第9話

「よ~しイル、無事だな~」


 窓から入った途端に切られたのだ。蜂が私を刺す暇などないだろう。むしろ近づいてさえいない。

 だけれど王太子殿下は、私を抱き上げて確認をすれば、そのまま頬を摺り寄せる。

 ……これ、ただもふもふしたいだけ?

 呆れ果てて、為されるがままに身を委ねていれば、側近が入室してきて、書類の束を王太子殿下の机に置いた。


「例のご令嬢に関しての報告です」


 ドキッと、心臓が跳ね上がる。

 思い出すのは師匠の所に居た時の事。王太子殿下は賢者の所に居た娘を調べろと命令を下していた。

 あれから、しっかり施錠をし、王太子殿下の行動は師匠がしっかり把握してくれていて、会う事はなかったのだけれど……。


「そうか」


 私を抱いたまま、自分の机へ戻って書類の確認を始める王太子殿下。私は……既に逃げ出すどころか身動き1つできない。緊張で身体が固まったようだ。けれど、震えているのは分かる。

 震えを止めようにも止められなくて、王太子殿下にバレないように、なんて密かに願う。いっそ身体の震えを止める魔法具でも作れば良かったと思ってしまう。……今更だ。

 だけれど、王太子殿下は私の背中をゆっくりと、そして優しく撫でるだけで、私に声をかける事もない。いつもと同じように、いつものように……優しく、優しく、撫でるだけ。

 ……特に何も言わない事は優しさなのかもしれない。

 ……書類に夢中なのかもしれないけれど。

 真意は分からないけれど、ただ私的には助かっている。あまり人との付き合いがないから分からなかったけれど、言葉がなくとも、こうしているだけで与えられる安心感もあるのかと。


「ティルトン伯爵家のご令嬢か……何だ、この噂は」


 だけれど、その安心感も、王太子殿下の声で終わった。思わず毛が逆立つ。


「噂はあくまで噂です」

「こんな噂が流れている事が理解できない」


 お?

 王太子殿下の言葉に耳が動く。側近も、私の噂を真実だとは思っていないだろう、淡々としている。それどころか、王太子殿下は眉を寄せ、嫌悪の表情まで滲ませている。


「これを美談だと思っている貴族が多数居るという事ですね。政略結婚の意味も分からないのでしょう」

「使えない愚かな貴族など必要ないな。しかし……ティルトン伯は何を考えているのか……」


 かなりの悪役令嬢であると言う噂を一蹴する二人に、私はポカンと口を開けて凝視した。

 確かに、私が受けた教育でも貴族同士の繋がりだとか、政略結婚で強固にするだとか、政治バランスを保つとかあった。……あったけれど、実際は全て書物での知識で、夜会や茶会に出た事もないので、派閥や勢力もよく理解していないけれど。

 ただ、二人の様子を見る限り、私はそこまで蔑まれる事ではないのだと……敵対しない人も居るのだと安堵する。それでも刷り込まれた恐怖は拭い去る事が出来ないし、私を悪とする人は大勢いるだろう。


「……令嬢は実に優秀なようだね」


 ポツリと王太子殿下が零した言葉に、何故か毛が逆立ち、思考が一気に吹き飛んだ。

 嬉しいのか、それとも何かを企んでいるのか。よく分からない表情と、上がった口角。側近を見れば溜息をついていて、私は猫の姿で魔法具が作れないか模索する事も視野に入れた。






 結局、師匠の所で王太子殿下と出くわす事もなかったけれど、人の手が必要な時以外は猫の姿で居た。……と言っても、猫の手では細かい作業が出来ない為、9割以上は人の姿なのだから意味はないようなものなのだけれど、少しでも自分に対する安心感を得る為だ。

 だけれど、この王太子殿下。色んな意味で私の不安をあおる事をしてくれる。

 それは舞踏会シーズン開始となる王城での舞踏会開催日の前日。


「舞踏会はイルをエスコートする」


 執務室で休憩している時、そんな事を言い出した王太子殿下に対して、側近はまたかと言わんばかりに呆れたけれど、従者は多少なりとも慌てた表情だ。そりゃそうだろう。誰が猫をエスコートすると思うのだ。常識的に考えろと言いたい。


「お前も行くよな」

「……にゃぁ」

「イルも行きたいそうだ! これは決定事項だ!」


 不満の声をあげたのだけれど、王太子殿下は自分の都合良く解釈した。それに対して、顔を覆って下を向く従者に、頭を抑える側近。うん、確かにここまで来ると、ただの猫馬鹿王太子殿下にしか見えないと思う。

 思わず王太子殿下の手から逃れ、私は地面へ着地すると、机の下に潜り込んだ。……人前に出るなんて嫌だ。流石に舞踏会で石は投げられないだろうけど、嫌なもんは嫌だ。


「……流石に猫を連れていくのはどうかと。だいたい、王太子殿下には婚約者が居られないのですから、積極的にご令嬢達との交流を……」

「だからこそだ!」


 頭が痛いと言わんばかりの表情で側近が苦言を呈せば、王太子殿下は目を見開いて叫んだ。


「イルを抱えていればダンスも出来ない! 令嬢達への牽制にもなるからな」


 にこやかに語る王太子殿下。側近は肩を落として深いため息を吐いた。

 ……うん、猫を道具に使うな?私をそんな面倒な事に利用しないで?

 机の下から睨みつけるように王太子殿下を見ているが、猫の姿で威圧なんてないだろう。それどころか睨んでいる事すら気が付いてもらえない。


「……早く婚約者を決めて下されば問題ないのでは?」

「優秀な令嬢が居ないからな」


 困った顔で苦言を呈する従者に対し、サラリとかわすように王太子殿下は言い放った。

 ……言われてみれば、王太子殿下なのに婚約者が居ない。幼い頃に高位貴族と婚約を結ばれていてもおかしくない筈なのに。

 年齢の釣り合う高位貴族が居なかった?

 政治バランスを考えて、ちょうど良い家がなかった?

 優秀な令嬢と言う事は、王太子妃教育を学べるだけの令嬢が居ないのか?

 所詮、書物の中だけで学んだ事では、予想すら出来ない。情報は常に変わるもので、そんな内情までは書物に書かれる事はない。




 ◇




 「さすがイル! 可愛いなぁ~!」


 舞踏会当日。私は令嬢でもないのに、朝から侍女達の手で入念にお風呂へと入れられた。

 ふわっふわになった毛は、少し香油を垂らしたからか良い匂いが香る。そして首には新しく購入したのだろう、可愛らしく豪華な首輪が飾られたのだ。

 ……猫はアクセサリーではない。

 そんな事を思って入るが、いくら侍女に施されたと言っても、朝からの準備に私は疲労困憊状態だ。何も抵抗する事なく、ぐったりと王太子殿下の腕の中に居る。


(もういっそ寝たい……いや、駄目だ)


 国中の貴族達が集まっているという事は、反王太子派も揃っていると言う事だ。流石に舞踏会の真っただ中に何かをしてくるとは思えないが、貴族達の顔と名前に疎い私としては、顔を見る事が出来る絶好の機会とも言える。


(名前だけは師匠に教えてもらっておいたしね……)


 護衛するにあたり、師匠に反王太子派だと思われる人物の名前だけはしっかり教えてもらって、頭に入れてはある。王太子殿下の元へ挨拶に来る時、その顔を拝めるというわけだ。……まぁ、離れなければ、だけれど。

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