第5話

 そんなものだから、美智子の病気の告知を受けたとき、私は自分の座っている椅子の下に大きな穴ができたのだと、本気で思った。


 だって、そうでもないかぎり診察室の椅子から滑り落ちて立てなくなることがあるなんて、誰が思えるだろうか。


 当の本人はというと「やっぱりね」と言っただけで椅子の上でけろりとしていた。

 その顔には年齢相応の皺が刻まれていたが、驚いたり不安を感じる様子はやはりなかった。


 いや待て。

 待ってくれ。

 ここにおいて「やっぱりね」はない。癌だぞ。しかも末期、ステージⅣだ。

 火曜サスペンス劇場の犯人が思ってた通りだったとか、変な匂いがすると思ったら牛乳の賞味期限が切れていたとか、そういう次元の話ではない。


 病室にドッキリ番組のカメラがないことや今日が4月1日でないことを確認したり、医師に「このやぶ医者!」と掴みかかる自分を想像したりしている間に、気付けば私は妻に引っ張られるようにして病院の待合いに戻ってきていた。


 この辺りで一番大きな市民病院の椅子に腰が抜けたみたいに座ると、どこまでも尻が沈み込んでいくみたいで、受付から名前を呼ばれても立ち上がる気力なんて微塵も起きなかった。

 目に入ってくる景色にまるで現実味がない。


「さ、帰りますよ。いつまでそこに座っているつもりですか」

 支払いを済ませた美智子が私の前に立った。


「え……。ああ、そう……。そうだな」

 こんな田舎に住んでいるというのに美智子は免許を持ってない。

 運転するのは昔も今も私だった。


 果たして今の自分はちゃんと運転なんてできるのだろうか。

 そんな私の気を知ってか知らずか、美智子はさっさと駐車場の車に戻ってしまい、私がたどり着いた時にはとすでに助手席に座っていた。


「帰りにスーパーに寄ってくださいな。今夜は鍋にでもしましょう」

「……あぁ、わかった」


 ぎこちなく頷きはしたものの、もうちょっとぐらい受け止める時間というものがあってもいいのではなかろうか、と思う。

 この言葉にもできない不安や絶望をわからないわけではないだろうに。


 半ば諦めにも似た気持ちで鍵を回すと、年老いたクリーム色の軽自動車が立てるエンジンの振動が身体に伝わってくる。


「そりゃあね、私だって嫌ですよ。この世ともう少しでお別れなんて。でも……」

「めったなことを言うな。まだわからないだろう」


 たまらず美智子の話を遮った。


「わかりますよ」


 医師がそう言ったからとか、病気がこうだからとか、そういう理由ではない。


「わかるんです」


 落ち着いた口調で再びそう言った美智子は、ふっとため息を吐いてから「でもね」とさっきの続きを口にした。


「私は自分の人生がこれっぽっちもダメだったとか、残念だったなんて思っていないですよ。私は良い旦那にも友達にも恵まれたと思っています。子どもだって2人とも1人前になってますし。人間いつかは向こう側に行くんですから。嫌ですよ、そんな顔して。私、もう76ですよ? ふふふ、早死で憐れまれるような年齢でもないでしょう?」


 年上の私と比べれば、美智子はまだまだ生きるべき人間だとも思ったが、何も返せなかった。

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