第2話

 ――あれは、なんなんだ。

 夢だったのか。

 そもそも喋る鳥なんかいない。

 いや、喋る鳥はいるが、それは人間の声を真似しているに過ぎない。

 それじゃあれはなんなんだ。

 百歩譲ってあれが鳥だったとして、どうして鳥の背中からコウモリのような羽が生える事態になるんだ。そして、尾羽から蛇が生えてくるんだ。目の錯覚なのか。いや目だけじゃなく耳もか。仕事のしすぎでとうとうおかしくなったのか――。

 そこまで考えて、ハッと目を覚ます。

 普段と同じように、ゴミの積もったソファの上だった。

 軋む体を起こすと、カーテンの向こうから朝日が見えている。朝だ。

「……しまった」

 現状を理解し、勢いよく起きる。

 昨日の記憶が、帰ってきた瞬間から途切れている。仕事に行かねばならない。慌ててスーツをいつものようにソファの背から取ろうとして、そこに何もないことに気付いた。ソファの背を確認して立ち上がる。ずるっと自分から滑り落ちる毛布に、二度驚いた。

「あ、しょういちさん、おはようございます!」

 キッチンの方から声がした。

「のあっ!?」

 突然の声に驚いてキッチンを見る。

「さしでがましいとおもったのですが、あさごはん、つくりました。かおをあらってきてください!」

 そこにいたのは、やっぱり白くて、クッションのようにまん丸な、つぶらな瞳をした何かだった。たぶん鳥だ。鳥だというのだから鳥なんだろう。

 キッチンからは味噌汁の匂いがしてくる。味噌汁なんてどれくらいぶりだろう。

「い、いや、僕は……」

 だが味噌汁の匂いを嗅いでいると、昨日の夜から何も食べていないことを思い出した。それに足元にもゴミが溜まっていたはずだと床を見ると、かろうじて歩けるくらいのスペースが空いていることに気付いた。そこには本来、脱ぎ捨てて踏まれたはずの古いスーツやペットボトルが散乱していたはずだ。

「こ、これは……、きみが?」

「はい! とおれますか?」

「ああ……。……そ、そういえば、スーツは……!」

「そこのかべです!」

 壁のフックから、ハンガーにかけられた上着がぶら下がっていた。どこからハンガーを見つけてきたのだろう。かといって昔はここにはコルクボードがあったのだが、一度外したきりすっかり行方不明になっているのだから、別に不思議なことではない。ハンガーだって存在した。清見は顔を洗って戻ってくると、床の上を歩いてテーブルに座った。

 湯気の立つ温かな白米と味噌汁は空きっ腹に染み渡った。まともに朝食をとることなどどのくらいぶりだろう。

「……おいしい」

「よかったです!」

 小さな瞳がにっこりと笑う。

 鳥の概念ががらがらと崩れていく。

「そ、それより、きみは一体……なんなんだ?」

「わたしは、ニワトリのたまこです!」

「それは聞いた。そうじゃなくて、ええと、まず僕の父とどういう関係なんだ!?」

 関係というのもおかしいが、そう尋ねるしかない。

「いちろうさんですか。ぐるじあのやまのなかで、いちろうさんがまよっていたところを、わたしがたすけまして……」

 ――本当に何をしてるんだ一体!?

「そこからおはなしをして、そのながれで、けっこんできないむすこさんがしんぱいだと……」

 ――心配なのはお前だ!

 心の中でピースサインをする父の姿に、心の底からの言葉を投げつける。

 だが、もはやどこから突っ込んでいいのかわからない話だった。

「わたしはニワトリなので、およめさんにはなれないのですが、おてつだいならできるかとおもいまして!」

「そんな話、真に受けなくても良かったんだが……!」

 そもそもまずどうやって空港を通過してきたのか。検閲は仕事をしているのか。

「でもわたし、ひとにひつようとされたのがはじめてで……」

 いじいじと自分の翼を弄る。

 明らかに腕ではないのだが、指先のように器用に曲がっている。

 その様子を、ゆらゆらと蛇が見ている。シュールだった。

「……」

 言うべきことが見当たらずに妙な空気が流れた。

 だが、ハッとする。時計が視界に入ったからだ。もうそろそろ仕事に行く時間だった。悠長にしている暇はない。慌てて立ち上がる。

「と、とにかく帰ってきてからまた話をしよう。僕は仕事に行ってくる!」

 ソファにスーツを取りに行こうとして、そこには無いことに気付いた。キョロキョロとあたりを見て、やっと壁のスーツを手に取って、勢いよく着た。着替えていないがなんとかなるだろう。鞄をひったくるようにして玄関まで行こうとすると、自称ニワトリのたまこさんが追いかけてきた。

「まってください!」

「な、なんだ?」

「これ、おべんとう、つくったんです。どうぞ!」

「……」

 清見は目を丸くして、白い翼から差し出された包みを見た。

「だいじょうぶです! ちゃんとたまごやからあげもはいってます! わたし、ニワトリですけど。ニワトリですけど!」

 たまこさんと一緒に、シッポの蛇までもがそう言いたげにキリッとした表情をしていた。


 それから――清見とたまこさんの奇妙な生活がスタートした。

 まず清見が驚いたのは、みるみるうちに家の中が綺麗に清掃されていったことだ。帰るたびに、少しずつ増えていたゴミが減り、代わりに床の面積が増えていった。すっかりぐしゃぐしゃになったマットが見えてきたとき、そのあまりの汚れように驚いたものだ。

