思い出して思い出す

浅賀ソルト

思い出して思い出す

俺は寝たきりの妻を殺した。何がつらかったですかと聞かれるのだけどとにかく何もかもがとしか答えられない。

親戚や刑事、弁護士には具体的に何が辛かったかと聞かれるのだ。しかし、とにかく何もかもがとしか答えられなかった。具体的というのがどういう意味なのか。具体的という言葉の意味が俺はうまく理解できなかった。とにかく何もかもが辛かった。すべてが辛かった。起きるのも寝るのも休むのも、酒を飲むのも辛かった。

『具体的』という言葉の意味はソーシャルワーカーと会話をすることでやっと理解できた。

この若者は菅田という名前で元は介護士だという。介護よりこちらの方が向いていると思ったので職を変えたのだそうだ。

ソーシャルワーカーといっても別に悩み相談をするわけではない。介護についてのあるあるや、お互いの経験や感じたことをただただ話すだけというものだ。最初は二時間くらい話したのではないかと思う。

それからも定期的にうちに来ては、介護についてのあれこれ思い出話をしていく。

アイスを食べたいと言うので買ってきてはこんなものは食いたくないと言って捨てたものを片付ける。

起きれないと言っては怒り、眠れないと言っては怒る。俺が何も言わないと怒り、喋っているとうるさいと怒る。

我慢して片付けているときにはそれを黙って見ているのに、本当に耐えきれなくて俺が泣きそうになるとそれが一番楽しいとでも言うように笑う。

昔のような陽気な笑いではなく、俺が心底の心底、死にたくなっているのを見て笑う邪悪な笑いだ。

「小さい子供ならあれは無邪気な笑いなんですけどねえ」

菅田は認知症の患者を本当に嫌っていた。愛想のいい奴ではあったが、介護という経験をして、何か別のものを見てしまったのだろう。

俺も同じものを見た。

「ウンコ臭い年寄りだと、邪気しかないもんな」

「ええ」

妻を殺したときは殺意はなかったと思っていた。そう証言もした。とにかく疲れていた。気がついたら首を絞めていた。

一年以上が経過して、一人暮らしをするようになって、菅田とのこの会話を通じて、俺は妻にちゃんと殺意があったんだと気づいた。

俺は菅田にそう言った。

「当たり前ですよ。あれで殺意が湧かない人間はいませんよ」いつも菅田はうちで番茶を飲んでいた。「殺意を覚えるのは時間の問題です。二週間が限界じゃないですかね」

「俺は何年も面倒を見たのに、殺意は分からなかったな」

「感覚が麻痺するんです。まともだと耐えられないから」

「まったくだ。麻痺しないとやってられない」俺も同じように番茶を飲む。「……殺したくて殺したわけじゃない」

「殺して楽にはなったでしょう? 楽をするのは悪いことじゃないですよ」

俺は相槌も打たずに考え事をしていた。この年になると頭の中が迷走して関係ないことばかりに思考が飛ぶ。

妻との出会いや、子供の成長や、ちょっとした喧嘩や、首を絞めたときのロープの感触や。

最近はさらに記憶が戻り、5歳や6歳で川で遊んだり、何か全力で走ったり、母親の体に手加減せずに全力で体当たりして母がもーなんて言って叱ってきたことが蘇えるようになってきた。

父親は戦争で死んだ。

あとは理由はまったく思い出せないが、ひどいことをされて自分でも何がなんだか分からないくらい激昂して涙と鼻水まみれになりながらとにかく腹を立てたことがあった。うーっと自分は唸っていたんじゃないか? うーっと歯をくいしばっていた。うーっ。

あれは何だったんだろう?

「女房が先に死ねばよかったんだ」

「え? なんですか?」

「いや。思ったんだ。なんだってあんな風に寝たきりになったまま生きていたんだろうなって。とっとと死ねばよかったんだ。俺は迷惑をかけられたことに怒ってたんじゃない。生きてることに腹を立ててたんだ。死んでればよかったんだ。最後まで邪魔で、こっちを最悪な気分にさせて。本当に駄目な女房だ」

「ええ、そうです。その通りです」

「うーっ」

俺はなんだか悔しくなって泣けてきた。もうちょっとで子供みたいに泣くところだった。

まだ人前で泣くのを抑えることはできた。

堤防はもう低くなっていて、いずれ本当においおい泣いてしまう日も遠くないんだろうなと思った。

このままうーっと何度も唸ればたぶん目から涙が出るだろう。

「少し気分がよくなりましたか?」

「そうだな。いい気分だ」自分が何を思っていたかが分かった。

「あなたは殺したいから殺したんです。あまり自分のそのときの気持ちを誤魔化さない方がいいですよ。やりたいことをやったんですから。有罪にはなりましたが」

「殺人は有罪だよ」俺は笑った。執行猶予はついたが。

「殺したいから殺したんです。寝たきりで生きてる妻に腹が立って」

「そう」俺は素直に認めた。「生きている女房に腹が立った」

菅田は自分と俺の湯呑みを台所で洗うと、今日はそろそろ帰りますと言った。

俺は玄関から見送った。もう外まで送るのもしんどい。

「ではまた」

「ああ、ありがとう」

手を振るわけでもなく、静かに挨拶だけして菅田は出ていった。ドアがばたんと閉まった。

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