第8話
とりあえず、兄さまの地雷を踏んでしまったことは間違いない。
ここは素直に謝罪しておいた方が良さそうだ。
「そうでしたね、兄さまが怒るのも無理はないですよね。すみません」
「いや、俺の方こそ声を荒げてすまなかった。だが、あの女の名前を二度と俺の前でするな」
「はい、気をつけます」
とりあえず、怒りは収めてくれたようだ。
「それで、ラピテルを譲り受けるということで良いんだよな?」
「そう……ですね」
現在、アクノ家が統治している領地はいくつかある。
今いる現在地『ユグドル』もその一つ。その西に位置するのが『ラピテル』だった。そこを私にくれるという事らしい。
「何だ、全然嬉しそうじゃないな。まさかラピテルじゃ不満とでも言いたいのか?」
「い……いえ!」
不満と言う訳ではない。
ただ、領主なんて一度もやった事がないのに、果たして私に務まるのだろうか。
「そうか、なら既に契約書は作成してあるから、ここにサインをしてくれ。後の手続きは全て俺がやっておく」
兄さまが契約書を取り出し、署名爛の所をトントンと指さす。
ここにサインをすれば領主になれるという事らしい。
話の規模が大きすぎて、現実味が湧かない。
それにこんなに簡単に契約書にサインをしてしまって良いのだろうか。
不安で手が震え、思うようにサインが出来ない。
すると、ペンを握る私の手を優しく包み込むように、兄さまの手が添えられる。
そのまま、促されるように私の名前がすらすらと書かれていった。
「そうだ、それでいい」
「私に……領主が務まるでしょうか?」
「お前は昔から優しい性格だからな、きっと良い領主になれるだろう。ああ、あとお前の荷物はロゼに言って既に馬車に積ませてあるから、すぐここを発つと良い」
「え!? 今すぐにですか?」
「当然だ、これで今日からお前も領主なんだ。領主が自分の領地にいないでどうする?」
言われてみればそうかもしれないが、まるでこうなることが決まっていたようにも感じる。
「じゃあ、達者でな。お互いに忙しい身分だ、中々会う事も難しくなると思うが、一人前の領主として、何があっても俺に頼らず一人で切り抜けらるようになるんだぞ」
「はい……」
どこか、会話の節々で二度と会いたくないような雰囲気を感じさせられる。
そのまま二言三言会話し、流れるように部屋を追い出されてしまった。
部屋を出る時に、私を見つめる兄さまの冷たい視線が忘れられない。
そういえば、過去にも何度となくあの視線を向けられていたのだったか。
ああ……今頃になって理解した。
ロゼが私を呼びに来た時、兄さまの名前を聞いて胸がドキドキしていた理由は、ときめきなんて可愛いものなんかじゃなかった。
おぼろげな幼少期の頃の記憶が、必死に私へ伝えようとしていたのだ。
兄さまを……警戒しろと。
♢♦♢
結局、自分の部屋へ戻っても、そこは既にもぬけの殻だった。
全ては外に待たせている馬車に、積み込まれているという事なのだろう。
何と手際の良い事か、余程嫌われていたということか。
思い返せば、兄さまは私と話をする時はいつも溜息を吐いていた。話をするのも煩わしかったみたいだ。
ただ、あまりネガティブに考えることもないかもしれない。
何故なら、これはアクノ家と関係を絶つ絶好の機会だからだ。
そもそも、幼少期からの記憶はあるけど、私からしたらただの他人だしね。
兄さまとの冷めた関係を知っても、心は穏やかだった。きっと私自身、兄さまが好きではなかったのだろう。
私の興味は今やラピテルへと向いていた。ラピテルに関しては過去の記憶にも残っていない。
きっと一度も行ったことがないのだろう。でも、ここにいるよりはマシな場所ではないだろうか。
それともう一つ、ミラ姉のことも完全に思い出すことが出来た。
「はぁ……ミラ姉かぁ……」
あまり思い出したくもなかったような、そんな気持ちだ。
兄さまが私と話す時に溜息を吐く気持ちが、少しだけ理解出来てしまうのが悲しい所だ。
ミラ姉は、兄さまとは真逆のベクトルで苦手な存在だ。
