アルトゥール視点 光から逃げる
『はっ、はっ……』
自分の息切れの声がする。
その間を、フクロウが縫うように鳴いていた。
今日は満月だったが、森の木々が月を隠していた。その暗闇の中を、ひたすら走る。
枝がムチのように、頬をはたく。足元はぬかるんでいるのか、パシャパシャと何かが飛んでいた。
光がない道を歩くのは、怖かった。
けれど、光のある方はもっと怖かった。
自分がどこにいるのか、相手にバレてしまうからだ。
逃げろ、逃げろ、逃げろ。
より暗い闇へ、より深い闇へ。
けれど、どれだけ遠くに逃げようとしても、こびりつくような女性の泣き声がする。
『お願い、――! どこにも行かないで、――!』
僕を縛り付ける、その女性が呼んでいるのは。
僕の名前ではなく、父の名前だった。
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「……トゥール! アルトゥールってば!
ブラウ分隊長!!」
誰かが僕の肩を揺らした。
顔を上げると、そこには心配そうに顔をのぞき込む部下のリンがいた。
辺りを見渡すと、そこは森ではなくて、代わり映えない自分の執務室だった。
「仮眠をとるのはいいけど、せめて横になってよ。全然顔色良くなってないよ」
晴れた星空を思わせるような黒い髪に、僕より色のある黄色の肌。
初めてリンを見た時、あの子みたいだと思った。
……あの子って、誰だっけ。
「……すまない」
机から体を起こし、僕は立ち上がる。
「最近、少しは顔色良くなったと思ったのに、また酷くなったね」
「……そうか?」
「うわ、無自覚」
胃が痛い、とリンがしかめっ面をする。
「ヒナもエドもすごく心配してるんだからね。ちゃんとご飯食べて、ちゃんと寝てよ」
「……ああ」
ここ三年、食べることも寝ることも億劫で、つい後回しにしてしまう。
姿見を見ると、日があまり入らない執務室では、ただでさえ青白い顔が更に青く見えた。
……これは、よくないな。ヒトを心配させてしまう。
ただ、どうすればいいのか、自分でもよく分からない。食事はまだいいが、元々睡眠を必要としない身体で、早くに寝床に入っても夜中に目が覚めてしまうのだ。
【黒い森】で、睡眠薬をもらいに行こうか。
『いやセロトニンが足りないんだよ! ほら、これ! 乳酸菌はメラトニンも作ってくれるから!』
誰かが、そう言って白い液体を渡してきた。
真っ白い液体は牛乳のようで、ヨーグルトのように酸味と甘みがあって、ソーダで割ってあったから口の中で弾けた。
『どうしてヨーグルトじゃないんだい?』
僕が聞くと、彼女は渋い顔をして、『私が好きじゃない』と答えた。
「……ヨーグルト食べるか」
「え?」
「いや、なんでもない」
行こうか、と僕は言った。
王都フォフスタッドは、モクムとは違い、巨大な壁に囲まれた街だ。
それは単なる物理的な城壁ではなく、聖力による結界で守られた壁である。元々教会の一部であり、王都を囲むように天に伸びる槍のような尖塔があちこち見えた。
旧市街は趣があるが、その分細い道も多くて、治安が悪い。いくらリンが強くても、女性一人で歩かせたくはなかった。
ましてや、今は。
「……やっぱり、バラバラ殺
沈痛な面差しで、リンがうつむく。
リンが言う通り、フォフスタッドの旧市街では、人間族の遺体がバラバラになって運河から見つかる事件があった。
そして、その事件を引き起こしたのが魔族なのではないか、と噂が流れ始めたのだ。
その魔族には、「黒い髪・黒い肌」の人間族も含まれる。
何かあればすぐに疑いをかけられるのが、被差別民だった。気を抜けば、ヘイトスピーチや嫌がらせ、あるいは標的にされ暴力を振るわれる。
だが彼らは、それを悪意とは認識していない。なんなら、政治を担うものが「魔族は治安を悪化させる」と積極的に発言し、差別感情と恐怖を煽っている。
かつて魔族が人間に行った虐殺の記憶は、いまだに強く残っている。それに王都の魔族は、モクムの魔族と違い、貧困層が多い。職を探して、遠方からやって来るものも多いからだ。――だから王都の人間族は、『魔族』はいつも犯罪をおかしている、と認識し、ヘイトスピーチを繰り返す議員を支持することも多い。
彼らにとって『魔族』とは、犯罪者予備軍のことなのだ。
「そんなヒトたちばっかじゃないんだけどねー」
どっちもさ。
困ったように、リンが笑う。
「どんな組織に所属しててもさ、多分、数としては少ないんだよね。でも、目の前で一人にヘイトされたら、その後ろにどれぐらいのヒトが控えているんだろうって思ったら、怖いよね……」
リンはそう言って、アンバー色の目を伏せる。
――それは、ひたすら犯罪者と決めつけられ、差別されたヒトの言葉だった。
黒い髪を持つことで、彼女はどんな目に遭ってきたんだろう。
『黒い魔物が来たぞ! 呪われる前に、石投げて逃げろ!』
……あの子は、『黒い魔族が来たぞ』を聞いて、どれだけ傷ついていたのだろう。
「あれ?」
突然、リンが声を上げた。「あの子……」
白と赤茶色のレンガが積まれた街並みに、黒い髪の少女が歩いていた。
スーツのような青い上着を身につけ、それとお揃いのベレー帽をかぶっていた。プリーツスカートは膝丈までで、黒いタイツを履いている。
そして恐らく、地元の人間ではないのだろう。あちこちをフラフラと歩いている。危なっかしい。
「ちょっと声をかけてくるわね」
リンがそう言った時、強い風が吹いた。
「きゃっ!」
少女が声を上げる。
「っと」
白い帽子が、こちらに飛んでくる。僕は反射的に跳んで、その帽子を掴んだ。
ナイスキャッチ、とリンの声がすかさず飛んでくる。
「どうぞ、ミス……」
と、声をかけようとして、僕は言葉を失った。
少女が、帽子を追いかけてこちらを見る。少女の胸元では、赤いリボンと三つ編みにした黒い髪が揺れていた。
――きらきらと、晴れた星空のような瞳が、僕を射る。
その目を見た時、僕の身体の中で、堰を切ったように記憶が溢れ出した。
光で、目の前がチカチカする。
灰色だった世界が、急に色づくような、空気にまで淡い色がついたような気がした。
急に肺が軽くなる。何かに縛られていたように固まっていた血液が、指の先まで届いていく。
勝手に、僕の体は動いていた。
「モルゲ、」
ン。
その名前を呼ぼうとした時。
「ほわぁぁぁぁぁぁぁ――――!?」
彼女が奇声を上げながら、僕の鳩尾に突っ込んできたのだった。
そのまま、石畳の上に寝そべる。彼女の体重が、温度とともにそのままかかった。
「やあ久しぶりだねアルトゥールくんはっはっは! 私の名前はアサ・ヒナタだよ元気そうでなによりー!!」
意識が完全に遠のくまで、彼女がまくし立てているのを聞いていた。
――なんというか、相変わらずだなと思った。
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