで大部屋へと踏み込んだ。


—— そこで待ちかまえていたのは狼の群れだった。


 スライムも、ゴブリンも、そもそも人間も、生き物とは往々おうおうにして環境に適応していくものだ。狼の魔物も図鑑を紐解けば両手で足りないくらい載っている。

 その老人にとっては図鑑など不要だ。魔素の研究の為に可能な限りの資料を取り寄せ、知りうる限りの魔物を調べたのだから。


 狼の魔物で知らぬものなど存在しないと、興味を失って久しかった。

 だがそれは間違いだった。突如として目の前に現れたその姿に目を奪われた。


 欲しい観察したい —— 欲しい解剖したい ——— 欲しい実験したい ———— 欲しい研究したい —————


 相手は所詮魔物だ、人道だなんだと喚く馬鹿も居まい。

 希少性がどうした、だからこそ研究するのだ。


 抱いていた怒りは、初めて見る魔物を前に霧散した。

 を研究すれば、更なる高みに昇れるのではないかと夢想した。

 自分を追放した愚物共に、目に物を見せる様を想像した。


—— 燃え盛るような威容を前に、その眼はギラギラと怪しい輝きを放っていた。


——————————

Tips:衛兵

 領主、または代官の名の元に治安を維持するための兵士。その質は治める者によってバラつきが大きく、町によってはろくな装備が無かったり、そもそも衛兵が不正・汚職していることすらある。王都の衛兵は各領地の衛兵への指揮権を持つ。

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