まぁ、牢獄にいるって言ってたから、会う事もないだろうけど。
そんな事を考えてとぼとぼ歩いていると、いつの間にか表玄関まで辿り着いていた。
玄関前には、既に荷物が積み込まれた馬車が待機している。
「リリージュ様、出発のご準備が出来ております」
「ええ、ありがとう。ロゼとも今日でお別れね」
不思議だ。
どちらも今日会ったばかりなのに、兄さまとの別れはどうでもよくて、ロゼとの別れは少し寂しいと感じてしまう。
「…………」
ロゼに別れを告げ、馬車に乗り込もうとしたのだが、扉前を陣取っているロゼが中に入らせてくれない。
左右に避けようとしても、私の動きに合わせて再び何度も通せんぼしてくる。
「ちょ……ちょっと、ロゼ? どうして通してくれないの? もしかして私……また何かやらかしてしまってるの?」
「はい、そんな素っ気ないお別れは嫌です」
ロゼが再び「嫌です」と声にならない声を絞り出し、抱きしめてきた。
耳元ですすり泣く声が聞こえてくる。
普段は冷静で大人びていると思っていたが、こんな年相応な一面も持っているようだ。
これだけ愛されていたという事が、何だか嬉しく思える。
ロゼの背中に腕を回し、優しく慰める。
「リリージュ様……何か困ったことがあれば、カジノへ足をお運び下さい」
泣きながら、ロゼが耳元で小さく呟いた。
カジノと言えば、この土地『ユグドル』には一つしかない。
つい最近、ミラ姉が一晩で大負けした所だ。
何故カジノなのか疑問はあったが、信頼するロゼがそう言うのだから、きっと助けてくれる何かがあるのだろう。
「ええ……困ったことがあればそうする」
ロゼとお別れをした後、馬車に乗り込む。
ラピテルまでは、馬車で半日程の距離らしい。
貴族生活を満喫するはずが、転生初日からいきなり追い出されてしまった。
それでも、今は新しい領地がどんな所か楽しみでもあった。
……上手くやれるといいけど。
そんな不安と期待を胸に、領地『ラピテル』へと出立した。
♢♦♢
――リリージュ退出後、ギリオンは2階の自室の部屋から外を見下ろしていた。
視線の先ではロゼに見送られ、リリージュが馬車で旅立った所だった。
その光景を見て、自然と笑みがこぼれる。
「ククク……俺の勝ちだ、ミラージュ。お前がいない間にリリージュも追い出してやったぞ! 馬鹿な妹だ、負債を背負わされたとも知らずに、のん気にラピテルに向かって行ったんだからな! クククッ……アーッハハハハハ!!」
一時は60億マーニもの損失という煮え湯を飲まされはしたが、蓋を開けてみれば理想的とも言える状況に、腹の底から笑いが止まらない。
だが、結果を見ればどうだ。
お前は一生牢獄暮らし。
俺は時期、アクノ家当主だ。
器でなかったのはお前の方ではないか。
そして、お前が何よりも溺愛していた馬鹿な妹は、誰もいない荒廃した領地、ラピテルへと向かって行った。
実質の追放、これでもう会う事もないだろう。
――ラピテルとは、最も西側に位置する魔王領から人類を守る為の最後の砦として栄えた場所。しかし、それも今は昔の話。
かつて建てられた建物は既に荒廃し、人が住めるような場所ではなくなっていた。
「リリージュ……お前に罪はないが、悪く思うなよ」
ただ、
妹を守れなかったと知り、泣きわめくあの女の顔を思い浮かべるだけで、嘘のように気が晴れていく。
リリージュ、お前は本当に優しい奴だよ。
俺の為に負債を負い、あの女に一泡吹かせてやれたのだから。
いや、リリージュに罪はないというのは少し違うな。
優しさなんてものは弱さでしかない。
アクノ家の血を引きながら、そんな弱さを持って生まれたこと自体が罪だ。
ならば、やはり追放されて然るべき存在ということだ。
「ふん……アクノ家の面汚しが」
これで邪魔者は全て排除した。
あとは父が息を引き取るのを待つばかり。
それで晴れて、俺がアクノ家の当主だ。
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