 さすがにゴミ袋はたまこさんばかりに持たせるわけにはいかないと、清見はいっぱいになったゴミ袋を指定された曜日の朝にマンションの収集所まで運んだ。清見もできるだけ要らないものと要るものを分けておき、必要なものは自分でなんとかすることにした。

 椅子にのぼり、あの白い翼を器用に使っておたまを持つ様子は、現実が突き崩されるような気分になる。しかしそれよりもずっと早く、たまこさんはいつの間にかすっかりこの町に馴染んでしまった。

 隣人にたまこさんを見られた時はドキリとしたが、「こんにちは」と普通に声をかけていた。

 ――僕が知らなかっただけで、こういう生きものは普通にいるのか……?

 そんなことすら思うようになった。


 そして食事もおいしい。

 どこから仕入れているのかと思ったが、普通に近所のスーパーで買い物をしているというから驚きだ。作れないものは惣菜として買ってきているのもあり、普段の自分の食事よりずっとマシになった。

 お弁当も美味しかった。

 珍しく自分のデスクで弁当を広げる清見を、物珍しそうに同僚が見ていくこともある。

「清見、最近ずっと弁当だなあ。彼女でも出来たのか?」

 たまこさんの事をどう説明したらいいのだろう。白くて丸いニワトリが作ってくれているといったら、何かおかしくなったと思われないだろうか。

「はは。それならいいんだけどな」

 たまこさんは、いったいなんなんだろうか。

 あのもふんもふんとしたかたまりがちょこちょこと歩いているのを見ると、ついうっかり触りたくなってしまう。

 ――そもそも、鳥だからといって勝手に触っていいのか……!?

 ダメだろう、という自分の倫理と戦いながら、清見は唸った。


 二週間もすると、久々にベッドの上から物がすべて取り払われていた。何かこぼしたのか、布団カバーがダメになっていたので眠ることはできなかったが、久しぶりに見る自分の寝室に感動さえした。

「久しぶりに自分のベッドを見た!」

「からだをやすめるには、じぶんのベッドがないとねえ」

「……そういえばたまこさんは、どこで寝ているんだ?」

「わたし?」

 そう言うと、たまこさんは少し恥ずかしそうに目を逸らした。

「あの、もうしわけないのですけど、あそこに……」

 たまこさんが示した方向を見ると、真ん中が凹んだ藁の塊があった。たまこさんのものと思われる羽毛がくっついていた。たまこさんはそれを拾い上げて、慌ててゴミ箱の中に捨てていた。人間でいうなら、髪の毛が一本落ちていた、という感覚なのだろうか。

「……いや、こちらが逆に申し訳ないくらいだ」

「ええっ、そうですか?」

「うん。部屋まで綺麗にしてもらった上に、家事までしてもらって。僕はそういうのはまったくダメだから。すごいよ、たまこさんは」

「そんなことをいわれると、てれてしまいます」

 たまこさんが自分の翼で目を覆った。蛇も羽に頭を突っ込んでいた。

「部屋がこんな風だったから、恋人すら出来なくて――、人を呼ぶのも恥ずかしかったから」

 ちらりと段ボールの山を見る。

「洗濯だって、汚れたら買い換えることしかしてこなかった」

 通販は便利だが、おかげでほとんど貯蓄が無い。汚れたらそのたびに服を買い換えて着ていたからだ。こんな生活がずっと続くわけがないと知っていたが、どうしようもなかった。

 相手が人間じゃないからだろうか。

「しょういちさんは、じぶんのよわいところをちゃんとみとめられて、えらいですねえ」

 たまこさんは、にこにこと笑っていた。

 自分は完璧な人間ではなかったと、認められた気がした。

「えらいから、わたしのはねをもふもふしてもいいですよ!」

 そう言って、胸を――胸なのかわからないところを――張った。

「えっ。もふもふって……」

「わたしをだっこすると、いいかんじになります!」

 たまこさん、ぱたぱたと背中のコウモリの羽を動かして飛んできた。もふん、と羽が顔を覆った。細かい羽毛がもふもふした。

「……!」

 まさに肌触りのいいクッションそのものだった。抱き心地までいい。衝撃だった。いや、クッションよりいいかもしれない。

 もふもふ。

 もふもふ。

 もふもふもふもふ。

「どうですか!」

「……はい」

 清見はたまこさんに悟られないように、なんでもないふりをした。

 確かに、もふもふだった。


 一ヶ月も続く頃には、清見はすっかりこの生活に慣れきっていた。

「清見君、最近少し余裕が出てきたかね」

「は……、余裕、ですか」

 廊下でにこにこした橋田部長に言われると、きょとんとしてしまった。

「きみは仕事ができるから心配ないと思ってたけどね、ちょっと空気というかなあ。雰囲気が良くなったよ。それとも、彼女でもできたかい?」

「ははは、そんなんじゃないですよ、部長」

 清見は少しだけ笑ってみせた。

 橋田部長に軽く手を振ると、廊下を歩く。雰囲気が良くなった、と言われて悪い気はしなかった。それに最近は風呂にもちゃんと入れるようになった。たまこさんがお風呂を沸かしてくれているおかげだった。本当に頭があがらない。

