第10話 首相の吸血鬼
しかし、吸血鬼かあ。なつかしい。
「私も一人、吸血鬼の知り合いいるんだよね」
『月の光を吸い込んだ髪』と表現された金の髪に、あどけなさといたずらっぽさを備えた瞳を思い出す。
そう言うと、へえ、とエレインは興味ありげに相槌した。
「私の知ってる吸血鬼も、見事な金髪だったな」
「あ、そうなんだ」
幼心に、とても美しく、そして自由を体現した人だと思った。
白いエンパイアドレスの裾を羽のように広げて、トン、と軽く跳んだだけで、月の光をなぞるように、夜空をどこまでも駆けて行けそうな。
私が魔法で金髪にしているのも、彼女への憧れがある。
「お偉いさんだし、生活習慣の違いもあって、もう十年近く会ってないけど」
短い時間とは言え、とても可愛がってもらったなあ。なつかしい。
あちらは忙しいだろうけど、今度
一次発酵が終わって箱から取り出すと、生地は膨れ上がっていた。
指でつつくと、生地は少しだけへこむ。
「うん、いい感じ」
ボウルから取り出して、打ち粉した台の上でひっくり返す。
「じゃあ軽く、ガス抜きします~」
そう言って、優しく生地を伸ばしていくと、エレインがボソッとつぶやいた。
「……前、パンを作る時ガス抜きって言って、バンバン叩きつけてなかったっけ」
『力こそパワー!』って当たり前のことを叫びながら、トゥールの腕力を借りてなかった?
エレインに言われて、私は苦笑いする。
「あー……それ、あんま良くなかったみたい。ガス抜きすぎたら、パン膨らまなくなるし」
マーサさんに言われたんだよね。
そしてよく考えたら、膨らませるために発酵させるのに、炭酸ガスなくなったら膨らまなくなるよね。
……なんでこんな当たり前のこと、人に言われるまで気づかなかったんだろ、私。自分のバカっぷりに虚無になりそう。
ガス抜きを終えたあと、生地はしばらく放置。その間に、型にバターを塗る。
エレインが小さな型を手に取っている間、私は両手で持てる大きさの陶器を持ってきた。
帽子のような形をしているそれは、ピンクブラウン色の下地に、緑の葉や赤い花で彩られたもので、ひっくり返すと中はドーナツの型のようになっている。クグロフ型だ。
「ブリオッシュもいいけど、クグロフもいいよね~」
「でも、レーズンもアーモンドもないじゃん」
「いいんだよ、この型で焼いたものがクグロフなんだから」
「まあそうだけど……なんか味気なくない?」
エレインがそう言うので、私はしばらく考える。
「じゃあ、これどうだろ」
と言って、取り出したのは、小さな茶色の筒。
パカ、と開けると、香ばしい香りがした。
「紅茶パウダー。マーサさんから貰ったやつ、粉にしたんだよね」
そう言って、生地に粉を振りかけてこねる。
……レシピ通りにせず、イレギュラーなことをするから、素人は失敗するんだろうなあ。
やってしまってから後悔したけど、時すでに遅し。あとは成功を祈るしかない。
一方、エレインはこんなことを尋ねてきた。
「この家って、ホイップクリームとかある?」
「あるよ。なに? マリトッツォ?」
私がそう言うと、正解、とエレインが答える。
「よくわかったね」
「それ教えたの、私じゃん。他の地域はホイップクリームを使わないらしいし」
私にとって、マリトッツォはホイップクリームをはさんだブリオッシュだけど、人間領では別にブリオッシュじゃなくてもいいらしく、挟むものはレーズンとか砂糖漬けしたドライフルーツらしい。
というか、人間領ではそうホイホイホイップクリームは作れないんだとか。ホイップクリームなのに。
人間領には、撹拌させる技術がない。アルトゥールくん曰く、魔王城と人間領では、技術の差が二百年ほど違うのだと言う。
……あ、今ちょっと気になること思い出した。
「マリトッツォって人間領だと、下ネタ的な意味になったりする?」
「は?」
「いや、昔マリトッツォをアルトゥールくんにあげた時、すごく挙動不審だったから……」
アルトゥールくんは肌が白いから、照れるとすぐ顔が真っ赤になる。
「…………ああ、あれね」
エレインが遠い目をする。
「ほら、お菓子って、『修道女のおっぱい』ってつけられた名前とか、形を模したものあるじゃん。シーセ・デッレ・モナケとかマミーニャシュ・デ・ノヴィッサとか」
「ああ……うん」
「そんな意図はなくても、そう見えちゃうこともあるだろうし」
こないだ通りすがりのオッサンが、『ブリオッシュ・ア・テッドの形は乳頭にしか見えない』って開店準備してたアビゲイルちゃんに言って、マーサさんにしばかれてたんだよね。
と言うと、
「それはお菓子の問題というより性的な用語を使って若い女の子に嫌がらせをするクソなオッサンだ●●(自主規制)」
すごい、高速詠唱より早口で聞き取れなかった。多分セクハラだという意味だと思うけど。
「いや、マリトッツォにそういう意味は無い……けど……」
