アルトゥール視点 光から逃げる

『はっ、はっ……』

 自分の息切れの声がする。

 その間を、フクロウが縫うように鳴いていた。

 今日は満月だったが、森の木々が月を隠していた。その暗闇の中を、ひたすら走る。

 枝がムチのように、頬をはたく。足元はぬかるんでいるのか、パシャパシャと何かが飛んでいた。

 

 光がない道を歩くのは、怖かった。

 けれど、光のある方はもっと怖かった。

 自分がどこにいるのか、相手にバレてしまうからだ。

 

 逃げろ、逃げろ、逃げろ。

 より暗い闇へ、より深い闇へ。

 けれど、どれだけ遠くに逃げようとしても、こびりつくような女性の泣き声がする。

 


『お願い、――! どこにも行かないで、――!』


 僕を縛り付ける、その女性が呼んでいるのは。

 僕の名前ではなく、父の名前だった。



 ■□▪▫■□▫▪■□▪▫■□▫▪■□▪▫■□▫▪



「……トゥール! アルトゥールってば!

 ブラウ分隊長!!」


 誰かが僕の肩を揺らした。

 顔を上げると、そこには心配そうに顔をのぞき込む部下のリンがいた。

 辺りを見渡すと、そこは森ではなくて、代わり映えない自分の執務室だった。

 

「仮眠をとるのはいいけど、せめて横になってよ。全然顔色良くなってないよ」


 晴れた星空を思わせるような黒い髪に、僕より色のある黄色の肌。

 初めてリンを見た時、あの子みたいだと思った。

 ……あの子って、誰だっけ。

 

「……すまない」


 机から体を起こし、僕は立ち上がる。


「最近、少しは顔色良くなったと思ったのに、また酷くなったね」

「……そうか?」

「うわ、無自覚」


 胃が痛い、とリンがしかめっ面をする。


「ヒナもエドもすごく心配してるんだからね。ちゃんとご飯食べて、ちゃんと寝てよ」

「……ああ」


 ここ三年、食べることも寝ることも億劫で、つい後回しにしてしまう。

 姿見を見ると、日があまり入らない執務室では、ただでさえ青白い顔が更に青く見えた。

 ……これは、よくないな。ヒトを心配させてしまう。

 ただ、どうすればいいのか、自分でもよく分からない。食事はまだいいが、元々睡眠を必要としない身体で、早くに寝床に入っても夜中に目が覚めてしまうのだ。

【黒い森】で、睡眠薬をもらいに行こうか。



『いやセロトニンが足りないんだよ! ほら、これ! 乳酸菌はメラトニンも作ってくれるから!』


 

 誰かが、そう言って白い液体を渡してきた。

 真っ白い液体は牛乳のようで、ヨーグルトのように酸味と甘みがあって、ソーダで割ってあったから口の中で弾けた。

『どうしてヨーグルトじゃないんだい?』

 僕が聞くと、彼女は渋い顔をして、『私が好きじゃない』と答えた。


「……ヨーグルト食べるか」

「え?」

「いや、なんでもない」


 行こうか、と僕は言った。








 王都フォフスタッドは、モクムとは違い、巨大な壁に囲まれた街だ。

 それは単なる物理的な城壁ではなく、聖力による結界で守られた壁である。元々教会の一部であり、王都を囲むように天に伸びる槍のような尖塔があちこち見えた。

 旧市街は趣があるが、その分細い道も多くて、治安が悪い。いくらリンが強くても、女性一人で歩かせたくはなかった。

 ましてや、今は。

 

「……やっぱり、バラバラ殺があってから、魔族たちが外に出なくなったね」


 沈痛な面差しで、リンがうつむく。

 リンが言う通り、フォフスタッドの旧市街では、人間族の遺体がバラバラになって運河から見つかる事件があった。

 そして、その事件を引き起こしたのが魔族なのではないか、と噂が流れ始めたのだ。

 その魔族には、「黒い髪・黒い肌」の人間族も含まれる。

 何かあればすぐに疑いをかけられるのが、被差別民だった。気を抜けば、ヘイトスピーチや嫌がらせ、あるいは標的にされ暴力を振るわれる。

 だが彼らは、それを悪意とは認識していない。なんなら、政治を担うものが「魔族は治安を悪化させる」と積極的に発言し、差別感情と恐怖を煽っている。

 かつて魔族が人間に行った虐殺の記憶は、いまだに強く残っている。それに王都の魔族は、モクムの魔族と違い、貧困層が多い。職を探して、遠方からやって来るものも多いからだ。――だから王都の人間族は、『魔族』はいつも犯罪をおかしている、と認識し、ヘイトスピーチを繰り返す議員を支持することも多い。

 彼らにとって『魔族』とは、犯罪者予備軍のことなのだ。



「そんなヒトたちばっかじゃないんだけどねー」


 どっちもさ。

 困ったように、リンが笑う。

 

「どんな組織に所属しててもさ、多分、数としては少ないんだよね。でも、目の前で一人にヘイトされたら、その後ろにどれぐらいのヒトが控えているんだろうって思ったら、怖いよね……」


 リンはそう言って、アンバー色の目を伏せる。

 ――それは、ひたすら犯罪者と決めつけられ、差別されたヒトの言葉だった。

 黒い髪を持つことで、彼女はどんな目に遭ってきたんだろう。


『黒い魔物が来たぞ! 呪われる前に、石投げて逃げろ!』


 ……あの子は、『黒い魔族が来たぞ』を聞いて、どれだけ傷ついていたのだろう。


「あれ?」


 突然、リンが声を上げた。「あの子……」

 白と赤茶色のレンガが積まれた街並みに、黒い髪の少女が歩いていた。

 スーツのような青い上着を身につけ、それとお揃いのベレー帽をかぶっていた。プリーツスカートは膝丈までで、黒いタイツを履いている。

 そして恐らく、地元の人間ではないのだろう。あちこちをフラフラと歩いている。危なっかしい。


「ちょっと声をかけてくるわね」


 リンがそう言った時、強い風が吹いた。


「きゃっ!」


 少女が声を上げる。

「っと」

 白い帽子が、こちらに飛んでくる。僕は反射的に跳んで、その帽子を掴んだ。

 ナイスキャッチ、とリンの声がすかさず飛んでくる。



「どうぞ、ミス……」


 と、声をかけようとして、僕は言葉を失った。

 少女が、帽子を追いかけてこちらを見る。少女の胸元では、赤いリボンと三つ編みにした黒い髪が揺れていた。

 ――きらきらと、晴れた星空のような瞳が、僕を射る。


 その目を見た時、僕の身体の中で、堰を切ったように記憶が溢れ出した。

 

 光で、目の前がチカチカする。

 灰色だった世界が、急に色づくような、空気にまで淡い色がついたような気がした。

 急に肺が軽くなる。何かに縛られていたように固まっていた血液が、指の先まで届いていく。

 勝手に、僕の体は動いていた。


「モルゲ、」


 ン。

 その名前を呼ぼうとした時。



「ほわぁぁぁぁぁぁぁ――――!?」



 彼女が奇声を上げながら、僕の鳩尾に突っ込んできたのだった。

 そのまま、石畳の上に寝そべる。彼女の体重が、温度とともにそのままかかった。



「やあ久しぶりだねアルトゥールくんはっはっは! 私の名前はアサ・ヒナタだよ元気そうでなによりー!!」

 


 意識が完全に遠のくまで、彼女がまくし立てているのを聞いていた。

 ――なんというか、相変わらずだなと思った。

 


 

 

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