「午後からはNさんと会うんだったな……。早めに昼休憩にしておくか」

 今日の弁当はなんだろうと、廊下を歩く。

「清見課長」

 そこへ不意に呼び止められ、足を止めた。

「山崎君、何か急用かい?」

「お昼なので、一緒にどうかと思ったんですけど……、最近ずっとお弁当なんですね」

「ん? ああ、そうだな」

「でもそのお弁当、いつも一緒じゃないですか?」

 確かに彩りはいつも同じだ。けれども作る方も大変だろう。清見は自炊なんか学生の頃にすっかり諦めきってしまっていたので、料理が作れるというだけでありがたいものだった。

「たまには私が作ってきましょうか」

「いや、大丈夫だよ。そんなに負担はかけられないから」

「ふうん。優しいんですね」

「そういうわけでもないんだけどね……。おっと、午後からも用事があってね。急いで昼休憩をとるところなんだ。じゃあ、また」

 清見は軽く手をあげて挨拶代わりにすると、自分の部署に戻った。

 デスクでコンビニ弁当を広げているもの、とっくに昼飯を終わらせてゲームをしているもの、会社に置いているカップ麺を作って食べているもの。昼休憩の時間まで仕事を終わらせようとしているもの。清見は自分のデスクに戻ろうとして、杉本の後ろを通り過ぎた。杉本はおにぎり片手にスマホを見ていた。どうやらゲームをしているらしい。ちらりと冷たい目で見ようとして、その画面に釘付けになる。足をとめ、ゲーム画面を覗き込んでしまう。

 杉本はといえば、突然覗き込んできた清見を見ると、驚いたように肩を跳ねさせた。

「うおっ。なんだよ!」

 びっくりしたぁ、と続ける同僚を横目に、清見はスマホのゲーム画面に視線を向けていた。

「杉本、これ……」

 清見は、画面に映し出されている鳥のモンスターを指さした。

 ニワトリのような胴体だが、翼の先は赤や緑といった派手な色。しかしその尾羽からは緑色の凶悪な顔をした蛇が、シッポのように巻き付いて、前にいるキャラクターを見ている。

 たまこさんとは似ても似つかない。

 だが、その造形は似ていた。

「なんだ、お前もこういうのに興味あるのか。意外だなあ」

「いや、鳥が……」

 なんと説明するか少しだけ迷う。

「この、シッポが蛇になっている鳥は、なんなんだ?」

「何って、モンスターだからこんな風なんだよ。コカトリス」

「コカトリス?」

 杉本はますます意外だという顔をした。

「体がニワトリ、尾羽が蛇になってる、伝承上のモンスターだよ。どこの伝承だったかなあ、とにかくヨーロッパのどこかだよ。……目を見られると石化する伝説があって、このゲームでも石化させられるんだ」

 黙りこくったままの清見を見て、杉本は首を傾げた。

「しかし、なんで急に?」

 尋ねられると、清見はハッとした。

「あ、ああ、いや、ほら、先方と話すときに、話題がたくさんあったほうがいいだろう。だけど私はこういうのに疎くてな」

「へえ。勉強熱心だな」

 納得はしてくれたのだろう。清見は適当にもごもごと言って自分の席に戻った。

 ――コカトリス、か……。

 たまこさんがニワトリかと言われると絶対に違う。

 けれども、あのイラストにあったようなモンスターかと言われると、それもまた違った。たまこさんが何者であれ、支えてくれているのには違いない。

 息を吐いてから、鞄の中に入れっぱなしになっている弁当箱に目をやった。きれいに布でくるまれ、ちょこんと座り込んでいる。それはまるで、たまこさんのようだった。いつもの二重の弁当箱だ。

「……ん?」

 取り出そうとしたところで、不意の違和感を覚えた。

 こんなに鞄は開いていただろうか。

 弁当の包みも、貰ったときより少し緩い気がする。

 いや、どちらかというと、結び方が違うというべきか。

 だが中を開いてみると、上の段はおかずが、そして下の段には白飯が。普段通り、弁当用の冷凍食品と、たまこさんの手作り料理が両方、彩り豊かに使われた弁当が現れた。見てみても、いつもと同じだった。

 ――気のせいか?

 箸を取り出して、卵焼きをぱくりと口にする。少しだけ甘塩っぱい味が広がった。たまこさんの作る卵焼きの味だ。

 ――……いつもと同じだな。

 ちょっとした違和感を払拭する。

 清見は弁当を完食すると、午後の仕事に備えて準備を進めることにした。

 帰宅して出迎えてくれたたまこさんを見ると、シッポの蛇も相変わらずゆらゆらと動いていた。そして、たまこさんと似たような目で優しくこっちを見ていた。

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