「けど?」
「……モルゲン、マリトッツォの語源と起源って知ってる?」
「え? 知らない」
ご先祖さまの故郷で当時流行っていたお菓子だということしか知らない。
私がそう言うと、「うん……まあ、自分で調べて……」とエレインが頭を抱えていた。
「私が勝手に話すのは、トゥールに悪いし」
「? わかった」
セクハラになってなかったならいいや。今度図書館にでも行って調べよう。
「……モルゲン、なんで今さらバター伸ばしてるん?」
エレインに指摘された通り、私は麺棒を使ってバターを伸ばしていた。
「え? クロワッサン作るつもりだけど」
「ブリオッシュどこ行った?」
うん、実は私もそう思った。何やってんだ私。
なんで私、真っ直ぐゴールを目指さないんだろうね。今からクロワッサンなんて、めちゃくちゃ時間かかるって言うのに。
「……手伝うよ」
「やったあ」
エレインのそういうとこ、ホント好き。
無茶苦茶時間かかった。
クロワッサンの生地を畳むために、『冷蔵の箱』に入れたり出したり。何これ、なんの儀式。お供えか。
最終的には、エレインのゴーレムにお世話になった。ゴーレムってすごいね。あんなに疲れる生地伸ばしもサクサクやれるなんて。
「あとは二次発酵して、焼くだけだね」
「こりゃ、最終便には間に合わないだろうな……」
すっかり日が暮れた空を見て、エレインがつぶやく。
「じゃあ、うちに泊まれば?」
「え、いいの?」
「部屋なら余ってるし。ユリアも喜ぶと思うよ」
そのために、まずはご飯だ。
と言っても、パン作りに夢中で、なんも考えないけど。
階段をおりながらそういう私に、「ユリア誘って、外でご飯食べるとか?」とエレインが提案する。
基本外に出たがらないユリアだけど、エレインもいるし、今日はおめかしもしている。外食するには、いい日かも。
と思った時。
「困ります!」
ユリアの声が聞こえてきた。
「ユリア、どうしたの?」
ユリアがあんな感情的な声を出すなんて、厄介なお客さんでも来たんだろうか。
ヤバいお客さんなら、ユリアを守らないと。心の中で思いつつ、相手を逆なでさせないように、つとめて落ち着いた声で尋ねながら、店へ繋がるドアを開ける。
ユリアが視線だけ私の方を向いて、唇をむにむに動かしている。
対してそのお客さんは、ご飯の心配もなく夕暮れまで駆け回る子どものように笑っていた。
そして――その客人の顔を、私は知っていた。
「リリス首相!?」
いたずらが成功して嬉しい子どものように、彼女は笑みを浮かべていた。
アルテミシア・リリス。
『月の光を吸い込んだ髪』と表現された短い髪に、あどけない赤い瞳が印象的な彼女は、見るものに王族のような印象を与えるだろう。
記憶の中では、彼女は白いエンパイアドレスを着ていた。けれど今の彼女は、軍士官の制服を思わせるような、大きなボタンが二列に並ぶツイード生地のドレスに、ドレスと同じ生地の肩掛けケープを羽織っている。胸元と腰は太い共布ベルトで留められていて、ケープの下から覗く胸の大きさと腰の細さを強調していた。
何よりふわりと広がった膝丈のスカートと、脚の線を出した黒いタイツ、くるぶしより丈の短いブーツは、足の細さと身軽さを演出している。ひょい、とどこまでも跳んで行きそうで、エンパイアドレスの時より彼女らしかった。
「もー、やだ。首相なんて。昔みたいに、リリスちゃんって呼んでよ~」
「あ、はい……って、なんでうちに!?」
リリス首相は、吸血鬼族だ。
魔族において、吸血鬼族は支配者階級の一つ。ただ、魔族の支配者階級と言っても、血筋で代々選ばれるわけじゃない。
魔族の世界は実力主義。強いものが成り上がる思想であり、弱いものは強いものを選び従う。当然、魔王の選出も強いものが選ばれる。
「王」と言うけど、実態は大統領。魔族領は、大統領と行政府で回す半大統領制を採用している。――それは置いておいて。
私の後ろから、エレインが呆気にとられたようにつぶやいた。
「……アルテミシア?」
「あ、やっほー、エレイン」
ひらひらと、リリス首相がエレインに手を振る。
……もしかして。
「エレインが言ってた吸血鬼族の友だちって、リリス首相なの!?」
「……逆にこのヒト、首相だったの?」
エレインが戸惑った顔で尋ねる。ユリアが悲鳴じみた声で、「逆にご存知なかったんですか!? 勇者パーティのメンバーなのに!?」と驚いていた。
いや、でも確かに、パーティ組んでる時は、会わなかったな。基本このヒト、昼は寝ているし。吸血鬼族だから。
「エレインがこっちに来てるって聞いて、私初めて、こんな時間に人間領に来ちゃった!」
てへ、と舌を出すリリス首相。
「ついでに、
そっちがついでなの?
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